太田述正コラム#8535(2016.8.8)
<一財務官僚の先の大戦観(その62)>(2016.11.22公開)

 「「円元パー」政策の元になった「円通貨圏構想」は、そもそもは第一次世界大戦中に寺内内閣の勝田<主計(注128)(コラム#4967、8115)>蔵相によって構想されたものであった。

 (注128)勝田主計(しょうだかずえ。1869〜1948年)。「松山藩士・・・の五男。・・・伊予尋常中学、一高を経て、・・・東<大法>・・・を卒業、大蔵省に入省。大蔵次官を経て1914年(大正3年)3月31日、貴族院勅選議員となり、大正4年(1915年)に朝鮮銀行総裁に就任。寺内内閣で大蔵大臣を務めた。大正7年(1918年)、西原亀三と計り、興業銀行、朝鮮銀行、台湾銀行からそれぞれ資金を調達し、総額1億4,500万円という莫大な西原借款を提供する。この借款は主に段祺瑞政権の政治資金として使われ、成果を得るどころか、結局は回収できなかったため・・・非難を浴びた。その後、清浦内閣でも大蔵大臣を、田中義一内閣で文部大臣を務め<た。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%9D%E7%94%B0%E4%B8%BB%E8%A8%88

 第一次世界大戦勃発による英国の金本位制停止(大正3=1914年)は、ロンドンに在外正貨の大部分を置いていた日本の為替決済を困難にさせた。
 そこで、我が国は米国のニューヨーク金融市場での決済を行うこととしたが、大正6年に米国も金本位制を離脱すると、ニューヨーク経由のドル為替決済も機能不全に陥った。
 そのような状況下で、我が国の主要な貿易相手国が集中しているアジア地域での独自の為替決済の仕組みとして構想されたのが勝田蔵相の「円通貨圏構想」であった。
 同構想は、第一次世界大戦後に各国が金本位制に復帰していったことによって、一旦お蔵入りになるが、世界恐慌下で各国が金本位制から再び離脱し、英国がスターリング・ブロック<(注129)>を形成するに及んで軍部主導で復活してきたのである。

 (注129)「世界恐慌からの脱却をめざす<英国>のマクドナルド挙国一致内閣は、緊縮財政の実施、金本位制の停止、保護関税法の導入などの対応策に続き、1932年7〜8月にカナダのオタワで連邦経済会議を開催し、帝国内部で相互に輸出入関税率を優遇し合う特恵制度を導入した。これらの政策は、<英国>は19世紀以来の国際金本位制=ポンド制(事実上<英国>のポンドが世界基準通貨とされていた)と、自由貿易主義(圧倒的な工業力で世界経済を支配した)を放棄せざるを得なくなったことを意味していた。
 そこで、金本位制に代わる国際通貨圏を、ポンドの影響力の強い地域で構築しようとしたのがスターリング=ブロックである。つまりスターリング=ブロックとは「ポンドを基軸通貨とする国際金融体制」であり、具体的にはブロック構成国はロンドンで準備金としてポンドを保有する(スターリング残高)ことが義務づけられた。オタワ会議で成立した関税特恵によって結びつけられた関税ブロックを補完する通貨ブロックがスターリング=ブロックであり、この二つの枠組みによって、<英国>のブロック経済体制ができあがったと言うことができる。
 スターリング=ブロックに参加したのは、<英>本国とオーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ、アイルランドの4自治領(ドミニオン)と英領インド、海峡植民地などの属領、香港・アデンなどの直轄植民地(これらを公式帝国という)だけでなく、<英国>と密接に貿易・金融関係のあった北欧のスカンジナビア諸国、バルト三国、ポルトガル、タイ(当時はシャム)、イラク、エ<ジ>プ<ト(?)>と、アルゼンチンなどの諸国が含まれていた。
 注意するのはカナダ(および後にカナダに編入されるニューファンドランド)が加盟していないことと、<英>連邦以外の国々が参加していることである。カナダは<米>国のドル経済圏と密接な関係がすでにできあがっていたので、首相ベネットは<英国>の経済圏に組み込まれることを警戒し、オタワの連邦経済会議でも<英国>に抵抗していた。そしてスターリング=ブロック発足に当たっては加盟しなかった。一方で、アルゼンチンはこの時期には積極的に<英国>との結びつきを深め、ポンド経済圏に加わった。
 <英国>はこれらのスターリング=ブロックに対して、ポンド決済を通じてイングランド銀行を中心としたシティの金融機関が影響力を強め、「世界の銀行」としての世界経済への一定の力を持ち続けた。しかし一方でカナダのスターリングブロックへの不参加に見られるように、世界全域を覆うヘゲモニーではなくなっていることがわかる。 」
http://www.y-history.net/appendix/wh1504-025.html

 ちなみに、スターリング・ブロックは、ポンドでの決済が困難になったということにとどまらず、日本からの綿製品輸出に対し、差別的な関税や輸入制限等を行って盗難アジア地域から日本製品を排除するものでもあった。<(注130)>

 (注130)「<上記スターリング・ブロック内の>インドの紡績業界は・・・日本綿布がダンピングされてい<て、>・・・損害を受け・・・<てい>るとして、関税引上げを要求した。<これを受け、>インド<、すなわち英印当局、>は、ダンピング防止法を制定して日本へと適用するため、1933年4月に日印通商条約廃棄を日本に通告した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%AF%E7%B5%8C%E6%B8%88

⇒英国は、1926年12月には、私の言う、支那に係る外交革命(コラム#8488)であるところの、赤露の手先である(蒋介石を指導者とする)中国国民党に関する、敵視から支持へと切り替え、でもって日本と政治的に敵対関係に入り、1932年8月〜33年4月には、スターリング・ブロック構築によって日本と経済的に敵対関係に入る、という愚か極まる対外政策を採用した結果、日支戦争/太平洋戦争という形で日本の激しい復仇を受けることとなり、前者に関しては、(香港を除いて)支那における全権益を失い、後者に関しては、インドを含む、全植民地を過早に失う、という致命的損害を被る羽目になったわけです。(太田)

 そのようなスターリング・ブロックに対抗して円ブロックを構築することは正当防衛だというのが一般の受け止め方であった。
 しかしながら、それが、先に見た通り経済合理性を持つものではない形の「円元パー」政策として強行されたことによって、我が国は経済的な敗戦を喫し、その結果、自らじり貧になって先の戦争に突入していったのである。」(230〜231)

⇒松元は、あたかもすり切れたレコードのように、「円元パー」政策による経済的な敗戦なる思い込みを、具体的根拠を碌に上げないまま、ここでも繰り返しています。
 面識はないとはいえ、日本の大学学部及び国家公務員、並びに米国の大学院、の三つもの後輩である間柄の彼の精神構造がどうなっているのか、心配してしまいます。(太田)

(続く)