太田述正コラム#8555(2016.8.18)
<欧米史の転換点としての17世紀?(その2)>(2016.12.2公開)

 「科学は、人類の最も遠い直接の諸祖先は、進化の諸霞の中から約20万年前に出現したことを教えてくれる。
 彼らのうちの若干が、自分達の宇宙における位置づけという問題について頭を巡らせたとしよう。・・・
 この長い年月の中で、彼らが、他の諸生物、すなわち、動物達はもとより恐らくは植物達ですら、自分達同様、諸思考や諸目的を有していると考えたことも、同様、自然なことであったに違いない。
 かかる諸信条は、若干の人々達の間で、今日においてすら生き続けている。
 しかし、歴史の、より最近の時点での若干において、恐らくは、この1万年の過程で、我々の世界<である地球>は宇宙の中心にあって、我々人類は、他の全員とは種類が異なっていて、その<地球の>上に生きる、最も高度の最も重要な生命形態である、という観念が普及し始めた。
 知られている最初期の諸文明の頃には、この観念は確固として根を下ろしていた。
 この物の見方(view)は、もちろん、今日の多くの人々の諸頭の中に生き続けている。
 しかし、400年前までは、それは普遍的な物の見方であっただけでなく、いわば、公式な物の見方だった。
 というのも、多くの場所場所において、それを信じない人々は処刑される可能性があったからだ。

⇒そのことを裏付ける史実はありません。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E5%8B%95%E8%AA%AC#.E5.9C.B0.E5.8B.95.E8.AA.AC.E3.81.A8.E6.97.A5.E6.9C.AC (太田)

 殆ど誰でも知っているように、1633年6月にガリレオ・ガリレイ(Galileo Galilei)<(コラム#686、4147、4340以下、6338、7063、7067、7930、7932、7936、7942、7946、7950)>は、地球が太陽の周りを回るという物の見方を「誓って放棄し、呪い、嫌悪する」、と宣言することを異端審問によって余儀なくされた。
 しかし、自分自身を拷問と死から救うために彼が、かかる誓って放棄をしたその瞬間において、その<誓って放棄されたところの>ものは、それが歴史、自然、そして人間の運命、について、それが示唆していた全てのものと共に、完全に異なった世界観(perspective)によって覆され置き換えられたのだ。

⇒ここは、結論が逆でないと次へ話がつながらないと思うのですが、原文の直訳のままにしてあります。
 さて、ガリレオ裁判に関する、「科学と宗教の対立という構図は、19世紀に科学者によってつくられた神話である」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E5%8B%95%E8%AA%AC#.E5.9C.B0.E5.8B.95.E8.AA.AC.E3.81.A8.E6.97.A5.E6.9C.AC 上掲
ことを以前にも記したことがあるはずですが、それに加えて、17世紀にガリレオが抱懐していて問題にされたところの地動説は、そもそも、コペルニクス(後出)が、その前の世紀である16世紀に唱えたもの(上掲)であって、どう考えても、ガリレオ裁判をここで持ち出したグレイリングの気が知れない、と言わざるをえません。(太田)

 ダーウィン(Darwin)<(コラム#431、471、496、1488、1828、3068、3071、3450、3558、4211、3801、6993、7712、7728、8211)>が彼の『種の起源(Origin of Species)』を出版した頃までに、この革命は完結した。
 すなわち、<その頃までには、>人類は、宇宙の旋回軸における被造物の頂点であることを止め、その巨大さが人類の人生の存在など一瞬にして失われる明滅に化してしまうところの、宇宙の中の他の何十億という諸星雲の間の銀河系の端の方に位置する太陽系中の小さな惑星に生息している多数の生物学的諸種のうちの一つ、になっていた。
 16世紀央におけるコペルニクス(Copernicus)<(コラム#1828、4342、7063、7932、7936)>と19世紀央におけるダーウィンの間の期間において起こったところの、一体何が、それまでの何千年もの経過の後にかくも世界観に係る画期的な革命に影響を与えたのだろうか?

⇒「宇宙の旋回軸における被造物の頂点である」との世界観は、「被造物(creature)」と言う言葉遣いを含め、アブラハム系諸宗教において典型的にみられるところの、人間中心主義的な特異な世界観であって、グレイリングが、かかる世界観でもって、16世紀に至るまでの全人類の世界観を代表させているのは、言語道断です。(太田)

 この本の中で、<著者である>私は、17世紀こそがその鍵となる瞬間だった、と主張している。
 すなわち、この世紀において、その権威が立脚していたところの世界観に対する諸挑戦を抑圧することに既得権を有していたところの、宗教的かつ世俗的な諸権力、が共同行動を執ることで、思想に関して行使していた覇権、から逃れる追究(enquiry)を可能にする数多の歴史的諸力が結合されたのだ、と。
 17世紀に働いていた数多の関係諸要素のうちの二つは、第一に、思想の自由の行使を増進させたところの、その前の世紀における宗教改革から引き継いだもの(inheritance)であり、第二に、三十年戦争という、その時点までは欧州では空前であったところの、最も血生臭く破壊的な戦争によってもたらされた、宗教的、非宗教的諸権威によるコントロールの瓦解である、と。」(G)

(続く)