太田述正コラム#8438(2016.6.4)
<一財務官僚の先の大戦観(その45)>(2016.10.5公開)

 「日本を開戦に追い込んだとされるABCD包囲網(米、英、中、蘭による包囲網)は、昭和16年7月2日に開催された第一回御前会議の内容を伝える・・・パープルと(紫)と呼ばれていた・・外交暗号電報が傍受され、各国の強硬姿勢があらかじめ準備されていた結果であった。・・・
 日本は予定通り7月28日、南部仏印上陸を開始する。
 その途端です。
 8月1日、アメリカは石油の対日輸出の全面禁止を通告してきました。・・・
 当時の日本の石油備蓄は平時で3年弱、戦時で1年半とされていた。
 そこで「座して死を待つよりは」ということになったのであった。・・・
 <ちなみに、>第一次世界大戦中にドイツに対して行われた経済封鎖の結果、ドイツでは女性と子供を中心に76万人もの餓死者が出ていた<(注88)>(『昭和天皇と戦争の世紀』)。・・・

 (注88)食糧及び石油不足による。但し、この数字には、1918年に流行したスペイン風邪による死者21万人弱が含まれている。
https://en.wikipedia.org/wiki/Blockade_of_Germany

 当時、駐日米国大使だったグルーは、米国の強硬姿勢は日本を戦争に追い込むとしてハル国務長官に政策変更を求めたが、グルーの進言は、ハル国務長官によって「世界史の中で、絶望的な状態で戦争に突入した国など無い」といって拒絶されたのである(ジョン・エマーソン『嵐のなかの外交官』)。

⇒よく耳にする話ではあるものの、これが日本を対英/蘭戦争に追い込むという趣旨であったのか、対英/蘭/米戦争に追い込むという趣旨であったのかが重要です。
 後者だとすれば、グルーが、日本政府部内における英米一体論を、日本の外務省から聞いたのか、海軍からも聞いたのか、が知りたいところです。
 というのも、石油等の確保のためには、米本土に侵攻しなければならないことから、全く意味をなさない対米開戦ではなく、対英/蘭開戦で足りたはずであり、それなら「絶望的な状態で戦争に突入」することには必ずしもならないからです。(太田)

 日米開戦を決めた昭和16年11月2日の大本営政府連絡会議は、以下のようなものであった。
 「賀屋興宣<(注89)>蔵相が言います。

 (注89)海外経験は「1927年(昭和2年)ジュネーブ海軍軍縮会議、1929年(昭和4年)にはロンドン海軍軍縮会議に、それぞれ全権団の随員として参加。」くらいであり、訪米したことがあるのかどうかすら疑問。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%80%E5%B1%8B%E8%88%88%E5%AE%A3

 『私はアメリカが戦争をしかけてくる公算は少ないと判断する。結論として、戦争を決意することがよいとは思われない』

⇒松元がこの議論の前提を端折っているのは困ったものですが、対英・蘭攻撃については既に衆議一決していた、という前提の話である、として、その経歴からして、賀屋がこんな(英米一体論否定という)見識を吐くことができるほど米国に通じていたとは思えません。
 陸軍のアングロサクソン通が賀屋にこれを吹き込んだのであれば面白いのですが・・。
 (例えば、台湾軍司令官から第14軍司令官に転補される際に上京していたと想像される、本間雅晴
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E9%96%93%E9%9B%85%E6%99%B4
あたりが・・。)(太田)

 続いて、東郷茂徳外相も反対論を述べます。
 『私も米艦隊が攻撃に来るとは思わない。今、戦争をする必要はないと思う』

⇒東郷も、その経歴から見て、ドイツ・フェチであり、かつソ連通ではあっても、アングロサクソンに関しては土地勘が皆無であると思われる
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E9%83%B7%E8%8C%82%E5%BE%B3
ことからして、彼が、外務省の英米一体論なる「省是」に反する主張をこの時展開したのは、単に、「もともとは対米強硬派であったが、昭和天皇から直接、対米参戦回避に尽くすよう告げられてただちに態度を改め<た>」(上掲)だけのことであったと思われます。(太田)

 これに永野修身軍令部総長が答えました。『来たらざるを恃むことなかれ、という言葉もある。先のことは一切不明だ。安心はできないのだ。3年たてば南の防備(南方の米英蘭の防備)は強くなる。敵艦も増える。』
 賀屋興宣は再び言います。
 『ならば、いつ戦争をしたら勝てるのか』
 『今! 戦機は後には来ない。今がチャンスだ』
 永野はこう答えたといいます」(『昭和史1926〜1945』)」(149〜151、158)

⇒結局、最も責められるべきは、海軍ということになります。
 永野については、この記述の通りですし、時の海相嶋田繁太郎は、「就任時は不戦派だったが、<当時軍令部総長であった>伏見宮から「速やかに開戦せざれば戦機を逸す」と言葉があり、対米不信、物資への関心からも開戦回避は不可能と判断し、10月30日に海軍省の幹部たちを呼んで「この際、戦争の決意をなす」「海相一人が戦争に反対した為に戦機を失しては申し訳ない」と述べ、鉄30万トンで対米開戦に同意した。また、海相に就任した嶋田がこれまでの不戦論を撤回し、陸軍に対して協調的態度を取った事により、遂に日米開戦は不可避となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B6%8B%E7%94%B0%E7%B9%81%E5%A4%AA%E9%83%8E
という次第であり、彼が極東裁判で死刑にならなかった・・終身刑・・(上掲)、というか、海軍で死刑になった者がいなかった、
https://ja.wikipedia.org/wiki/A%E7%B4%9A%E6%88%A6%E7%8A%AF
ということが割り切れない思いです。(太田)

(続く)