太田述正コラム#8539(2016.8.10)
<一財務官僚の先の大戦観(その64)>(2016.11.24公開)

 「川田の急逝を受けて第4代日本銀行総裁になり、金本位制導入を実行するとともに、日本銀行が市中金利を直接誘導する仕組みを導入するなどの業績を残したのが三菱の総帥だった岩崎彌之助<(弥之助)(注135)(コラム#4782、8873)>であった。・・・

 (注135)1851〜1908年。貴族院議員、男爵。「三菱財閥の2代目総帥。・・・三菱の創業者・岩崎弥太郎の弟にあたる。・・・土佐藩校の致道館・・・大阪<の漢学者>・・・重野安繹の私塾成達書院<で学んだ後、米留。>・・・父の弥次郎が急逝し、兄の懇願もあって留学を中断し帰国。・・・明治18年(1885年)2月に弥太郎が死亡してからは2代目総帥として三菱の多角化に尽力。・・・三菱の総帥の座を甥の久弥(弥太郎の長男)に譲った後に第4代日本銀行総裁となった。・・・長男・小弥太は三菱の4代目総帥・・・
 学問を好み、蔵書家・美術収集家としても知られた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%B4%8E%E5%BC%A5%E4%B9%8B%E5%8A%A9

 岩崎総裁の時代の日本経済は、前任の川田総裁が日清戦争後に打ち出した積極策の下、極度のオーバー・ローン状態であった。
 市中銀行は日本銀行からの低利融資を原資にして高利で事業会社に貸し出して莫大なマージンを稼ぐ「鞘取り銀行」業務を行っていた。・・・
 取った手形<を>日銀へ持って行く・・・<つまり、>再割引<だが>・・・その鞘を稼ぐ・・・というものであった。
 当時の「鞘取り銀行」の実態は、日銀がいくら市中銀行への貸し出し金利を下げても市中銀行は一般企業への貸出金利を下げず、従って市中金利も下がらないというものであった。
 そこで、岩崎総裁は優良企業への日本銀行からの直接貸付を開始することによって日本銀行が市中金利の低下を直接誘導する仕組みを導入した(明治30年6月14日)。・・・
 なお、日本銀行が直接一般企業に貸し付ける業務は、明治30年に日本勧業銀行などの特殊銀行が整備されるようになって以降、<次第に>行われなくなっていった。・・・
 <すなわち、>明治30年に日本勧業銀行<(注136)>、明治31年から33年にかけて各府県に農工銀行、明治32年に台湾銀行と北海道拓殖銀行、明治35年に日本興業銀行、明治42年に韓国銀行が設立されている。・・・

 (注136)「1896年(明治29年)、農工業の改良のための長期融資を目的に「日本勧業銀行法」(勧銀法)が制定され、翌年に政府を中心に設立された。東京に本店を置き、支店は大阪のみに限られ、それ以外の地域には北海道を除く各府県には事実上の子会社である農工銀行(勧業銀行法と同時に制定された「農工銀行法」に基づく)が設置され、勧銀への取り次ぎまたは勧銀と同等の業務を行った。なお、基幹産業(特に重化学工業)向けには別途日本興業銀行(興銀)が設置され、勧銀との棲み分けが行われた。また、北海道には勧銀や興銀の代わりに北海道拓殖銀行(拓銀)が設置された。
 長期融資が基本であるため、預金が原資とは成り得ず、代わりに金融債の発行が認められ、かつ割増金付きの債券が唯一認められ、発行した(抽選を行い、当選番号の債券を持つ者に対しては割増金付きで償還された。農工銀行や興銀、拓銀も金融債を発行したが、割増金は認められていなかった)。
 だが、農業に関する融資は個々の農家に対してではなく、事業や組合、担保能力のある地主を対象としたために全く融資が進まず、1911年(明治44年)の法律改正で商業に対する融資も解禁された。<そして、>大正末期より市街地の不動産金融に乗り出す一方、業務の重複と機能低下を理由に1921年(大正10年)の法律改正(「勧・農合併法」ともいう)以後、各府県の農工銀行を悉く合併し店舗網を拡大した」」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8B%A7%E6%A5%AD%E9%8A%80%E8%A1%8C

⇒例えばこのくだりは、私の「メインバンク」であるみずほ銀行の最も重要な前身であるところの、勧業銀行の創設の経緯を知ることができた、という意味では面白かったものの、日支戦争/太平洋戦争についての本としては、いくら松元の「得意」分野とはいえ、迂回的説明が過ぎて単なる脱線としか思えない、迂遠な話が延々と続くのには呆れてしまいます。(太田)

 ちなみに、我が国における「鞘取り銀行」の実態が根本的に改められたのは、三井銀行営業部次長を勤めていた池田成彬が、明治30年代の半ばに民間金融機関同士の間で資金を融通しあう制度を提唱してコール市場<(注137)>が誕生してからであった。

 (注137)短期金融<の>・・・銀行間取引市場(interbank market)。「1年未満の資金貸借を行う市場。日本ではコール市場[(Interbank lending market)]が代表的で、1902年より銀行間による資金不足を補う存在として無担保ベースで自然成立し、1927年の昭和金融恐慌を機に、有担保ベースとして正式に行われることとなった。・・・国内決済などを行なう中で、銀行間に資金の過不足が生まれる。このため、資金余剰の銀行から資金不足の銀行へ資金の融通が行なわれる。銀行間市場は、参加者が限定されている上に信用力も高いため、ほとんど無担保で取引される。<現在は、>無担保コール翌日物金利(日本:1985年新設)あるいはFFレート(<米国>)と呼ばれる金利が、取引における短期金利指標である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%80%E8%A1%8C%E9%96%93%E5%8F%96%E5%BC%95%E5%B8%82%E5%A0%B4#.E7.9F.AD.E6.9C.9F.E9.87.91.E8.9E.8Dhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%80%E8%A1%8C%E9%96%93%E5%8F%96%E5%BC%95%E5%B8%82%E5%A0%B4#.E7.9F.AD.E6.9C.9F.E9.87.91.E8.9E.8D
https://en.wikipedia.org/wiki/Interbank_lending_market ([]内

⇒欧米においては、Interbank lending marketは17世紀以来の歴史を有するようであり、
https://www.ecb.europa.eu/home/pdf/research/Working_Paper_412.pdf
日本で欧米的銀行群が生まれてからコール市場成立までにこれだけ時間がかかった理由について、果たして、日本の中央銀行たる日銀のせいだけだったのか、等、もう少し詳しく知りたかったところです。(太田)

 同市場誕生によってそれまでの日銀依存から脱却した大銀行の金融政策に対する発言力は大きなものとなっていった。」(241〜243、263)

(続く)