太田述正コラム#8517(2016.7.30)
<一財務官僚の先の大戦観(その54)>(2016.11.13公開)

 「今日米国で流通しているドル紙幣はグリーンバックスと呼ばれているが、その由来は南北戦争時(1862年)にリンカーン大統領が指導する北軍側が戦費調達のために発行した全国流通の兌換紙幣に遡るものである。<(注109)>・・・

 (注109)松元は、1861〜1862年に発行された Demand Notes のことを指しているつもりなのだろうが、それを「1862年」発行としたのは誤りであるし、これについては、輸入業者が関税の支払いのためだけに使用できたので「全国流通」と書いたのはおかしいし、1861年12月には兌換性が停止されたので「兌換紙幣」と形容したのもいかがなものか。
 なお、Demand Notes だけでは戦費が十分調達できなかったので、1862〜1865年に財・サービス一般の購入に使用できる不換紙幣の United States Notes が発行され、こちらは「全国流通」した。
https://en.wikipedia.org/wiki/Greenback_(1860s_money)
 ちなみに、「裏面が緑色であることからドル紙幣のことをグリーンバックス (greenbacks) という<ところ>、・・・現在の米ドル紙幣は両面が緑色であるが、かつて<は裏面だけが緑色であったことから、現在でも>このように呼ばれている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%90%88%E8%A1%86%E5%9B%BD%E3%83%89%E3%83%AB

⇒ここに限りませんが、松元は、財政金融史に関してさえも精査不足が目立つところ、彼は、大蔵(財務)官僚OBとは思えないし、いずれにせよ、到底、歴史書を書く任にあらず、と改めて痛感します。(太田)

 明治30年に<日本で>金貨の流通しない金本位制が成立した背景を探っていくと、我が国では江戸時代に既に金貨の流通があまり無い官吏通貨的な通貨制度が成立していたことに行き着くことになる。・・・
 実は江戸時代には、地域毎に管理通貨制度そのものも行われていた。
 江戸時代に実際に多く用いられていたのは藩札という地域紙幣だったのである。
 藩札の起源については、寛永14(1637)年に尼崎藩で藩札の試みが行われたとの記録があるが、藩札を最初に発行したのは寛文元(1661)年の福井藩だったとされている。
 ちなみに、当時は多数の私札の発行も行われていた(作道洋太郎『日本貨幣金融史の研究』)。
 福井藩の藩札の発行は、英国で英蘭銀行(<イングランド銀行=>Bank of England)が設立されて銀行券が発行された1694年よりも30年以上も前のことであった。・・・
 藩札に対して幕府は、自らの貨幣改鋳で米価の高騰を招いた宝永4(1707)年には禁止令を出したが、米価の安定を重視し「米将軍」の異名をとった8代将軍吉宗は、享保15(1730)年に、許可制の下に<、改めて>その発行を認めることとした。・・・
 <なお、>各藩は、藩札の信用維持のために、贋造を厳しく取り締まった。・・・

⇒世界最初の紙幣は、支那の北宋時代に、四川地方で、鉄銭の預かり証書として発行された交子(こうし)であるとされていますが、北宋政府はその発行額をどんどん増やし、やがて、兌換性も停止したために信用力が失われて、交子の流通は止まってしまいました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E5%AD%90
 それに対し、イングランド銀行券もそうですが、日本の各藩札は信用力を失わず、幕末まで各藩内で流通を続けたのですから、ここは、松元の言うように、日本の各藩札こそ、世界最初のまともな紙幣群であった、と言ってよいでしょうね。
 但し、既に述べたように、私は、この背景には、日本社会の人間主義性がある、と見ているわけです。(太田)

 藩札の発行は、経済的発展の度合いの高い西日本諸藩で顕著だったとされている(『近世武家社会の政治構造』)。
 藩札は、しばしば藩の専売制度の運営と一体となって導入された。
 藩札は、成長通貨の供給ということを超えて政策金融による産業育成の目的も持っていたのである。
 それは、藩による一種の投資銀行業務であった。・・・
 その手法(「国産会所仕法」)は、地元の有望な特産品に資金を供与して生産させ、藩の設けた国産会所が独占的に買い上げて販売し、その振興を図るというものであった。
 <ちなみに、>ヨーロッパにおける投資銀行は、1822(文政5)年にベルギーでソシエテ・ジェネラル<(注110)>銀行が設立されたのが最初である。

 (注110)「ベルギーがまだネーデルラント連合王国の一部であった・・・1822年に・・・総合商社が立ち上がった。フランス語でソシエテ・ジェネラル・デ・ベルギーというが、江戸幕府に資金を提供した<、フランスの>ソシエテ・ジェネラル銀行とは異なる。・・・ウィレム1世が発起人であり、彼とその家族が株式の大部分を保有した。この会社は旧教会領や工業会社のデベロッパーとして大掛かりな抵当貸付を営む一方、政府銀行家として国債を発行したり、中央銀行として発券したり貯蓄銀行の資金を預かったりした。・・・
 1851年に<設立された>ベルギー国立銀行<の前身の一つ。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%AE%E3%83%BC%E5%9B%BD%E7%AB%8B%E9%8A%80%E8%A1%8C

⇒松元は、日本で、世界最初の投資銀行群も出現した、と示唆しているわけですが、このあたりの彼の記述は・・例外的にですが・・啓発的です。(太田)

 なお、産業革命で先行した英国では、投資銀行は工業化には役割を果たさなかったとされている(ロバート・C・アレン『なぜ豊かな国と貧しい国が生まれたのか』56頁)。・・・

⇒イギリスには産業革命はなかったという話はさておき、同国は個人主義/資本主義社会なのですから、経済活動の助長に政府が関わる、という発想がそもそもない、ということでしょうね。(太田)

 なお、藩による専売制度の導入は、年貢が中心だった江戸の税制においては農業以外の分野への実質的な課税の試みでもあった。」(187、189、191〜192)

(続く)