太田述正コラム#8426(2016.5.29)
<一財務官僚の先の大戦観(その39)>(2016.9.29公開)

 「昭和16年<(1941年)>12月の日米開戦の頃からは赤紙一枚で誰でも徴兵されるようになり、国内産業は人手不足から生産力を一層低下させていった。

⇒1941年には、経済成長率は、前年のマイナス6%からプラス1.6%へと急速に回復しており、
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/4430.html 前掲
松元が何を言っているのか理解不能です。(太田)

 戦争への動員による人手不足の中で「産めよ殖やせよ」<(注65)>と子だくさんが推奨された。

 (注65)「昭和13年(1938<年>)、突如として人口増がたった30万人という、驚くべき低い数字になってしまいました。
 ・・・当時の厚生省<は>人口減少に危機感を強め、昭和14年9月30日、子供を増やそうというスローガンを発表します。それが「結婚十訓」です。・・・
(1)一生の伴侶に信頼できる人を選べ
(2)心身ともに健康な人を選べ
(3)悪い遺伝のない人を選べ
(4)盲目的な結婚を避けよ
(5)近親結婚はなるべく避けよ
(6)晩婚を避けよ
(7)迷信や因襲にとらわれるな
(8)父母長上の指導を受けて熟慮断行せよ
(9)式は質素に届けは当日に
(10)産めよ殖やせよ国のため
 ・・・この最後の「産めよ殖やせよ(増やせよ)」が有名になって、一人歩きしていったわけです。」
http://www.tanken.com/umeyo.html

 昭和17年には、日露戦争に際して「君死にたまふことなかれ」と詠んでいた与謝野晶子<(注66)(コラム#3081、5678、7387、7485)>が「水軍の大尉となりてわが四郎み軍に行く猛く戦え」と詠んだ。

 (注66)1878〜1942年。「与謝野鉄幹と不倫の関係になり・・・女性の官能をおおらかに謳う処女歌集『みだれ髪』を刊行し、浪漫派の歌人としてのスタイルを確立した。のちに鉄幹と結婚、子供を12人出産している(うち1人は生後2日で亡くなる)。・・・
 晶子は「嫌戦の歌人」という印象が強いが、・・・第一次世界大戦の折は『戦争』という詩のなかで、「いまは戦ふ時である 戦嫌ひのわたしさへ 今日此頃は気が昂る」と極めて励戦的な戦争賛美の歌を作っている。満州事変勃発以降は、戦時体制・翼賛体制が強化されたことを勘案しても、満州国成立を容認・擁護し、1942年(昭和17年)に発表した『白櫻集』で、<日露戦争当時>の歌「君死にたまうことなかれ」とは正反対に、戦争を美化し、鼓舞する歌を作った。例えば、「強きかな 天を恐れず 地に恥ぢぬ 戦をすなる ますらたけをは」や、海軍大尉として出征する四男に対して詠んだ『君死にたまうことなかれ』とは正反対の意味となる「水軍の 大尉となりて わが四郎 み軍にゆく たけく戦へ」など。・・・
 <但し、>日露戦争当時に「幸徳秋水の反戦論は大嫌いだ」と<も>公言している・・・
 <また、>シベリア出兵を日本の領土的野心を猜疑され日露戦争の外債による国民生活の疲弊を再び起こす、と反対<も>している。・・・
 1915年(大正4年)に・・・『駄獣の群』という国会や議員に対する不信を詠う長詩を発表した。・・・
 政治評論については反共産主義、反ソ連の立場から論陣を張った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8E%E8%AC%9D%E9%87%8E%E6%99%B6%E5%AD%90

⇒晶子は、「産めよ殖やせよ」の模範のような女性であったわけですが、松元の晶子評の薄っぺらさには呆れます。
 私見では、晶子の考え方は一貫しているのであって、(人間主義的対外戦略の一環としての)日本の対外戦争には賛成しつつも、できるだけ人命の損傷が小さいことを冀う、というものであったのです。
 もっとも、彼女はシベリア出兵にだけは反対したわけですが、ロシア革命が、彼女が恐らく人間主義的に理解していたところの、共産主義革命であったからであり、その後、ソ連の体制が非人間主義的であることを知り、反赤露に転じた、というか、反露であったところの、彼女本来の考え方に回帰したのであろう、というのが私の理解です。(太田)

 昭和18年からは300万人の学徒が軍需工場での生産に動員され、12歳から39歳までの未婚の女性が女子挺身隊<(注67)>に登録された。

 (注67)「二次世界大戦において、<米英>などの連合国は日本に先んじて既に女性を軍需工場などに動員していた。・・・
 女子挺身勤労令によって14歳〜40歳の内地(日本)の女性が動員された。
 <なお、>日本統治下の朝鮮の女性への適用は検討されたが、適用されることはなかった。・・・
 しかし、強制性<が>な<く>官斡旋<だったが、朝鮮人の>女子挺身隊は内地の工場<で働かされ>た。1944年6月頃から日本の富山の不二越工場に1090人(そのうち約420人は1945年7月に朝鮮の沙里工場へ移動)、名古屋の三菱航空機道徳工場へ約300人、東京麻糸紡績沼津工場へ約100人が学校の教師に引率されて派遣された(終戦直後に帰国)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B3%E5%AD%90%E6%8C%BA%E8%BA%AB%E9%9A%8A

 昭和20年には800万人以上が兵役に採られた。
 そして、兵役のない朝鮮人と中国人についても約100万人が徴用<(注68)>されて、日本の工場や鉱山で働かされたのであった(『日本の200年』)。」(123)

 (注68)「1938年(昭和13年)3月に国家総動員法、翌1939年(昭和14年)7月に国民徴用令(国家総動員法第4条に規定された勅令に相当)を公布して国民の職業・年齢・性別を問わずに徴用が可能となる体制作りを行った。・・・1942年(昭和17年)には企業整備令が公布され、平和産業や軍需転用が困難な中小企業や商工業者は強制的な統廃合処分を行い、余剰人員を動員に振りあてた。1943年(昭和18年)の国民徴用令・国民職業能力申告令の改正によって徴用制度の整理と効率化が図られ、国家が必要と認める場合にはいかなる職能の技能・技術者でも指定の職場に徴用可能(「新規徴用」)とし、また特定の企業・業務従事者を事業主以下企業全体を丸ごと徴用することも可能(「現員徴用」)とした。その結果、1944年(昭和19年)3月までに288万人余りが徴用され、一般労働者全体の2割を占めるまでになり、結果的には強制的な産業構造の変化と労働者の配置転換を全国的に行う事態に至った。
 <しかし、>徴用拒否<が>1943年〜1944年頃には深刻化して徴用制度そのものが崩壊の危機を迎えた。このため、学徒勤労動員や女子挺身隊の名目で学生や女子などの非熟練労働者に対する動員が行われた。
 終戦時に<は、>・・・616万人が徴用されていた。
 1944年9月より朝鮮人にも適用され、1945年8月の終戦までの11ヶ月間実施される。日本本土への朝鮮人徴用労務者の派遣は1945年3月までの7ヵ月間であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B4%E7%94%A8
 「<支那>では労働力が過剰で出稼ぎに出す必要があり、一方、日本では労働力が足りなかった。そうした状況のなか、一部の労働者を日本に連れてきたのだ。
 労務者の募集や移動は、日本政府や企業ではなく、<支那>の労務統制機関である華北労工協会が取り仕切ったという。
 日本に連れてこられた労働者は、正規の労働契約を結び、「<支那>で通常支払われるべき賃金を標準とし残留家族に対する送金をも考慮してこれを定めること」という配慮もされていた(華人労務者内地移入ニ関スル件・昭和17年11月27日 閣議決定)。
 日本に来た労働者は、自由な募集に応じた人もいるが、捕虜も含まれていたようだ。・・・
 さらに「華人労務管理要領」によれば、契約期間(およそ一年間)も決められ、これを優良な成績で完了したなら当時の金額で最高100円の賞与を与えるとしている。当時の陸軍二等兵の年俸<は>およそ70円だった・・・。」
http://the-liberty.com/article.php?item_id=7454

⇒「野口悠紀雄など一部の学者からは、戦後日本の労働制度と戦時中の徴用制度の共通性を指摘する意見も出されている。」(上掲)わけですが、野口
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E5%8F%A3%E6%82%A0%E7%B4%80%E9%9B%84
とおなじく大蔵省(財務省)出身の松元は、徴用を否定的にしか見ていないようですね。
 また、松元が、朝鮮人のみならず、支那人も徴用されたかのように記しているのも問題です。(太田)

(続く)