太田述正コラム#8565(2016.8.23)
<欧米史の転換点としての17世紀?(その7)>(2016.12.7公開)

「この本の結論部分で、グレイリングは、世界の多くの諸箇所で、今日においてさえ、前17世紀精神が以前「人々の諸生活を積極的にコントロール」していることを認めることを余儀なくされているが、この現象について、彼は、真剣にそれがどうしてかを説明しようと試みていない。

⇒17世紀の前と後を問わず、地理的意味での欧州、或いは、イギリス、と、異なった諸文明が世界にはあったし、今でもある、という認識がグレイリングにもこの書評子にもなさそうなのは、残念を通り越して、彼らの精神が果たして正常なのか、という疑念すら生じさせます。(太田)

 歴史学者が、自分の話題(subject)へのシンパシーの気持ちによって導かれるのは自然なことだが、ここでは、17世紀のイギリスにおける知的諸発展の卓越性(superiority)の独特さについての主張は、極めて薄弱な根拠でもってあまりに大風呂敷を広げ過ぎている。」(C)

⇒「17世紀のイギリスにおける知的諸発展の卓越性の独特さ」の「17世紀」を落とせば、「大風呂敷を広げ過ぎて」はいない、と私は思いますが・・。(太田)

 「真実は、グレイリングが主張するほど自明ではない。
 彼は、彼の物語(narrative)を裏付ける様々ないわゆる(supposed)転換諸点(turning points)を同定するが、これらが、歴史の干満の一部ではなく、一回限りの画期的諸枢軸(epochal pivots)であることを論証することに失敗している。
 例えば、カトリック教会における正統に対する批判に係る寛容を例にとろう。
 1686年に、ベルナール・ル・ボヴィエ・ド・フォントネル(Bernard le Bovier de Fontenelle)<(注18)>が『世界の多数性についての対話(Conversations on the Plurality of Worlds)』を出版し、新しいコペルニクス的太陽中心的宇宙論の輪郭を描いた。

 (注18)1657〜1757年。「デカルト主義的な立場にたつ<フランスの>哲学者・科学者・・・29歳のとき、『神託の歴史』、『アジャオ人物語』、・・・<そして、>多宇宙論の啓蒙書<である>・・・『世界の多数性についての対話』を発表した。『世界の多数性についての対話』は公爵夫人に天文学を教えるという体裁の対話形式の科学啓蒙書である。英語、イタリア語に訳されたほか、ロシアで翻訳されたものは、禁書とされ焚書にされたが・・・地下出版された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%8D%E3%83%AB

 グレイリングは、その50年ないし70年前であれば、「彼は、処罰ないしこれらの諸見解を処罰または禁止命令(proscription)なしで、<この著作を>自由に出版することはできなかった」、と指摘する。
 しかし、グレイリングは、<そもそも、>コペルニクスが自分の理論の初期の概要を、何の問題もなく1510年に出版していることも記述している<のではなかったか>。
 これは、非正統的諸見解に係る寛容が何世紀にもわたって上下動したのであって、17世紀に単純に弱まったというわけではない、という見解を裏付けるものだ。
 例えば、異端審問による最後の処刑はスペインでの1826年のことだったが、中世のアル=アンダルス(Al-Andalus)<(注19)>のイスラム教カリフ(Islamic caliphate of al-Andalus)では、長期にわたって、同地における後継のキリスト教諸王国の多くに比べて、より寛容だった。・・・

 (注19)「イスラーム世界において歴史的にスペインのアンダルシア地方を中心とするイスラーム勢力統治下のイベリア半島一帯のことを漠然と指す呼称。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%AB%E3%82%B9

 時々、彼は、自分の伝えたいことを明確にしておきたいがために、若干の言語道断な諸省略を行うことがある。
 <例えば、かつてイギリス領であったことがある、>ダンケルク(Dunkirk)とカレー(Calais)がフランスによって失われた時のこと<(注20)>触れた際に、彼は、「仮に、今日、欧州大陸の諸箇所が依然英国に属していたならどういう感情(sentiment)が英国内にあるか思いを巡らす」、と述べる。

 (注20)「ダンケルクは中世にはフランドル伯領であったが、1520年にスペイン王兼神聖ローマ皇帝カール5世がフランドル伯を継承したため、その後スペインの統治下に置かれた。<仏西>戦争と英西戦争中の1658年に<仏・英>軍に奪われ(砂丘の戦い)、一時<イギリス>共和国領となった。1662年に<イギリス国王>チャールズ2世がフランスに売却したためフランスに帰属し<、現在に至って>いる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%B3%E3%82%B1%E3%83%AB%E3%82%AF
 「百年戦争中の1347年、長期間の包囲の末、<イギリス>軍によりカレーは占領された。<6>人の市民が、<イギリス>王のエドワード3世の前に出頭し他の市民を救った。この逸話はロダンの彫刻『カレーの市民』の題材となっている。百年戦争の敗北で、1453年以降カレ−は大陸における唯一の<イギリス>領となり、下院に議員を送っていた。1558年1月7日、[アンリ2世治世下、]ギーズ公フランソワが<イギリス>からカレーを奪還した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AC%E3%83%BC_(%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%AA2%E4%B8%96_(%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E7%8E%8B) ([]内)
 『カレーの市民』については、下掲参照。
 この作品エディションの一つが、このたび世界遺産に指定された、東京上野の国立西洋美術館にあるわけだが、スタンフォード大学に習作があったとは知らなかった。↓
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%81%AE%E5%B8%82%E6%B0%91

 <しかし、>前回、私が地図に一瞥をくれた時、<英領>ジブラルタル(Gibraltar<(注21)>)が位置しているのはアフリカ大陸ではなかったが<、どうしてくれる>?

 (注21)「8世紀よりムーア人<領>、レコンキスタ後はカスティーリャ王国<領>、16世紀よりスペイン<(西)領>、18世紀よりイギリス<(英)領>・・・。
 <西>継承戦争が始まると、<墺・英・蘭>の同盟<軍>は<ジブラルタル>の襲撃を繰り返した。1704年8月4日、ジョージ・ルーク提督率いる<英・蘭>艦隊の支援の下、<墺>軍人・・・指揮下の海兵隊がジブラルタルに上陸し・・・占領した・・・。<そこで、仏・西>は・・・奪回のため艦隊を・・・派遣、それを・・・<英・蘭艦隊>が迎撃<し、>・・・<仏・西>海軍<は>撤退した・・・(マラガの海戦)。
 1713年4月11日にユトレヒト条約<が>締結<され、>・・・ジブラルタルはイギリス領として認められ<たが、>・・・その領有権を巡り今も<英・西>間に争いがある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%AB

 また、彼は、ジョン・ロックについて、その<著作である>『寛容に関する書簡(Letter Concerning Toleration)』の中で「無神論者は、諸約束、諸誓約(covenants)、そして諸宣誓…によって縛られることがない」ので、「神の存在を否定する者は寛容の対象になど全くしてはならない」、と主張した、という良く知られた事実<(注22)>に言及することなく、世俗的思考の旗手であると主張している。・・・

 (注22)しかし、ロックは、『人間悟性論(Essay concerning Human Understanding)』の改訂版の中に、必ずしもそうは言えないのかもしれない、という趣旨の一文を挿入している。
https://en.wikipedia.org/wiki/A_Letter_Concerning_Toleration

⇒「注22」からすると、この書評子、「事実」を「良く知ら」ないようですね。(太田)

 証拠を集めて開示することに情熱を傾けつつも、グレイリングは、それを説得力ある形にすることは怠った。」(B)

(続く)