太田述正コラム#8434(2016.6.2)
<一財務官僚の先の大戦観(その43)>(2016.10.3公開)

 「そもそも、軍需物資の生産、流通が円滑に行われなかった原因には、首相の東条自身が経済合理性を理解しない指導者だったこともあった。
 東条が陸軍次官だった時に、池田成彬蔵相が「軍需工業を興すためにも、積極的に資本を投下して各社の配当額を上げなければ」としたのに対して、東条次官は「軍需産業が儲けるとは何事だ。配当なんぞはもってのほかだ」と激高したエピソードが伝えられているのである。・・・

⇒池田は、実学を重視(注78)し、そのこともあって経済界で活躍する者の多い(注79)慶應義塾の出身であり、留学先の米ハーヴァード大
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E6%88%90%E5%BD%AC 前掲
で市場原理主義に染まったと想像される上、その後、大財閥中、最も「公」観念の希薄な三井財閥(注80)の総帥を務めた人物だったのに対し、東条は、旧制中学相当の陸軍幼年学校入学(東条のウィキペディア)以来、「公」観念を叩き込まれ続けて人となった人物であり、かつ陸軍軍人として、徴兵された兵士達を通じて国民世論の動向にも通暁していたはずであり、理は東条の方にあったと見るべきであって、松元のように、東条を「経済合理性を理解しない」と貶めるなど、もってのほかです。
 そもそも、当時、官僚(軍官僚を含む)の主導の下に、有事に藉口したところの、江戸時代のプロト日本型政治経済体制の工業化社会における再構築であるところの、日本型政治経済体制構築が現在進行形であったのであり、それが「公」観念を重視するものであったことを想起すべきでしょう。(太田)

 (注78)「実学の精神<は、>・・・福澤が慶應義塾の理念として掲げた指針。これは「実際に役に立つ学問」の意味であると誤解されがちであるが、福澤は単なる知識に終わらず、物事の本質や理念や仕組みを理解した上で体得する学問のことを指している。どうやら福澤が意図したものが今日に言う「科学」のことであることは、「実学」の語に「サイヤンス」とルビを振っていることからも分かる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B6%E6%87%89%E7%BE%A9%E5%A1%BE
ともされているけれど、福澤が実際に慶應義塾で行ったのは、語学校としての文学科、その名の通りの理財科、そして法学科の創設であって、専門職業教育の域を出なかった上、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B6%E6%87%89%E7%BE%A9%E5%A1%BE%E5%A4%A7%E5%AD%A6#.E7.90.86.E5.B7.A5.E5.AD.A6.E9.83.A8
同義塾において、大学院の設置よりも幼稚舎から大学学部までの一貫教育の樹立を優先させた(コラム#省略)のであり、通俗的な意味での実学を、彼が重視したことは否めない。
 (注79)「慶應義塾出身の社長は上場企業の社長で一番多い」
http://blog.livedoor.jp/worldnews7/archives/41452265.html
 (注80)「昭和金融恐慌の際、三井<は>ドルを買い占めたことを批判され、財閥に対する非難の矢面に立つことにな<り、>1932年(昭和7年)3月5日、・・・三井財閥の総帥・・・團琢磨<が、>・・・東京日本橋の三越本店寄り三井本館入り口で血盟団の菱沼五郎に狙撃され、暗殺された(血盟団事件)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%98%E7%90%A2%E7%A3%A8
 その「三井財閥を防衛し、その改革を託された<のが、新たに三井財閥の総帥となった>池田成彬<だった。なお、三井は、>・・・<これまた国民の信頼を失いつつあったところの、在来の(太田)>政界にも多くの幹部を送り込み、立憲政友会は三井財閥が、立憲民政党は三菱財閥が資金をまかなっていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E4%BA%95%E8%B2%A1%E9%96%A5

 当時、産業報国運動<(注81)>が展開される中で、私利私欲に走る資本家への批判が行われていた(井上寿一『理想だらけの戦時下日本』166頁、迫水久常『機関銃下の首相官邸』152〜153頁)。・・・

 (注81)「1938年結成された産業報国連盟を中心に自主的運動をたてまえに全国的に始った産業報国運動は戦時体制の強化とともに次第に官製化するにいたり,[産業報国,労使一体のイデオロギーのもとに・・・内務・厚生省主導によ<って>]40年11月4日閣議は勤労新体制確立要綱を決定,これに基づいて産業報国連盟は解散し,同年11月23日大日本産業報国会が設立された。」
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%94%A3%E6%A5%AD%E5%A0%B1%E5%9B%BD%E4%BC%9A-91826
 「当初,官僚側の戦時労資関係制度への構想は,労資一体の理念のもとに待遇問題をも協議しうる労資懇談制度を普及させること・・・ついで労働組合法制定<であったが、>・・・資本家側は,従業員に対する指揮命令権をあいまいにするような指導精神や待遇問題も協議対象とするような労資懇談制度に<も労働組合法制定にも>同意しなかった。」
https://kotobank.jp/word/%E7%94%A3%E6%A5%AD%E5%A0%B1%E5%9B%BD%E9%81%8B%E5%8B%95-1169868 ([]内も)

⇒現在のドイツの株式会社には、労使懇談制度があります(コラム#省略)が、その起源がナチスドイツ期なのかどうか、知りたいところです。(太田)

 各部門間の深刻な連携の原因は、軍部自らが振り回したご都合主義的な天皇機関説と統帥権の独立であった。・・・
 統帥権の独立は、ドイツに倣ったものとされているが、ドイツではヒトラーが総統兼首相になると自らの権力を確立するために早々に否定した。・・・
 両者は、いずれも出先の勝手な行動を正当化したことによって、関係部門間での調整を困難なものにした。
 天皇機関説に関して、石原莞爾は、「昭和維新方略(昭和13年<(1938年)>)において「天皇機関説ヲ排撃セシ人々ハ自ラ天皇機関説ヲ実行シテ疑ハサルモノ」と批判していた。

⇒石原がこのようなことを記したのは、「警察<は、>・・・出版法違反を理由に美濃部議員の著書『憲法撮要』『逐条憲法精義』『日本国憲法ノ基本主義』の3冊を発禁処分とした。また文部省は「国体明徴訓令」を発し、これにもとづいて政府は、1935年(昭和10年)8月3日と同年10月15日の2度にわたり、「国体明徴に関する政府声明」(国体明徴声明)を出して統治権の主体が天皇に存することを明示し、天皇機関説の教授を禁じた」、という、いわゆる天皇機関説事件によって、既に天皇機関説が禁止された
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E6%A9%9F%E9%96%A2%E8%AA%AC%E4%BA%8B%E4%BB%B6
後のことであり、このような石原の「文学的」記述を引用することで、松元が、一体、何を言わんとしたのか、分かるようでよく分かりません。
 また、戦前の統帥権の独立を論ずるのであれば、外交権の独立も併せ論じなければならない(コラム#省略)ところ、松元は、それも怠っています。(太田)

 陸海軍間での連携の不備が、直接、軍事面での敗戦にまで招いたのがレイテ島の攻防戦であった。
 昭和19年10月、米軍のレイテ島上陸作戦を前に海軍が台湾沖海戦(10月13、14日)で敵空母を覆滅する大戦果を挙げたと発表。
 陸軍は、それを前提として従来の計画を変更し「満身創痍の米軍」がレイテ島に上陸(10月20日)してくるのを打ち破るべく大決戦を企画するが、ほとんど無傷の米軍を前に壊滅的な打撃を受ける。」(140〜141)

⇒これは、陸海軍の連携の不備ではなく、当時の海軍、ひいては軍部の情報収集・分析能力のお粗末さを示す事例にほかなりません。
 なお、それはそれとして、ここでも、本来、松元は、明治維新後の内外諸戦争における陸海軍の連携/軋轢、及び、同時期の、英米等におけるそれら、との比較を行うべきでした。(太田)

(続く)