太田述正コラム#8507(2016.7.25)
<支那は侵略的?(その3)>(2016.11.8公開)

 ベトナムが独立した時点において、ベトナムの宗主国だったのは、五大十国時代の「十国」の一つである南漢でしたが、五代十国時代(907〜960年)は、「唐の滅亡から北宋の成立までの間に黄河流域を中心とした華北を統治した5つの王朝(五代)と、華中・華南と華北の一部を支配した諸地方政権(十国)とが興亡した時代<であるところ、>五代十国時代が始まる年代としては、唐が完全に滅亡した907年が取られている<けれど、>実際には全国王朝としての唐は875年から884年にかけて起きた黄巣の乱によって滅んでおり、その後は長安を中心とした関中地域を支配する一地方政権としての唐と朱全忠や李克用などの節度使勢力が並存する騒乱状態だと言うことができる」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E4%BB%A3%E5%8D%81%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3
わけです。
 そんなご時世だったのですから、ベトナムが、五大十国のいずれが宗主国だったとしても、愛想を尽かすとともに、これぞ好機、と独立を試みても不思議はなかったところ、南漢は、とりわけ、宗主国の名にふさわしくない国制の、しかも、人口100万人程度の小国でした。
 ふさわしくない国制、というのは、南漢(909(皇帝を称したのは917年)〜971年)が、「同時期に存在した他の五代十国政権と違い、軍人主導ではなく文官が優越しており、地方官には全て文官があてられていた<ところ、>この理由としては、唐代の中央での権力争いに敗れた官僚たちの左遷先として当時未開の地だったこの地方が選ばれており、左遷された後も住み着いた者が多く、そのような人々の子孫達や戦乱の続いた中原から逃れてきた人士が南漢勢力に参加したからである。
 <(ちなみに、>劉晟<(920〜958年。皇帝:943〜958年)>の代になると宦官が重用され、宦官の数も約7,000人から劉晟の在位末期には約2万人に増加し、全人口の2%(成人男性の1割近く)が宦官という状況に陥る。後を継いだ劉<(943〜980年。皇帝(最後):958〜971年)は大勢の文官を粛清し、空いたポストに宦官を登用、登用したい人物がいた場合はわざわざ去勢してから登用したという<。)>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%BC%A2
という、頗るつきに軍事を軽視した(、しかも、いかがわしい)国であったからです。
 以上のような背景の下、ベトナムが、呉権
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89%E6%A8%A9
を頭目として938年に南漢からの独立を図った時、南漢の(事実上の)劉晟の先代で、初代皇帝の劉●(●:「龍」の下に「天」。889〜942年。皇帝:917〜942年)は、約10,000の兵をベトナムへ派遣し、海上から白藤江を遡る形で戦ったのですが、呉権の巧妙な戦術にひっかかって、5000人以上の死者を出して敗北してしまい、ここにベトナムは、1000年間の隷属の後、ついに、支那からの独立を果たすのです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E8%97%A4%E6%B1%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84_(938%E5%B9%B4)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%BC%A2 前掲
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E3%82%B2%E3%83%B3

 このベトナムの独立が確実なものとなったのは、支那に、再び出現した統一王朝である宋(北宋)によるところの、981年のベトナム奪回の試みが挫折したことによってです。
 なお、この間、ベトナムの方でも、下掲のような、目まぐるしい王朝交代が生じています。↓

 「最初の民族王朝呉朝が成立<するも、>・・・965年に十二使君の乱が起こり、966年に丁朝が成立<し、>980年に<は>黎桓が前黎朝を興し<た。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0

 この時、支那との間で、2度目の白藤江の戦い(981年)が行われるのですが、今度は支那側が大勝利を収めます。
 ところが、前黎朝の王の「黎桓は<、この>敗北の後、兵を集め北宋軍の疲弊をひたすら待った<ところ、宋の>将軍が油断したため、黎桓は嘘の降伏文書を送り届けて騙すことに成功<し、この将軍>はこれを真の降伏文書と考えて軍備と警戒を怠り始めた<ので、>・・・黎桓は夜陰に乗じて・・・<北宋>の軍営を襲い、<この将軍>は戦死<させ>た。この後、戦線は膠着し<、>北宋軍に折しも熱病がはやり、多くの兵卒が死んだため、<同軍は>・・・撤退し、戦争が終結した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E8%97%A4%E6%B1%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84_(981%E5%B9%B4)
という経過を辿り、北宋は、折角戦闘には勝ったというのに、戦争には負けてしまうのです。
 軍事音痴の北宋といえども、さすがに南漢よりは少しは軍事に長けていたと見るべきなのか、それとも、単に、北宋が南漢と同じ轍は踏まなかっただけなのかは定かではないものの、南漢が大敗北を喫したのと同じ場所での戦闘に大勝利を収めたにもかかわらず、結局、戦争には負けたのは、北宋が、1万5,000人程度であった黎軍より、少し上回る程度の兵力しかベトナム奪回作戦に投じなかったらしい(上掲)ことが最大の要因だと思います。
 その背景にあるのは、やはり、宋の軍事音痴性であり、恐らくは、それ以上の兵力、ないしは交代兵力を派遣できるほど総兵力量に余裕がなかったのでしょうし、それならば、そもそも奪回作戦など試みなければよかったわけですが、そのような冷静な判断を下す軍事的才覚もまた、宋は持ち合わせていなかった、ということなのでしょうね。
 なお、ベトナム側の戦後処理の巧みさも特筆すべきでしょう。↓

 その後、「黎桓はただちに北宋に使者を遣わし、捕虜を返還するなどの外交努力をもって関係を正常化した。」(上掲)
 そして、前黎朝の次の李朝(1009〜1225年)は、「科挙の実施による・・・人材の登用、儒学・仏教の奨励などで文化<を支那>化<させ>て著しい発展を遂げた<ものの、>・・・北宋・・・との間で・・・しばしば国境問題が発生していた<ところ、>宋は神宗の即位後、宰相の王安石の主導で積極策に転じてベトナム経略を図った<が、>これに対して李朝は、1075年に機先を制して・・・水陸から宋に侵攻し、欽州・廉州・邕州などを攻略して引揚げ<、>宋側は反撃してベトナム奥地まで攻め入ったものの、戦果を挙げることができずに帰還し・・・<、最終的に、李朝>は有利な条件で和睦することに成功・・・した・・・<。その>一方、宋側は逼迫する国家財政の再建に追われることとなった。
 <そして、李朝は、>1174年には南宋から「安南国王」に冊封され、冊封体制の中で最高度の独立性を持つ属国として認められた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E6%9C%9D_(%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0)

(続く)