太田述正コラム#8529(2016.8.5)
<一財務官僚の先の大戦観(その60)>(2016.11.19公開)

 「明治30<(1897)>年の金本位制導入<(注126)>・・・に対しては、実質銀本位制の下で銀の価格低下という「円安」メリットを受けていた経済界から強い反対があった・・・。

 (注126)「金本位制が法的に初めて実施されたのは、1816年、イギリスの貨幣法(55 GeorgeIII.c.68)でソブリン金貨(発行は1817年)と呼ばれる金貨に自由鋳造、自由融解を認め、唯一の無制限法貨としてこれを1ポンドとして流通させることになってからである。
 その後、<欧州>各国が次々と追随し、19世紀末には、金本位制は国際的に確立した。日本では1871年(明治4年)に「新貨条例」を定めて、新貨幣単位円とともに確立されたが、金準備が充分でなかった上に、まだ経済基盤が弱かった日本からは正貨である金貨の流出が続いた。1871年に法律を改めて暫時金銀複本位制としたが実質的には銀本位制となった。日清戦争後に清から得た賠償金3500万英ポンドの金を準備金として実質的に金本位制に復帰した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E6%9C%AC%E4%BD%8D%E5%88%B6
 「1897年(明治30年)10月1日、イギリス金貨(ポンド)で受領する清の賠償金と[遼東半島]還付報奨金をもとに貨幣法などが施行され、銀本位制から金本位制に移行した(ただしイギリスの金融街シティに賠償金等を保蔵し、日本銀行の在外正貨として兌換券を発行する「ポンド為替の本位制」=金為替本位制)。本位貨幣の切り替えによって日本は、「世界の銀行家」「世界の手形交換所」になりつつあったイギリスを中心にする国際金融決済システムの利用、日露戦争での戦費調達(多額の外債発行)、対日投資の拡大など、金本位制のメリットを享受することになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%B8%85%E6%88%A6%E4%BA%89#.E8.B3.A0.E5.84.9F.E9.87.91.E3.81.AE.E4.BD.BF.E9.80.94
 遼東半島還付報奨金受領の経緯は次の通り。↓
 「1895年(明治28年)4月17日下関において、<日清戦争の>日清講和条約が調印されたが、同時に別約として、威海衛に日本の保障占領軍を駐留させることとし、その規模は1個旅団以下とすること、清国政府はその年間駐留費の4分の1にあたる75万円を毎年負担することを定めた。・・・
 <ところが、>4月23日在東京の露、独、仏3国の公使は、外務省に林董(はやしただす)次官を訪ね、日清講和条約中の遼東半島割譲に異議を提起した。ロシア公使の覚書には、大要「遼東半島を日本が領有することは、一、常に、清国の首府に対する脅威となるのみならず、二、同時に、朝鮮の独立を有名無実とするもので、将来極東の永久平和に対し障害となる。ロシア政府は、日本政府にその友好を表すために、遼東半島領有を放棄することを勧告する。」とあった。・・・他の2国の勧告の内容も大同小異であった。・・・<いわゆる三国干渉である。日本政府は、>「日本帝国政府は、露独仏三国政府の友誼ある忠告に基づき、奉天半島を永久に所領することを放棄することを約す。」という、簡単明瞭な回答案を決定した。この案を閣議決定の上、天皇の決裁を得て、駐在公使を通じて、三国政府に伝達した。
 5月9日には、三国政府から、日本の回答に満足するとの通告があって、三国との関係は無事決着をみた。
 それ以前5月8日には、<日清間で>批准書の交換が芝罘(チーフー)で行われ、日清講和条約は、正式に発効した。
 そして、同年11月8日にいたり、遼東半島返還条約が日清間で調印され、日本は還付報奨金として3千万両を受領することが決まった。」
http://misouan.cocolog-nifty.com/weblog/2009/03/post-b5b9.html ([]内も)

⇒話の本筋からは逸れますが、「1898年には、対日賠償金の<ロシアによる対清>援助に対する担保および清国内で起こる排外主義運動に対する責任を理由に「旅順大連租借に関する条約」がロシアと清の間で結ばれた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%BC%E6%9D%B1%E5%8D%8A%E5%B3%B6
ところ、三国干渉の際の露の論理に照らせば、これは、それと完全に舌を噛む、対日開戦行為に等しかった、と言わざるをえません。
 「1897年に宣教師が山東で殺された事件を口実に上陸し、翌1898年には膠州湾を99年間の租借地とし<、>膠澳にはドイツ東洋艦隊の母港となる軍港<を>建設<し>た」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E5%B3%B6%E5%B8%82
ドイツに関しても、基本的に同じことが言えます。
 日本は、ロシアに対しては、日露戦争(1904〜05年)で、ドイツに対しては第一次世界大戦(1914〜1918年)で、それぞれ、復仇を果たすことになります。
 更に蛇足ですが、「大隈重信首相は御前会議を招集せず、議会承認も軍統帥部との折衝も行わないで緊急会議において<、英国からの>要請から36時間後には<第一次世界大戦>参戦を決定した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6%E4%B8%8B%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC
というのですから、大隈は、軍統帥部との関係で明白な統帥大権干犯(明治憲法違反)を犯したことになります。(太田)

 金本位制の採用は、そのメリットを放棄するもので、我が国経済の発展のためにマイナスだという反対論が、福沢諭吉をはじめとして多くの経済人から強力に展開されたのである。・・・
 <ちなみに、>当時、米国では、実質金本位制(明治6=1873年に採用)を金銀複本位制に戻すべきか否かが大統領選挙(1869年)の争点になっていた。
 同論争は、実質金本位制を主張したマッキンレーが大統領になることによって決着した。・・・
 それでも<日本に>金本位制が導入されたのは、・・・[蔵相の
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%96%B9%E6%AD%A3%E7%BE%A9 前掲]松方正義<の、>・・・金本位制を採用している先進諸国と為替リスクなしに貿易できるようにすることが我が国の産業発展の基盤になるとの強い信念であった。
 それは松方デフレで銀紙の格差を無くすことによって国内での「為替リスク」を無くし、安心して商売できるようにすることで経済を活性化したのと同じ発想に基づくものであった。」(222〜223、234)

(続く)