太田述正コラム#8509(2016.7.26)
<支那は侵略的?(その4)>(2016.11.9公開)

宋が、938年に支那(漢人)から独立したベトナムを、その43年後の981年に奪還しようとしたのは、ベトナムが、1000年間にわたって支那の支配下にあったこと、独立後も積極的に漢人的文化を維持し続けていたこと、等からすれば、侵略とは言い難い面もあったというのに、宋がベトナム奪還に失敗したのは、投入した兵力量だけとっても当然でした。
 ベトナムが 陳朝(1225〜1400年)となっていたところの、13世紀の、モンゴルによる累次のベトナム侵攻は、第一次侵攻(1257年)は、モンケ治世下のモンゴルによる南宋に対する南からの攻撃の支作戦に過ぎず、第二次侵攻(1285年)は、フビライ治世下の、モンゴル改め元が、南ベトナムのチャンパ王国への遠征を行っていたことに対して協力的ではなかった陳朝に腹を立てて、遠征目的を急遽陳朝征服に切り替えたもので、どちらも元側の態勢が万全ではなかったのに対し、同じフビライ治世下の元による第三次侵攻(1287〜88年)は、前述したように、大兵力による本格的なものでした。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B3%E6%9C%9D
 もとより、前黎朝が宋の侵攻を撃退した981年の時と比べて、約200年後の陳朝による元の侵攻撃退時には、両王朝の国土の広さこそほぼ同じだけれど、「黎朝では開墾と生産が奨励され、多くの水路が開削され」、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E9%BB%8E%E6%9C%9D
陳朝でも、「食糧の増産が推奨され、未開の土地の開拓と並行して灌漑、水利工事が実施された」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B3%E6%9C%9D
結果、人口、すなわち、確保可能な兵力量は相当増大していたことでしょうが、それにしても、元の9万の兵力に対するに、宋は、わずか1万5,000余の兵力しか投入せず、いや、できず、しかも、元の大兵力をもってしてもベトナムの征服はできなかったのですから、宋の侵攻がいかに軍事音痴的な無謀極まりないものであったかが分かろうというものです。

 今度は、五百旗頭が最後に言及していた、明によるベトナム征服についてです。
 (彼が、明の永楽帝(1360〜1424年。皇帝:1402〜1424年)が、1406〜1407年の侵攻に、80万人の兵力を投入したとしているのは、日本語のウィキペディアが21万人、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E6%A5%BD%E5%B8%9D
英語のウィキペディアが215,000人
https://en.wikipedia.org/wiki/Ming%E2%80%93H%E1%BB%93_War
としていることから、記憶違いないしは校正ミス、でしょう。)
 明のベトナム征服の経緯は以下の通りです。↓

 「1400年・・・、安南を支配していた陳氏(陳朝)が胡<氏>に簒奪され(胡朝)、胡氏がさらに南方の占城(チャンパ王国)を攻撃した。占城のジャヤ・シンハヴァルマン5世が明に援軍を求めてきたため、・・・安南に・・・1406年・・・に遠征し(明胡戦争、明・大虞戦争)、直轄領とした(第四次北属期、1407年〜1427年)。直接の動機とされた「安南国王の孫」を名乗る陳<某>の永楽帝による突然の安南王擁立と、それを安南に送り返して胡氏に殺害されるという事件の経緯の不可解さから、明側による謀略説も存在する・・・。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E6%A5%BD%E5%B8%9D
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0

 これは、元によるベトナム侵攻ほど一方的なものではないけれど、明による事実上の侵略、と言っても差し支えありますまい。
 ここで、思い出してください。
 永楽帝とは、「1405年<から、>・・・宦官鄭和をして<何度も>大艦隊を南海方面に派遣し・・・、東南アジアからアフリカ東海岸に及ぶ30以上の国々に朝貢させ、明朝の威信をアジア中に及ぼした。・・・<この>大航海は7度行われ、アフリカ大陸東岸にまでに達した(<最後の>7度目は孫の<事実上の次代たる>宣徳帝の代に行われた)。」という人物であったことを。
 そして、この壮大な試みは、結局、事実上永楽帝一代で終了してしまっていることも・・。
 同じことが、永楽帝によるところの、満州「侵略」・・「東北方面でも女真族の勢力圏、黒竜江河口まで領土を拡大し<た>」・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E6%A5%BD%E5%B8%9D 前掲
やベトナム「侵略」についても言えるのであって、宣徳帝は、この「満州地区を放棄<するとともに、ベトナム>からの撤兵を決定した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%A3%E5%BE%B3%E5%B8%9D 
のです。
 私見では、永楽帝による各方面への広範な「侵略」は、軍事音痴という漢人文明の伝統とはかけ離れた、軍事に長けた皇帝が突然変異的に生まれ、その皇帝が個人プレイ的に行ったものでしかなかったのです。
 その永楽帝に関して、「モンゴル側の史料で<、>・・・永楽帝の生母は大元ウルスの順帝トゴン・テムルの妃でコンギラト部出身の女性であり、<明の創建者にして永楽帝の父親の>洪武帝が後にその女性を娶った際に彼女はトゴン・テムルの子を妊娠中であり、従って永楽帝はトゴン・テムルの子であると記されている」、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E6%A5%BD%E5%B8%9D 前掲
というのは興味深いものがありますね。

(続く)