太田述正コラム#8541(2016.8.11)
<一財務官僚の先の大戦観(その65)>(2016.11.25公開)

 「川田総裁が行った日清戦争の戦費調達手法の実際の立案者で、また、川田総裁の意向を受けて日清戦争後の積極的な金融政策の実行にあたったのが、当時、日本銀行営業局長で、岩崎の後に第5代日本銀行総裁(在職、明治31〜36年)となった山本達雄<(注138)>だった。・・・

 (注138)「藩校学古館に学び・・・宗家の養嗣子となるが、実家・養家ともに貧しく、内職で家計を支えた。更に廃藩置県が追い討ちをかけることとなる。17歳で大阪に出て3年間小学校教師をしながら学資を稼ぎ、東京に出て慶應義塾で福澤諭吉に学ぶが、月謝を払うことが出来なかったため・・・明治義塾(三菱商業学校)に転校し、助教を務めながら・・・かろうじて卒業した。・・・<その後しばらくして、>1883年(明治16年)に郵便汽船三菱会社(後の日本郵船)に入った。・・・1890年(明治23年)、当時総裁であった<、三菱の先輩、>川田の要請によって35歳で日本銀行に入行する。1895年(明治28年)には、川田の命により横浜正金銀行の取締役に送り込まれた。更に1896年(明治29年)4月には金本位制実施のための準備のためにロンドンに派遣され、更に翌年にはロンドン滞在中のまま、日本銀行理事に任命された。ところが、1898年(明治31年)10月に日本銀行総裁の岩崎弥之助が辞任すると、山本は突如日本に呼び戻されて第5代総裁に任じられたのである。・・・
 私学出身で中途採用・入行8年目の山本総裁の誕生に対する日銀内部の反感は根強く、また山本自身も一徹者であったために就任からわずか4ヶ月目に幹部にあたる支店長・局長・理事の大半にあたる11名が辞表を提出して山本の失脚を企てた。だが、山本はすぐに辞表を受理して直ちに人事の刷新を図った。これには内外は騒然としたが、伊藤博文や山縣有朋らは山本の方針を認めた・・・
 日本銀行総裁退任後・・・貴族院・・・議員となり、1909年(明治42年)には日本勧業銀行総裁に就任した。<そして>・・・1911年(明治44年)に成立した第2次西園寺内閣において・・・総理に乞われて、財界からの初の大蔵大臣として入閣した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E9%81%94%E9%9B%84_(%E6%94%BF%E6%B2%BB%E5%AE%B6) 前掲
 「1878年(明治11年)3月・・・岩崎彌太郎は、商業の教育機関設立に踏み切<り、>・・・三菱の幹部候補生を育てた。・・・英語、漢学、日本作文、算術、簿記などのほか、英語による経済学、歴史、地理、数学の授業。さらに1年間のインターンシップもあった。・・・修業年限は、予備科3年、本科2年、専門科1年。・・・教官のほとんどが慶應義塾の門下生で構成された。・・・学生数はピーク時で百数十名。いわば明治時代のビジネススクールである。経費はすべて三菱が負担した。・・・西南戦争後に採られた松方デフレの影響下・・・共同運輸との壮絶なビジネス戦争で三菱の資金繰りが逼迫するようにな<り、>・・・1884年(明治17年)に廃校。」
 門下生には、他に、岩崎久弥、馬場辰猪、末広重恭(鉄腸)らがいる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%8F%B1%E5%95%86%E6%A5%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1

⇒明治時代には、政官学業の上澄み部分は、殆ど全て、武士出身の人々、すなわち、藩校等で軍事リテラシーをも身に付けていた人々、で占められていたこと、これらの人々の間で、同志意識的なものがあり、活発に人事交流が行われていたこと、軍事リテラシーとは無縁の「近代」官学教育を受けた「若手」連中が、これらの人々バカにし始めていたこと、等が透けて見えてきますね。(太田)

 日清戦争後に積極的な金融政策を展開した山本であったが、明治30年に我が国が金本位制を導入してからは、金本位制擁護のために、人が変わったように慎重な金融政策を行うようになる。
 「正貨流出問題」が発生したからである。
 それは、国内に金がほとんどない我が国において、金本位制を維持するために必要な施策であった。・・・
 山本は、日露戦争後には蔵相(第二次西園寺内閣、明治44〜大正元年)に就任し、今度は財政当局の立場から金本位制を守るための金利引き上げを高橋是清日本銀行総裁に求めることになる。
 日露戦争後の我が国の状態は、膨大な戦費がかかったにもかかわらず賠償が取れなかった結果、巨額に上った戦時外債の利払いによる金流出もあり、従来にも増して「正貨流出問題」に苦しむというものであった。・・・
 ちなみに、外債<(注139)>の発行によって国内で不足する資金を調達するというのは、当時の政府の大方針でもあった。

 (注139)「秩禄処分の費用を捻出するため<に>・・・1873年<に発行してから>・・・日本は外債を発行しなかった<が、>・・・1899年に<再開、>・・・日露戦争においては総額にして約8億円相当の戦費を調達した。・・・海底ケーブル敷設が一段落すると、1910年に水町袈裟六が仏ロスチャイルドに4億5千万フランを引受けさせて戦費の借換を成功させた。2年後、鉄道債も長期に借り換えるべく2億フランを追加した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%96%E5%82%B5

 そのことは、政府が日露戦争後に外債発行のために敷いた極めて強力な体制を見れば明らかである。
 初代の外債発行の責任者は高橋是清であったが、二代目の帝国政府財政委員(欧州常駐)にはなんと現役の大蔵次官である若槻礼次郎が、続く三代目にはやはり現役大蔵次官の水町袈裟六<(注140)>が充てられたのである。

 (注140)1864〜1934年。東大法卒、大蔵省入省。「大蔵次官、英仏駐在財務官を歴任」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E7%94%BA%E8%A2%88%E8%A3%9F%E5%85%AD
 政府財政委員に代わって置かれた海外駐箚(駐在)財務(事務)官の初代。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%A1%E5%8B%99%E5%AE%98_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)

⇒松元の筆致だと、水町は次官と財務官を兼務したように読めますが、そのあたり、はっきりと書いて欲しかったし、いつから財務官が専任ポストになったのかも教えて欲しかったところです。
 いずれにせよ、大蔵省(財務省)なる役所もまた、英・欧州において、戦費/軍事費の確保(借換分の確保を含む)のために生まれたものであることからすれば、日本の当時の歴代大蔵次官が戦費/軍事費の確保を最大の職務としたのは当然であって、「なんと」から窺える、松元の歴史感覚のなさにはズッコケました。
 なお、「注139」に登場する、海底ケーブルや鉄道が、下掲のように、当時、主として戦争/軍事のためのインフラであったことに注意が必要です。↓
 「日露戦争は、・・・「鉄道戦争」の様相を呈する。開戦と同時に、東海道線・山陽鉄道は「特別運行」体制となった。・・・ロシアも、現実離れした経費節減策・・・によってシベリア鉄道を整備し、日本の予想をはるかに超える大戦力の動員に成功していた。」
http://blog.goo.ne.jp/jchz/e/cb0e5335f8c1e73e8040093166ddddfc
 「19世紀においては、海底ケーブルの主導権は<英国>にあった。ケーブルは高価であり、敷設にもケーブル敷設船など多大な投資を必要とするため、企業が新規に参入するにはハードルが高かった。さらに、ケーブルの絶縁物質であるガタパーチャの生産は、<英国>のガタパーチャ社が押さえていた。1901年の時点で海底ケーブルの総距離はおよそ36万キロメートルに達していたが、以上のような理由により、<英国>はそのうちの63%を占めていた。
 この力を背景に、<英国>は他国の重要な電報を盗聴したり、伝達を故意に遅らせたりするなど、外交面でケーブルを利用した。たとえば、1899年のボーア戦争の時に、<英国>はフランスと南アフリカの電報をすべて検閲し、暗号化された電報は通信しないという対応をとった。
 20世紀に入るころになると、こうした<英国>の独占を崩すため、他国によるケーブル網が広まるようになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E5%BA%95%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%AB (太田)

 四代目も国際的に高く評価された森賢吾<(注141)>であり、五代目は終戦時の大蔵大臣になる津島寿一であった。

 (注141)1875〜1934年。東大法卒、大蔵省入省、「財務官となり<英仏>駐在を命じられた。・・・1919年(大正8年)、パリ講和会議全権委員に任命・・・関東大震災が発生すると、外債募集に尽力し<、>翌年より<米>国駐在を命じられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E8%B3%A2%E5%90%BE

 そして、そのような体制の下に、日露戦争後の日本はロンドン市場における最大の債券発行国の一つになったのである。」(244〜245、247)

(続く)