太田述正コラム#8448(2016.6.9)
<一財務官僚の先の大戦観(その48)>(2016.10.10公開)

 「軍部の暴走を許したもの・・・

⇒こういう問題設定がそもそもナンセンスなのですが、先に進みましょう。(太田)

 明治18年12月に定められた内閣制度では、プロイセン型の強い首相が予定されていた。
 各省大臣はその省務に関して単独で天皇を輔弼するが、その事務については総理に報告するとともに統率に従うとされ(内閣職権7ヵ条、明治18年12月)、内閣総理大臣は「須要と認むるときは行政各部の処分又は命令を停止せしめ親裁を待つこと」(第3条)とされた。
 ところが、明治22年に明治憲法が指定され、その下に定められた内閣管制は、明治初年と同様の姿に戻っていた。
 総理はその他の大臣に対して同業者中の第一人者だとする英国型とされ、各省大臣は天皇を単独で輔弼するとされたのである。
 もっとも、英国型としたことによって当時の指導者たちが弱い首相を想定していたかは疑問である。
 英国の運用の実態は、内閣全体として国王(国政)を輔弼することによって強い首相となっていたからである。
 東京帝国大学法学部の憲法教授だった美濃部達吉は、明治22年の内閣官制第5条が「左ノ条件ハ閣議ヲ経へし」として法案、予算案、条約案、官制などをあげ、更に「其ノ他各省主任ノ事務ニ就キ高騰行政ニ関係シ、自体稍(やや)重キモノハ総テ閣議ヲ経へシ」と定めていたことから、首相が閣議の主宰者として強い権限を発揮する英国の実際の運用が正しいとしていた。・・・
 <しかし、実際の運用はそうならなかった>結果、明治憲法下の首相のポスト<(注94)>は、時によっては、そのなり手がいないくらいに魅力のないものになった。・・・

 (注94)「1889年(明治22年)に大日本帝国憲法が発布されるが、同法においては「内閣」や「内閣総理大臣」について直接の規定は明記されず、同第55条において「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス」と明記されたのみであった。また、同時に「内閣職権」を改正する形で制定された「内閣官制」において「内閣総理大臣ハ各大臣ノ首班トシテ機務ヲ奏宣シ旨ヲ承ケテ行政各部ノ統一ヲ保持ス」(2条)と、その権限は弱められた。
 権限としては、「内閣総理大臣」は「同輩中の首席大臣」として天皇を輔弼する存在とされ、「内閣」は各大臣の協議と意思統一のための組織体と位置付けられた。したがって、いったん閣内に意見の不一致が起こると、内閣総理大臣は各大臣の任免権が無く大臣を罷免することは出来ず、説得や辞任を促すことくらいで、これが失敗すれば内閣総辞職するしかなかったのである・・・。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E9%96%A3%E7%B7%8F%E7%90%86%E5%A4%A7%E8%87%A3

⇒戦前の首相ポストが松元の言うように魅力のないものであった、ということを裏付ける典拠が直接付されていませんし、私自身、聞いたこともありません。(太田)

 明治22年に内閣官制が定められて初めて開かれた第一回帝国議会において、当時の総理だった山縣有朋は民党による予算削減の混乱を受けて辞職するが、山縣から後任の推薦を受けた伊藤博文はそれを峻拒し、その結果、大隈重信からは「薩摩に生まれなかったならば、せいぜい知事くらい」とされていた松方正義<(注95)>の内閣の成立になったのである。・・・

 (注95)1835〜1924年。「明治期の日本において内閣総理大臣を2度(第4・6代)務めるとともに大蔵卿、大蔵大臣(初・第2・第3・第4・第6・第8・第11代)を長期間務めて日本銀行を設立したり、金本位制を確立するなど、財政通として財政面で業績を残した。また、晩年は元老、内大臣として政局に関与し影響力を行使した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%96%B9%E6%AD%A3%E7%BE%A9

⇒本件から始まって、引用は省きましたが、引き続き、いくつか、同様の事例が挙げられていたところ、やはり、それらに直接典拠が付されていないこともあり、そのいずれも、事実かどうかを確認することができませんでした。
 そもそも、大隈重信の松方評なるものも怪しい限りです。
 「尾崎行雄<が>松方を「鈍重」と評し、「(松方が)もし薩摩人でなかったら総理大臣になれなかったろう。先輩が皆没したため回り回って薩摩の代表になった」にすぎないと記している」(上掲)のは確かのようですが・・。(太田)

 <そして、>首相のポストは、岡田啓介首相ら重臣の多くが暗殺の目標とされた二・二六事件以降になると、ほとんど押し付け合いとなった(<青木一男>『昭和大蔵外史』)。・・・
 明治憲法が抱えていた弱い首相(内閣)という欠陥を早くから認識し、それを政党政治で支えようとしたのが憲法を起草した伊藤博文であり、後に同様の認識を持ったのが桂太郎であった。
 伊藤博文が、明治33年に政友会を組織したことはよく知られているが、山縣有朋の直系だった桂太郎(陸軍大臣)も、第一次護憲運動(大正政変)で自らの内閣が倒されるといった時流の変化の中で、英国流の政党制導入を志すに至ったのである。・・・

⇒伊藤や井上毅が目指したのは、帝政ドイツ流の政党であったのに対し、山縣や桂が目指したのは、大隈重信同様、英国流の政党であった、という整理ができるかどうか、機会があれば検証してみたいと思います。(明治憲法の性格に係るコラム#7820等の記述参照)(太田)

 桂が亡くなった5年後、我が国初の本格的政党内閣の首相となった原敬(大正7年〜10年)が目指したのが、政党が政治の責任を負うことによって、天皇が「玉」として<重臣や側近等によって>利用される慣行を無くすことであった。
 天皇は伊藤博文によって「我が国に存て機軸とすべきは独り皇室あるのみ」とされていたが、福沢諭吉によって「帝室は政治社外のもの」とされ、山縣有朋によって「政体は立憲君主制を執り、政治は民本主義でなければならぬ」ものとされていた。
 この流れをくんで原敬は「皇室派政治に直接御関係なく、慈善恩賞等の府たること」としようとしたのである(『昭和天皇と戦争の世紀』)。
 原は、天皇をそのように位置づける反面、首相のポストを美濃部が考えていたように英国型の強い存在にしようとした。・・・
 <ちなみに、>原の試みの背景にあったのが、明治40年に西園寺内閣(原内務大臣)が定めた公式令<(前出)>であった。
 公式令は、すべての法律、勅令に首相の副署を必要として強い首相を実現できる根拠になりうるべきものであった。
 しかしながら、皇室に関する諸規定と軍機軍令にかかわる事項が例外とされたために、昭和に入るとかえって皇室を利用した軍部の暴走の根拠になってしまった(『昭和天皇と戦争の世紀」196〜198頁)・・・
 重光葵によると、満州事変に際して、不拡大方針の幣原喜重郎外相が金谷範三参謀総長に電話で連絡したことに関して「外務大臣から電話に呼び出されるような参謀総長では、軍の最高幹部としての威信を維持することは出来ぬという議論が中堅将校から起こり、陸軍は閑院宮<(注96)(コラム#3776、4386、4548、6260、6296、7634、8042、8412)>元帥を参謀総長拝することとした。皇族を擁してロボットとなし(中略)政府及び一般を威圧しようというのであった。(中略)海軍もこれに倣って伏見宮<(注97)(コラム#5610、6274、8412、8438)>を立てて軍令部総長とした」。・・・

 (注96)閑院宮載仁親王(1865〜1945年)。幼年学校・仏サン・シール陸軍士官学校、ソーミュール騎兵学校、仏陸軍大学校、仏軽騎兵第7連隊付。「1912年(大正元年)に陸軍大将となり、1919年(大正8年)には元帥府に列した。・・・1931年(昭和6年)に参謀総長に就任」、1940年10月退任。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%91%E9%99%A2%E5%AE%AE%E8%BC%89%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B
 (注97)伏見宮博恭王(1875〜1946年)。海軍兵学校中退、独海軍兵学校、独海軍大学校。「1931年(昭和6年)末、陸軍参謀総長に皇族の閑院宮載仁親王が就任したのに対し、1932年(昭和7年)2月、海軍もバランスをとる必要から、博恭王を海軍軍令最高位である軍令部長に就任させた<(1941年4月退任)>。・・・海軍軍令部の呼称を軍令部に、海軍軍令部長の呼称を軍令部総長に変更、更には兵力量の決定権を海軍省から軍令部に移して軍令部の権限を大幅に強化し、海軍省の機能を制度上・人事上弱体化させることに成功して軍令部は海軍省に対して対等以上の立場を得ることとなった。こうして日独伊三国同盟・太平洋戦争(大東亜戦争)と時代が移る中で海軍最高実力者として大きな発言力を持った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E5%8D%9A%E6%81%AD%E7%8E%8B

⇒重光からの受け売りの閑院宮参謀総長就任のいきさつの真偽を確かめることはできませんでした。(太田)

 <ここで、話を戻すが、>しかしながら、原の試みは腹の暗殺によって未完に終わってしまう。
 それは、原自らが招いた政党政治の腐敗による自滅という側面も持っていた。」(170〜176、181)

⇒具体的な話がこの後続くのですが、とりあえず、指摘しておきたいのは、これは、原の責任というより、複数の政党、理念型的には2つの大政党が、政権の座を巡って議席数を争う、という、アングロサクソン流の政治体制が、階層間の、或いは、地域間の、差異に乏しい、等の特異性・・実は普遍性のある特異性であるわけですが、その話には立ち入りません・・のある日本には適合的ではないために、必然的に腐敗をもたらしてしまったためだ、ということです。(太田)

(続く)