太田述正コラム#8527(2016.8.4)
<一財務官僚の先の大戦観(その59)>(2016.11.18公開)

 「日本銀行券・・・の発行は明治18(1885)年から始まったが、明治21年8月には通貨発行の基本原則である保証発行屈伸制限制度が定められた(保証発行屈伸制限制度法)。
 日本銀行券は、一、・・・正貨準備発行・・・、二、国債、大蔵省証券その他償還の確実な証券または商業手形を保証とする・・・保証発行・・・、三、必要に応じ、発行税を納めた上で大蔵大臣の認可を得て行う制限外発行の三種類の形態で発行されることになった。
 このうち一番目の・・・は・・・銀本位制そのものである。
 二番目の・・・は、今日、世界各国の中央銀行が行っている通貨発行の手法である。

⇒この手法、当時、英仏等の欧米列強の中央銀行がどこも行っていたのかどうか、知りたかったところです。(太田)

 そして、三番目の・・・は、リ−マン・ショックの後に米国の連邦銀行が行うようになった「非伝統的な金融政策」<(注122)>をも可能にするようなものであった。

 (注122)「2008年9月のリーマンショックを契機とする世界経済・金融危機を受けて、各国とも09年に経済成長率が急落し、多くの国でデフレが懸念されるようになる。・・・
 欧米の中央銀行は、急速かつ大幅な政策金利の引き下げを実施した。そして政策金利のゼロ下限に直面、伝統的金融政策から非伝統的金融政策・・・(「信用緩和」、「量的緩和」等)・・・の導入を余儀なくされた。・・・<すなわち、>金融政策の目的が、その前の「物価を抑制し物価安定の水準にする」ということから、「物価を引き上げ物価安定の水準にする」と逆になっ<た。>
http://www.nli-research.co.jp/report/detail/id=52806?site=nli

 それは、当時の諸外国のどこにもない我が国独特の特色を持つ制度であった。・・・
 導入した<のは、>第2代日銀総裁の富田<鐵>之助<(注123)だ。>・・・
 
 (注123)1835〜1916年。仙台藩士。江戸で勝海舟の塾等で学び、慶應義塾に遊学、更に、米国に渡り、ニューアークの商業学校で学び、そのまま明治政府の留学生となり、現地で外交官に採用され、その後、上海、ロンドンで勤務し、帰国すると大蔵省に入り、日銀の初代副総裁に任命され、総裁急逝に伴い、明治21(1888)年総裁に昇格。しかし、蔵相の松方と衝突し、わずか1年7ヵ月で解任。その後、貴族院勅撰議員、東京府知事を歴任、爾後は実業家として活躍。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E7%94%B0%E9%90%B5%E4%B9%8B%E5%8A%A9
 上掲には、制限外発行の話は出てこない。

 何が独特だったのかと言えば、それが江戸時代の藩札<(注124)>以来の管理通貨制度の特色を持っていたことである。

 (注124)「寛永7年(1630年)に発行された備後福山藩の銀札が最初である。もっともそれ以前に伊勢や大和では私札の発行が見られ、現存する日本最古の紙幣ともいわれる山田羽書(1610年)もこれに属する。そもそも貨幣鋳造技術が未発達な当時、土木工事などの賃金の支払いに必要となった大量な小額貨幣の代用と考えられている私札が、藩札の発行へとつながったと見られる。寛永11年(1634年)には自治都市であった今井町において、幕府から許されて藩札と同じ価値のある独自の紙幣として発行された銀札「今井札」が74年を通じて広く近郷でも用いられた・・・
 表向きには金銀などの兌換保証を前提としていた藩札だったが、実際に、それだけの正貨を用意できた藩は少なかった。・・・藩を改易された際には紙くずと成るリスクを有し、また藩の財政状況が悪化しただけで信用力の低下につながる。そのため藩札の運用が行き詰まった場合には、藩札の兌換を巡る取り付け騒ぎや一揆、打ちこわしも発生した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A9%E6%9C%AD

 金の海外流出を招く金兌換券と異なり、誰も兌換を求めてこない銀兌換券の場合、江戸時代の藩札と同じ感覚で準備した以上の通貨発行が行えるとの判断がそこにはあった。
 そして、そのような保証発行屈伸制限制度は、正貨準備の国内保有に制約されることなく経済状況に応じた通貨の国内供給の増加を可能にするものであった。
 昭和に入って井上準之助が行った金解禁デフレを高橋是清が速やかに収束することが出来たのも、この保証発行屈伸制度を活用してのものであった。
 興味深いのは、そのような制度を導入したと見た<鐵>之助日銀総裁が高橋是清と同じ仙台藩<(注125)>の出身だったことである。」(221〜222)

 (注125)「仙台藩では・・・藩札は、貞享・宝永・天明・升屋札・両替所札などがあげられる。・・・<ちなみに、>幕府の許可を得て、藩内流通限定とした天明の大飢饉への救済を名目とした<貨幣、>仙台通宝が天明4年(1784年)11月より作られた。江戸時代の地方貨としては初めての物である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A9%E6%9C%AD 上掲
 「仙台通宝<の>・・・材質は青銅ではなく、<藩内>で豊富に産出していた鉄でできて<おり、>・・・材質が悪いことから嫌われ、藩内でインフレーションを招く一因となったとされるが、経済的な裏付けが乏しかった藩札と異なり、少なからず諸国へ流通した形跡・・・も見られる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%99%E5%8F%B0%E9%80%9A%E5%AE%9D

⇒面白い指摘ですし、日本社会の人間主義性、つまりは、人的・社会的信用の高さ、に着目している私としても、この指摘に乗りたいのは山々ながら、松元は、このあたりの記述に、具体的根拠を挙げていないだけでなく、典拠も一切付けてくれていないのですから、軽々には乗れません。(太田)

(続く)