太田述正コラム#8420(2016.5.26)
<一財務官僚の先の大戦観(その37)>(2016.9.26公開)

 「軍が財界と資本の前に膝を屈していたのは、盧溝橋事件(昭和12年7月)までであった。
 盧溝橋事件が勃発し、それが第二次上海事変(昭和12年8月)に飛び火すると世論は軍の強攻策支持一色になって、林銑十郎内閣までの軍事費抑制論は吹き飛ばされてしまう。

⇒どうして、戦後日本人は、戦前の軍部、とりわけ、陸軍に対してこういう言葉遣いをするんでしょうね。
 単に、議会制民主主義に則り、世論を背景に、軍事費増加が図られた、というだけのことなのに・・。(太田)

 国民精神総動員運動が開始され、昭和12年9月の臨時帝国議会では、これ以降の経済に大きな影響力を持つことになる三法、すなわち、臨時資金調整法(軍需関係以外の企業の設備投資資金を統制)、輸出入品等臨時措置法(不要不急物資の輸入禁止)、軍需工業動員法の適用に関する法律(軍需工業設備を軍部が管理)が成立した。
 しかしながら、軍事費抑制論が吹き飛ばされたからといって盧溝橋事件以降に世相が一変したわけではない。
 『愛国行進曲』<(注59)(コラム#7893)>が作られ、11月3日の明治節には全国民が皇居に向けて「遥拝」し、市電が皇居の前にさしかかると脱帽遥拝するといったことが行われるようになったが、経済は、昭和12年の末から一時的な軍需景気となり、世相からはむしろ暗さが一掃された。

 (注59)https://www.youtube.com/watch?v=2CpcztEOSrs

⇒軍事費増加が図られる「世相」が「暗」くなる(はずだ)、というのも、戦後日本人独特の不思議な発想です。
 知識人の端くれのはずの松元が、戦後の吉田ドクトリン的通念を全く疑おうともしていないことは、哀れと言うべきか、悲しいと言うべきか。(太田)

 東京の年末商戦は「年の瀬レコードを破る」と報じられ、正月映画興行もこれまでにない賑わいをみせた(『第百一師団長日誌』)。
 ラジオや蓄音機が普及し、ジャズやダンスも流行していた。
 吉本の寄席は、前半が落語や浪花節、講談、後半が専属のジャズ・バンドの演奏、ダンシング・チームによるダンスであった。・・・
 日米通商航海条約の破棄が通告された昭和14年<(1939年)>7月には、ぜいたく禁止令が出され(七・七禁令)<(注60)>、「夏物の背広は100円、時計は50円、ハンカチは1円、下駄は7円」などとされたが、国民生活にはまだ余裕が見られた。・・・

 (注60)「奢侈品等製造販売制限規則(昭和15年商工省・農林省令第2号)とは1940年7月6日に発布、翌7月7日より施行された、当時の商工省(現:経済産業省)及び農林省(現:農林水産省)が国家総動員法を根拠に発した、不急不用品・奢侈贅沢品・規格外品等の製造・加工・販売を禁止する省令。一般には施行日をとって七・七禁令(しちしちきんれい)とも呼ばれた。
 日中戦争の長期化によって、日本国内では各種物資が不足してきていた。一方で戦争は好景気をもたらし、軍需成金が多数生まれ、こうした人々を中心にいわゆる高級品の売れ行きも好調であった。このような状況を背景に、高まっていた庶民の反感をなだめるとともに、華美な装飾品を規制することによって銃後の引き締めを図る狙いがあった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A2%E4%BE%88%E5%93%81%E7%AD%89%E8%A3%BD%E9%80%A0%E8%B2%A9%E5%A3%B2%E5%88%B6%E9%99%90%E8%A6%8F%E5%89%87

⇒ここでは、松元は、ぜいたく禁止令の施行を1年間違えています。
 松元のいい加減さもさることながら、果たして、加藤陽子は、長文の「解説」を書くにあたって、この本を通読したのか、とさえ言いたくなります。
 典拠は付けませんが、ここでのような話は、加藤の専攻分野中の専攻分野なんですからね。(太田)

 そうはいっても、昭和14年も後半になると大陸の戦線が膠着する中で日本経済は窮乏化の様相を強め、世相にも大きな変化が生じてきた。
 昭和14年は、台湾、朝鮮の米作が3、4割減の不作となった年で、動員による人手不足からの流通障害もあって年末にはコメ不足が国民に深刻な不安を抱かせた(「小倉庫次侍従日記」)。

⇒松元が力説してきた「円元パー」原因不況説は一体どこに消えたのでしょうね。
 今度は、米作不作原因不況説が登場しました。(太田)

 そのような中で、「ぜいたくは敵だ」の標語が作られ、街のいたるところに「ぜいたく品よ、さようなら。あすから閉じる虚栄の門」「パーマネントはやめましょう」などと書かれた看板が立つようになった。<(注61)>

 (注61)国民精神総動員。「1937年4月、日本において近衛文麿らが顧問を務める国際反共連盟が誕生した。第一次近衛内閣が推進する国民精神総動員運動は、対内において、国際収支均衡確保のための外貨獲得政策となり、対外において、日本の目的が西洋の覇道になく、八紘一宇の大理想、換言すれば「東洋の王道」に基づき、「人類共同の敵たる共産主義」の絶滅にあることを明確にする役目を担った。・・・
 <そして、>国民の戦意昂揚のために「欲しがりません勝つまでは」「ぜいたくは敵だ!」「日本人ならぜいたくは出来ない筈だ!」「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」「遂げよ聖戦 興せよ東亜」「聖戦だ 己れ殺して 国生かせ」「進め一億火の玉だ」「石油(ガソリン)の一滴、血の一滴」「全てを戦争へ」などの戦時標語を掲げ<た。>・・・
 推進機関として、官側に国民精神総動員委員会、民側に国民精神総動員中央連盟が置かれ、官民二本立てで進められた。パンフレットや宣伝映画・ラジオなど、メディアを使った宣伝に努めたが、上意下達の運動の限界から、まもなく一般社会には不満が鬱積し始めた。1940年に内閣総理大臣を会長とする国民精神総動員本部に一本化されたのを期に、今度は上流階級を狙い撃ちにする戦術に改められ、一定の効果をあげた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E6%B0%91%E7%B2%BE%E7%A5%9E%E7%B7%8F%E5%8B%95%E5%93%A1

⇒とにかく、当時の政府の諸施策の大本は、対赤露抑止にあったにもかかわらず、この大前提に触れることのない松元の叙述は、この箇所に限りませんが、それは、この本が、戦後の吉田ドクトリンを信じて疑わない松元によるところの、枝葉末節に囚われた、大局を見ない、小人の手すさび以上の何物でもないことを示すものです。(太田)

 政府は、映画会社やレコード会社に芸名が「ふまじめ」「不敬」「外国人と間違えやすい」ものを改名するよう命じ(昭和15年3月)、歌手のディック・ミネや日活映画の尼リリスなどが改名した。」(120〜122)

(続く)