太田述正コラム#8456(2016.6.13)
<一財務官僚の先の大戦観(その52)>(2016.10.14公開)

 「軍部は、満州事変以降には、統帥権の独立を楯に中国大陸で独立国家のような行動をとるようになる。
 それだけでなく、外交に責任を持つべき外務大臣の権威をも認めないとの姿勢をとるようになる。・・・
 北岡伸一によれば、当初、陸軍と外務省の間の対立は大きなものではなかった(『官僚制としての日本陸軍』)<のだが・・>。・・・

⇒ここでも、どうして両省の対立が抜き差しならぬものになったのかを、松元は追求していません。
 私は、かねてから、蒋介石政権に対して宥和的に過ぎた幣原外交(第一次幣原外交:1924〜27年)が、英国をして、同政権に対して日本以上に宥和的な政策へと大転換をさせることとなり・・1926年12月26日に英国政府は、いわゆるクリスマス・メモランダムを発表・・
https://books.google.co.jp/books?id=R6rnCgAAQBAJ&pg=PT67&lpg=PT67&dq=Christmas%E3%80%80Memorandum%E3%80%80UK%EF%BC%9BChina&source=bl&ots=reOhPuaABD&sig=fcfe6fu1rW1giTUeu8j1jRcSFUE&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwjV-cmF1KTNAhUGLaYKHfcCD4YQ6AEIHTAA#v=onepage&q=Christmas%E3%80%80Memorandum%E3%80%80UK%EF%BC%9BChina&f=false
、1927年の第一次南京事件や漢口事件(コラム#4504、4510、4534、4986、5426)を契機に、日本世論の蒋介石政権に対する怒りが高まったこと、及び、日英間に決定的な離間が生じたこと、をもって、陸軍の外務省に対する不信感が確立した、と見ているところです。
 すなわち、私に言わせれば、外務省は、日本の世論、ひいては陸軍に対して、自ら自分の権威を失墜させてしまったのです。(太田)

 例えば、駐ドイツの大島浩大使館付陸軍武官は、日独伊三国同盟に向けて勝手な外交交渉を行った。
 そのような動きは、天皇が板垣征四郎陸相に「天皇の憲法上の外交大権は、軍の干渉すべきものではないと叱責」(『昭和の動乱』)しても止まることがなかった。・・・

⇒事実は下掲の通りです。
 「<駐伊大使の>白鳥は[、1938年10月8日に独駐在武官から駐独大使へと「格上げ」されていたところの、]大島と連携して防共協定強化、つまり日独伊三国同盟の推進を図った。・・・
 本国<は、それならば、と>同盟は基本的にソ連を対象としたものであることを説明するよう訓令したが、白鳥らはこれも無視した。<1939年>3月22日には五相会議が「すぐに有効な軍事援助はできない」という意図を伝えるよう決定し、もし両大使が従わない場合は召還するという方針を決めた。これを昭和天皇に上奏すると、天皇は「その旨を文書にするべし」と指示し、五相会議のメンバーによる念書が天皇に提出されている。しかし白鳥らは訓令を拡大解釈し、独伊が英仏に対して宣戦する場合は、日本も宣戦すると明言した。
 この行為に天皇は、白鳥らの行為が天皇大権を侵すものであると激怒した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E9%B3%A5%E6%95%8F%E5%A4%AB
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B3%B6%E6%B5%A9 ([]内) 
 つまり、外務官僚の白鳥と軍事官僚の大島が、提携して、日本政府に対して下剋上を敢行したのであり、松元がこれを外務省と陸軍の対立、後者による前者に対する越権行為として紹介したのは、あらゆる機会を捉えて軍部を貶めたい、と思っているからこそでしょう。
 天皇の怒りも、大島単独ではなく、あくまでも大島と白鳥両名に対するものであったというのに・・。
 なお、そんな松元ですから、当然と言うべきですが、天皇の統帥大権に藉口した、陸海軍の特権ないし専断的言動を累次批判していながら、天皇の外交大権発言まで持ち出しつつも、その大権に藉口した、外務省の特権ないし専断的言動の批判は全く行おうとしていません。
 もとより、戦後の日本の歴史学者達が、外務省批判につながるような、戦前の外務省の「特権ないし専断的言動」の洗い出しを怠ってきた、という恨みはありますが・・。(太田)

 重光葵は、「いかに理想を取り入れた立派な憲法でも、その国上下の構成員すなわち国民が、これを日常の生活の上に活用して、身をもってこれを守るというのでなければ、憲法はいつの間にか眠ってしまう。
 昭和の動乱は、憲法の死文化にその原因があることは、日本の将来に対する大なる警告である」と述べている(『昭和の動乱』)。・・・

⇒明治憲法を含め、日本の憲法には規範性がない、という私の見解に照らせば、こんな記述は、およそナンセンスです。
 重光は、統帥大権や外交大権についての明治憲法制定時の解釈の墨守を主張したのでしょうか、はたまた、大正から昭和初期にかけての議院内閣制は明治憲法の死文化である、と主張したのでしょうか。(太田)

 満州事変後には、革新官僚を目指す役人が満州に出向し、現地で仲間を作り、軍人とのつき合い方を体得し、豊富な機密費の調達ルートを固めて出身省の要職に戻るコースが理想的とされるようになる。

⇒何が問題なのか、さっぱり分かりません。(太田)

 外務省が「陸軍省外務局」と軽口をたたかれるほどになったのである。・・・<(>秦郁彦『官僚制の研究』125、204頁<)>」(179〜180、182)

⇒初めて聞く言葉ですが、仮にそのような軽口をたたかれるようになったとすれば、前述したことからして、外務省の自業自得というものです。(太田)

(続く)