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太田述正コラム#8422(2016.5.27)
<一財務官僚の先の大戦観(その38)>(2016.9.27公開)

 「そのような世相の変遷の背景にあったのが、昭和13年4月に可決・成立した国家総動員法<(注62)>であった(第73帝国議会、第一次近衛内閣)。

 (注62)「この法案は青木一男や植村甲午郎らの指揮の下、当時企画院を中心とした革新官僚と呼ばれた軍官僚・経済官僚グループによって策定された。・・・
 概要は、企業に対し、国家が需要を提供し生産に集中させ、それを法律によって強制することで、生産効率を上昇させ、軍需物資の増産を達成し、また、国家が生産の円滑化に責任を持つことで企業の倒産を防ぐことを目的とした。・・・
 戦後の産業政策に見られるように経済官僚が産業を統制する規制型経済構造を構築した契機となった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E7%B7%8F%E5%8B%95%E5%93%A1%E6%B3%95
 「企画院<の>・・・前身は1935年(昭和10年)5月10日に設置された内閣総理大臣直属の国策調査機関である内閣調査局にある。・・・、1937年(昭和12年)5月14日に企画庁へ改組。同年10月25日に内閣資源局と統合し企画院が発足した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%81%E7%94%BB%E9%99%A2
 「革新官僚<とは、企画院ができた後、同>・・・院を拠点として戦時統制経済の実現を図った官僚層のことをさす。のちに国家総動員法などの総動員計画の作成に当たった。・・・逓信省出身の奥村喜和男が電力国家管理案を実現してから注目されるようになった。星野直樹企画院総裁、岸信介商工次官ら満洲で経済統制の実績を挙げていた高級官僚、および美濃部洋次、毛里英於菟(ひでおと)、迫水久常らの中堅官僚が知られる。モデルはソ連の計画経済であり、秘密裡にはマルクス主義が研究されていた。現に革新官僚たちはソ連の五カ年計画方式を導入した。革新的・社会主義的な立案を行ったため、「共産主義」として小林一三らの財界人や平沼騏一郎ら右翼勢力から強い反発を受け、1941年に企画院事件を生じた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%A9%E6%96%B0%E5%AE%98%E5%83%9A 
 青木一男は、「企画院の創設に携わり、次長に就任、1939年(昭和14年)には総裁となる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E6%9C%A8%E4%B8%80%E7%94%B7 前掲
 植村甲午郎(1894〜1978年)。祖父は旧幕臣。一中・一高・東大法。商務省入省。「資源局調査課長を務めた後、企画院調査部長となり、国家総動員法策定の指揮を執る。1940年(昭和15年) 企画院次長。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%8D%E6%9D%91%E7%94%B2%E5%8D%88%E9%83%8E

 国家総動員法は、戦争のために国内の労働力と資源を最大限有効に活用するために、国民生活や企業活動全般にわたる統制権限を政府に白紙委任する法律であった。
 国家総動員法の成立によって、明治憲法下の議会制民主主義は、その機能を麻痺させられ、日本の経済・社会が軍部主導の戦時体制に移行していくことへの歯止めはなくなった。

⇒国家総動員法の起案は、日支戦争という有事下において、非軍事官僚達の手によってなされ、議会において議決成立したものであって、松元は、とんだ寝言を言ってくれたものです。(太田)

 そのような国家総動員法に対しては、政友会と民政党が反対したのに対して、社会大衆党はそれを社会主義の模型を導入するものだとして積極的に賛成した。
 帝国議会の審議においては、社会大衆党の西尾末広<(注63)(コラム#4713、5297、5596、5678、5804、5814)>代議士が賛成演説を行い、それを「憲政の神様」といわれた尾崎行雄<(注64)(コラム#250Q&A、3885、4528、4606、4614、4752、4915、5026、6177)>が応援するといった情景が展開されたのである(『昭和史1926〜1945』)。」(122〜123)

 (注63)1891〜1981年。「小学校中退後、14歳で大阪砲兵工廠の旋盤工見習を皮切りに各地の工場で働く。住友鋳鋼場職工から労働運動に身を投じ、・・・中央大学を経て、1928年(昭和3年)、第1回普通選挙で社会民衆党から立候補し、初当選。・・・
 1938年(昭和13年)3月16日、衆議院本会議における国家総動員法案の審議に際し、同法案を支持する立場から、近衛文麿首相に対し「ヒトラーのごとく、ムッソリーニのごとくあるいはスターリンのごとく、確信に満ちた指導者たれ」と激励する。全体主義的独裁者への共鳴を示したが、社会大衆党を好ましく思っていなかった政友会・民政党の両党によりスターリンの名を肯定的に挙げた部分が問題とされ、衆議院で除名決議において賛成320票・反対43票で88%の賛成を得て、西尾は議員を除名された(翌年の補欠選挙で復活)。
 1940年(昭和15年)3月、斎藤隆夫が行った反軍演説の議員除名問題では、反対の立場を示し衆議院本会議を欠席する。社会大衆党書記長麻生久による幹部除名策略によって党首安部磯雄や水谷長三郎らとともに党除名処分を受けた。1942年(昭和17年)の翼賛選挙では非推薦で当選する。翼賛政治会や大日本産業報国会と距離を置き、密かに東條英機内閣の倒閣運動にも加わった。・・・
 <戦後、>社会党首班政権の片山内閣が組閣された際には、内閣官房長官として入閣。翌年の芦田内閣では副総理に就任」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%B0%BE%E6%9C%AB%E5%BA%83
 (注64)1858〜1954年。慶應義塾、工学寮で学ぶ。この間、キリスト教徒となる。「明治23年(1890年)の第1回衆議院議員総選挙で三重県選挙区より出馬し当選、以後63年間に及ぶ連続25回当選という記録をつくる(これは世界記録でもある)。・・・明治36年(1903年)から同45年(1912年)まで東京市長に就任・・・
 第一次世界大戦後・・・欧州視察の外遊に出る。当初は対外硬派として知られたタカ派であったが、この<欧州>視察で戦争の悲惨さを見聞して以後は、態度を変化させ一貫した軍縮論者となった。・・・また、ポピュリズム化を危惧して普通選挙の早期施行には消極的であったが、大正デモクラシーの進展とともに普通選挙運動に参加。同時に、次第に活発化していた婦人参政権運動を支持し、新婦人協会による治安警察法改正運動などを支援した。また軍縮推進運動、治安維持法反対運動など一貫して軍国化に抵抗する姿勢や、西尾末広と反軍演説を行った斎藤隆夫の除名に反対の意思を示す(棄権など)など議会制民主主義を擁護する姿勢を示した・・・。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BE%E5%B4%8E%E8%A1%8C%E9%9B%84

⇒以前に何度か指摘したことですが、当時の日本国民の過半は、明治維新後に日本が継受したところの、アングロサクソン流の資本主義なる経済システムと二大政党が競い合う形の議会制なる政治システム、に幻滅感、不信感を抱いていて、それぞれの担い手である、資本家や政治家よりも、(軍事官僚を含む)官僚により期待を寄せるに至っており、このような期待に応えるという意味もあって、非軍事・軍事官僚が提携する形で、まず、満州で、日本型政治経済体制の試用版を実地検証し、それを踏まえて、日本本土で、その本格版を導入した、ということなのです。
 これまでの旧二大政党・・政友会系と民政党系・・に代わって勢力を伸張してきていたところの、無産政党の西尾末広や、最も内外情勢の変化に敏感であったからこそ、驚異的な当選回数を数えることができていたところの、尾崎行雄が、国家総動員法に積極的に賛成したことに、松元が違和感を表明しているのは、彼の、この当時に係る歴史認識の浅薄性、倒錯性を如実に物語るものです。
 なお、松元は言及していませんが、革新官僚達のソ連の計画経済やマルクス主義への関心について一言。
 前者への関心については、軍事力/重工業力を中心とする経済力の質的量的向上を図るにあたって、計画経済の先例を参考にするのは当たり前です・・但し、ソ連の政治経済体制は固い組織で経済全体を覆いつくしていたのに対し、革新官僚達が構築しようとしていた日本の政治経済体制はエージェンシー関係の重層構造なる柔らかい組織を主、市場/選挙を従とするものであって、両者は全く異なります・・し、後者への関心については、日本フェチの毛沢東がマルクス主義者になったのと基本的に同じことであり、人間主義志向である、ということなのです。
 というわけで、ソ連の計画経済への関心とマルクス主義への関心とは、実は全く別物である、というのが私の見方です。(太田) 

(続く)

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