太田述正コラム#8628(2016.9.24)
<皆さんとディスカッション(続x3110)/対露百年戦争勝利を記念して(その2)--戦間期の日露冷戦(その2)(2016.9.24東京オフ会)>

        --皆さんとディスカッション(続x3110)--

<太田>(ツイッターより)

 「…日本と中国共同の世論調査結果…「良くない印象」と回答したのは、日本側は91・6%(昨年88・8%)、中国側は76・7%(同78・3%)だった。
 「良くない印象」を持つ理由は、日本側は「(中国が)尖閣諸島周辺の日本領海や領空をたびたび侵犯しているから」(64・6%)がトップ。
 中国側は「(日本が)中国を侵略した歴史についてきちんと謝罪し反省していないから」(63・6%)を一番に挙げた。相手国に「良い印象」を抱いているとの回答は、日本側は8%(昨年10・6%)…。中国側は21・7%(昨年21・4%)で、理由は「日本人は礼儀があり、マナーを重んじ、民度が高いから」(52・9%)などだった。」
http://news.livedoor.com/article/detail/12055291/
 中共当局の対日戦略は、日本人は中共が嫌いだが中共人は日本が好き、但し、中共人は日本の過去は嫌い、を追求する、という二重にアクロバティックなもの。
 今までのところ、目論見通りに進行してるがねえ。

<宇都宮義塾>

 1937年8月13日の「第二次上海事変」を知れば、あの戦争は「中国が日本(の租界)を侵略したのが発端」「侵略者は中国(国民党・蒋介石)」であることは明白なのだが、右派の「新しい歴史教科書」にすらこの第二次上海事変の記述は皆無だ。
 コレだけは載せるなと何処かから圧力が掛かってるのか?

<太田>

 戦後日本は吉田ドクトリン・コンセンサス下にあり、憲法第9条を改正するなと何処からも圧力が掛かっていないどころか、米国のみならず、今では中共からさえ改正せよと圧力が掛かっているにもかかわらず、安<倍>自民党を中核として、日本人が今なお第9条を墨守してるのと同じだよ。

<宇都宮義塾>(同上)

 コメントどうもありがとうございます。宮台真司らが言うところの「ネタからベタへ」ということなのでしょうね。
 もともとは便宜上、仕方なく、応急処置としてやっていたものが、次第に「本気」「教条化」してしまったと…。

<太田>(同上)

 「<成人の場合、>脳の大きさと知能は無関係<とされている>…が…赤ん坊のときに標準より大きな頭だった人は、のちに学位をとる人が多く、言語や数学のテストの成績が良く、推理力もあることがわかった。…」
http://karapaia.livedoor.biz/archives/52225484.html
 でも赤ん坊の頭、英>日。人種間では?

<6fZOKPjY>(「たった一人の反乱(避難所)」より)

≫(注56)誰も指摘していないが、総力戦研究所は、英国の国防大学・・・(RCDS)の前身)を参考に設置された、と見ている。≪(コラム#8414。太田)

 ↓そうらしいです。
 『昭和6年1月からイギリス駐在大使館付武官となった辰巳栄一少佐はイギリスの帝国国防大学の存在を知り、是非これを日本にも同様の組織を作るべきだと強い決意を持った。
 辰巳の回想によると、ある日辰巳がかねてより親交のあったイギリス陸軍省極東班長マイルス中佐からもらった英国陸軍将校停年名簿を見ると、要職にある将官や佐官クラスの氏名にPRDCという符号がついているのに気づき、これは何かと件の中佐に質問したところ、「その符号はPassed Royal Defence College(国防大学)卒業者であることを示している。同大学の内容については、一切部外秘であるから説明するわけにはゆかぬ」との回答であった。
 辰巳はこの国防大学に興味を持ち調べてみると、この大学には軍人だけではなく政府や民間からも入学しており、またこの国防大学を卒業した者は全て社会的地位が高いことが判明した。・・・要はイギリスは次代を担う者を育成すべく、軍・民・官の壁を取り払い取り組んでいることに衝撃を受けると同時に、日本が全くこの分野で立ち後れておりすぐにでも同様の教育機関を創設すべきであると確信し、参謀本部へ報告した。』
http://www.kokubou.com/document_room/rance/rekishi/seiji/souryokusen/1-3.htm

⇒なーるほど。
 上掲を読むと、仏米でも(英国防大学の設立の影響だと思うけど)同様の機関が設けられ、これらを参照しつつ、最終的に、陸軍の発案で総力戦研究所が設けられた、ということみたいね。(太田)

<Ff7YDKGz>

 「18日付の台湾紙、自由時報によると、不正に取得した党資産の返還を迫られている国民党が、東京都港区にある不動産を売りに出していることが分かった。
 行政院(内閣)で党資産調査を担当する不当党産処理委員会は「不正な資産と認定されれば国家への返還を求めることになる」と売却の動きにくぎを刺した。・・・」
http://www.sankei.com/world/news/160918/wor1609180031-n1.html

 「・・・野党・国民党考核紀律委員会の劉漢廷主任委員は21日、行政院(内閣)「不当党産処理委員会」が同党の現金引き出しの禁止などを銀行に求めており、それが現実になれば党は半月から1カ月で立ち行かなくなり、「破綻」するだろうと述べた。
 不当党産処理委員会は、与党・民進党が「世界で最も金持ちの政党」と呼ばれた国民党の資産解体を狙って成立させた法律により、先月末に発足。政党とその関連組織が不当に得た資産に対する追及を進めている。
 同委の顧立雄主任委員によると、法律が公布された翌日の8月11日、国民党は永豊銀行の口座から現金5億2000万台湾元(約16億6400万円)を引き出し、全額を台湾銀行の小切手に換えていた。うち5200万元はすでに換金され複数の口座に送金されている・・・」
http://news.livedoor.com/article/detail/12051697/

 蔡英文総統の剛腕で、国民党が遂に終焉へ?

<太田>

 蒋介石/蒋の中国国民党は、ソ連の傀儡で、しかも一貫して腐敗しきってたというのに、まだ、台北に蒋介石の顕彰施設である中正紀念堂
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%AD%A3%E7%B4%80%E5%BF%B5%E5%A0%82
が残ってるってんだから呆れちゃうなあ。

<太田>

 それでは、その他の記事は明日回しにすることにし、本日の「講演」とも関係する、中共官民の日本礼賛(日本文明総体継受)記事群だけ、紹介することにしましょう。↓

 <グラビティ・モデル(貿易における重力モデル)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%BF%E6%98%93%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E9%87%8D%E5%8A%9B%E3%83%A2%E3%83%87%E3%83%AB
って言葉があったんだね。それにしても、自動車に対する中共官民の関心は高いね。↓>
 「・・・今日頭条はこのほど、台湾は日本車の天下であると伝え、台湾人が日本車を偏愛する理由について論じている。その理由のなかにはグラビティ・モデルも含まれており、場合によっては中国でさえ日本車に「占領」される可能性があったと記事が説明している点だ。
 記事は台湾での新車販売台数トップ10を紹介。2014年の7位と15年の6位にフォード・フォーカスがランクインしたが、その他はすべて日本車による独占だったと説明。さらに台湾人が日本車を偏愛する理由として、台湾と日本が友好関係にあること、台湾人は実用性を重視する消費傾向にあること、日本車が優れた評価や高いコストパフォーマンスといった競争力を持つことのほかに、日本と台湾の距離が近いゆえにグラビティ・モデルが適用できるなどの点を取り上げた。
 台湾では中国のような根強い反日感情が存在しなかったため、日本車が競争力を発揮して市場を獲得したというのが記事の要点だ。一方、「大胆な仮説」としながらも、もし中国と日本に歴史問題が存在せず、中国も自力更生する力がなかったなら、日本車は中国でも席巻したであろうし、「フォルクスワーゲンに中国を席捲する隙を与えなかったはず」とも主張している。」
http://news.searchina.net/id/1619397?page=1
 <とにかく、習ちゃんは、人民に日本車を買わせたいようだ。↓>
 「・・・汽車之家はこのほど、年間販売台数400万台の大台突破も現実味を増してきたと伝え、「日系車は罵られれば罵られるほど売れる」と伝えている。
 記事は、中国自動車市場における15年の日系車の販売台数は約390万台で過去最高を記録したが、日系車を排斥すべきという声が今なお根強く存在するなかで、16年に最高記録を刷新する可能性が高まっていることに驚きを示した。
 続けて、日系車の排斥を呼びかける声が存在するにもかかわらず、日系車の販売が力強く伸びていることを「奇怪に感じる中国人は多いはず」と主張する一方、「日系車排斥の声はここ数年ずっと存在していたが、その間も日系車の販売はずっと伸びてきていたのが現実だ」と指摘した。」
http://news.searchina.net/id/1619364?page=1
 <日本の自動車のハードの次はソフトを礼賛。↓>
 「・・・今日頭条は・・・日本のドライバーたちが示す優れた運転マナーと中国のドライバーたちの運転を対比させつつ、日本のドライバーたちを絶賛する記事を掲載し、「旅行期間中に日本の交通から受けた印象とはすなわち、スムーズさと秩序であり、道が狭くても、必ずしも渋滞するわけではないことがわかった」と絶賛している。
 記事は日本のドライバーたちは「突然、車線変更して割り込むことや、ゆっくり走って車道を占拠することはしない」と紹介、また他の車両に迷惑をかけないことが日本の運転ルールとなっていることを説明。こうしたルールについて「非常に羨ましい」と率直な感想を漏らし、中国のドライバーたちは割り込みを習慣にしていると指摘した。
 また、日本のドライバーたちは交差点で右折する際に直進車を必ず優先するが、逆に中国のドライバーたちは「直進車のことなど考えていられない。自分が先に曲がる」と考えると説明。またドライバーたちは歩行者を優先し、歩行者も車両にお辞儀をして感謝を示すのが日本であると紹介した。
 記事は「日本のすべてドライバーは交通ルールを遵守しており、これは中国が学ぶべき点だ」とし、日本のドライバーたちのマナーを絶賛している。」
http://news.searchina.net/id/1619371?page=1
 <これもそうだな。↓>
 「・・・今日頭条はこのほど、日本のタクシーの料金は中国の10倍以上だと主張し、日本はタクシー料金が高額すぎると主張する一方で、料金が中国より高いのにはきちんとした理由があるのだと論じている。
 記事は、日本では1000円(約56.1元)で約2.89キロメートルしかタクシーに乗れないと指摘する一方、中国では56.1元もあれば35.4キロメートル分も乗ることができると紹介し、「日本のタクシー料金は中国の10倍以上も高い計算となる」と主張した。
 もちろん、日本と中国とでは物価水準や所得水準が違うため、一概に比較できるものではないが、「日本のタクシー料金が中国より高いのには理由がある」と主張。それはサービスの質が理由だ。中国のタクシーは乗客が自らドアを開けて乗り込む必要があるが、日本のタクシーは運転手がドアを開ける仕組みであり、乗客自らドアを開閉する必要がないことを指摘。
 また、日本のタクシーは非常に親切であり、乗客が外国人であっても親切に対応してくれるが、日本はチップを支払う習慣がなく、サービスに関する費用は乗車運賃に含まれていると指摘。また、高額な料金をふっかけられることもなく、「日本のタクシーはまるで中国の運転手付き送迎サービスと同等のサービスを受けられる」と主張、だからこそ日本のタクシーは高額なのだと論じた。」
http://news.searchina.net/id/1619399?page=1
 <自動車への高い関心の延長線上の話だな。↓>
 「・・・慧聡工程机械網はこのほど、中国では自動車のメンテナンスは重視されるが、重機のメンテナンスは重視されないと伝えつつ、日本はなぜ重機のメンテナンスを丁寧に行うのかと疑問を投げかける記事を掲載している。
 記事は、日本企業で働いた経験のある中国人の見解として、「日本人はショベルカーをはじめとする重機を非常に大事に扱う」と伝え、運転席に絨毯を敷き、運転時には靴を脱ぎ、手袋まで着用する日本人もいるほどと紹介。さらに1日の仕事が終わったら重機を水で洗う日本人もいると伝え、「日本人は重機をまるで自分の子どものように丁寧に扱っている」と伝えた。
 続けて、「重機は金を稼ぐ道具に過ぎないのに、なぜ日本人はこれほど大事に扱うのか」と疑問を投げかけつつも、日本人は民度が高く、清潔さを好むというだけでなく、国の「制度」や「建設業界の発展度合い」が中国とは違っているのも理由の1つだと主張。例えば、国の制度としては一定期間ごとに「特定自主検査」と呼ばれる検査を行う必要があることを指摘し、「この制度だけでも中国は到底日本に及ばない」と主張した。
 さらに、日本はすでに大きな発展を遂げているため、重機を使用する頻度や強度が中国より少なくて済むと主張。中国は建設工事の数が多いため、重機もフル稼働するのが一般的であり、重機を所有する側もコスト回収のために休みなく稼働させるため、メンテナンスを行う暇がないのだと論じた。そのほか、日本には重機の中古市場があるため、メンテナンスを行っていたほうが中古で売却しやすいと主張し、こうした要素こそ「日本人が重機をまるで自分の子どものように丁寧に扱う理由」ではないかと考察している。」
http://news.searchina.net/id/1619322?page=1
 <やや誇張されてるが、伝統、日支交流等を考えさせる、習ちゃんの深い狙いを感じるな。↓>
 「・・・今日頭条は・・・「日本の学生は中国の古典文化を勉強しているのに、われわれはみんな英語を学習している」とする記事を掲載した。記事は、中国の古代文化が各王朝を通じて日本や韓国、東南アジアの諸国へと伝わり、各国では中華文明の影響を深く受けてきたと紹介。その中で、韓国ではソウルの漢字表記を「漢城」から「首爾」に変更する、漢字を廃止するなど中国文化離れの動きを見せる一方で、日本では子どもたちが中国の古代文化を学んでいると説明した。
 そして「日中両国の恩怨はさておき、古代文化を重視する姿勢については、正直われわれに冷や汗をかかせるものである」とし、今の中国において英語教育に力を入れるばかりに古典文化教育が蔑ろになっていると指摘した。
 記事はまた、日本の学校で用いられている漢文学習資料の内容を紹介。古代の器具や楽器などが紹介されているページでは「もし身の回りの人にこれらの器具の名前を聞いたとしたら、果たして何人が答えられるだろうか」とした。また、孟子について紹介するページでは「孟子自体は知っていても、性善説などの彼の学説理論を心得ている人はどれだけいるのか」と問いかけた。
 この記事に対して中国のネットユーザーからは「中国の教育における最大の失敗は、国語より英語を重視したことだ。そしてそれなのに、中国の英語教育は平凡だ」、「恐ろしい。1000年後には日本人が中国人を名乗るようになっているかもしれない」、「50年後、われわれ中国にはどれだけの伝統文化が残っているだろうか。とても心配だ」といったコメントが寄せられている。」
http://news.searchina.net/id/1619392?page=1
 <日本に長寿企業が多いだけじゃなく、製品も長寿を期そうとし、その結果、伝統が形成され、受け継がれていく、ということを習ちゃんは言いたいんだろうな。↓>
 「・・・中国国際放送局は・・・「日本伝統のひな人形はどのように時代に適応してきたのか」とする記事を掲載した。記事は、ひな人形が日本の伝統文化における重要な記号の1つである一方、時代の変遷とともに多くの新たな課題に直面することになったと説明。日本人の居住スペースが狭くなったこと、西洋文化の影響によって、ひな人形にまつわる言い伝えが「迷信」と認識されるようになったことを挙げた。
 また、高価であるゆえに思うようには売れないこと、日本の独自の祭日に基づくひな人形は海外に大きな販路を求めにくいことも問題として示した。そのうえで、日本のメーカーが東アジア文化の共通性を活用して、中国、ベトナム、フィリピンなどの企業にひな人形の部品生産を請け負わせることで人形のコストダウンを図り始めていると説明。静岡県の企業では、人形の着物こそ日本で製造しているが、人形の頭と手は中国で、人形に組み合わされる家具などはフィリピンで作っていると紹介した。」
http://news.searchina.net/id/1619366?page=1
 <この4つ同士なら、掛値なく支那の方に軍配が上がるだろうが、何が何でも日本を礼賛したい、という意気込みは伝わってくる。↓>
 「・・・今日頭条は・・・「日本の4大発明と中国の4大発明、どっちの影響力が大きかったか」とする記事を掲載した。
 記事は、古代中国の4大発明が造紙技術、羅針盤、火薬、活字印刷であるとし、これらは世界に深い影響を与えたと説明。かたや、隣国である日本にも「4大発明」とされるものが存在すると紹介し「どちらの影響力が大きかっただろうか」とした。
 日本の「4大発明」として挙げられたのは、インスタント麺、ウォークマン、カラオケ、電子ゲーム機の4アイテムだ。インスタント麺は1958年に安藤百福氏が発明したものであると解説。なお安藤氏の出身は台湾なので、日本の発明と言えるかどうかは不明だ。ウォークマンはソニーが79年に発売し、「今のiPhoneを上回るほどのムーブメントを巻き起こした」としている。
 カラオケは伴奏のみの音楽と、テレビ画面の歌詞テロップに合わせて歌うもの、とのことだ。電子ゲーム機も世界にセンセーションを巻き起こしたものとしており、その代表的な企業として任天堂を紹介している。」
http://news.searchina.net/id/1619396?page=1
 <使いまわし、プラス、思い付き、の余り出来のよくない記事だが・・。↓>
 「・・・今日頭条は・・・「多くの人が決して知らない、日本に本当に存在する事柄」と題する記事を掲載した。記事は、「あなたは非常に多くの日本賞賛文章を見たかもしれない。それでも、知らないことがまだたくさんある」として、「実際に日本に存在している、あるいは起きている事」を多数紹介した。
 記事が紹介したのは、路上で煙草を吸わない、100円ショップでも品質が高い、中国同様に方言がたくさんある、既婚女性がショッピング消費の主力層である、自転車にロックをしなくても盗まれない、公衆トイレがとてもキレイ、クリスマスにはみんなケンタッキー・フライド・チキンを食べる、芸妓が本当に存在する、角度の異なるお辞儀が存在する・・・などだ。
 これまでに中国のネット上で紹介されていることであり、特に目新しさがない事柄が多い。しかし、その中でおもしろい対比があったので紹介する。「日本の警察官は非常にフレンドリー」としたのに対して、フレンドリーでないとされたのが「日本のお年寄り」だ。記事は「日本のお年寄りは見たところ温和そうでない。そして実際は非常に傲慢である。特に年配の女性はそうだ。もし、やさしいおばあちゃんを探したいのであれば、まずは自分が良い子になることだ」としている。」
http://news.searchina.net/id/1619356?page=1
 <人民のダメ感想を取り上げたことでダメ記事になってしまったが・・。↓>
 「・・・今日頭条は・・・「日本の地下鉄で見られる4種類の人から垣間見える、日本という国の性格」という文章を掲載した。文章は、エスカレーターを自力で登っていく人びと、「自分は若い」として譲られても席に座ろうとしない年配者に加えて、電車の中で居眠りをする人たちと、奇声をあげたり奇妙な動きをする人たちについて紹介している。
 車内で居眠りする人は特にサラリーマンで多く、目を閉じて舟を漕ぐ人のほかに、頭を隣の人の肩にもたれかけて寝る人さえいると紹介。電車が止まってドアが開いた瞬間、居眠りしていた客がパッと飛び起きて衣服を正して降りていくのであるとした。
 また、「電車のなかで日常的に言動の怪しい客に遭遇する」とも説明。50歳ぐらいの男性客が乗車するとすぐに靴を脱いで胸元に抱え、空いているのにずっと厳しい表情で立っている、ある客は車両中を歩き回ってこぶしを突き上げながら選挙について演説している、などといった事例を挙げた。
 そして、日本の地下鉄で見られるこのような光景は「この国の性格を示している」と解説。「日本は正確、精密な国であるとともに、変態な国だと思わないか。そう、まさに正確、精密を強調する集団ゆえに、日本社会にはストレスが充満しており、くたびれる社会になっているのだ。集団主義を強調し過ぎ、個性を殺すことで、数多の精神失調者を産むのである」と論じた。」
http://news.searchina.net/id/1619361?page=1
 <支那じゃ、乱伐で木材に比べレンガが安いって事情もあるのでは?↓>
 「・・・天天快報はこのほど、2011年に発生した東日本大震災の地震の規模は四川大地震を大きく上回っており、大津波まで発生した未曾有の大災害だったにもかかわらず、死者数で四川大地震を大きく下回ったのは、日中両国で「家屋」の質に大きな違いがあったためだと考察する記事を掲載した。
 記事は、日本は東日本大震災によって発生した大津波によって巨大な損失を被ったが、地震によって倒壊した家屋自体は少なかったと指摘。これは日本の家屋が主に木材で作られているため耐震性が高いためであると紹介する一方で、中国農村部の家屋は今なおレンガ造りなど耐震性が非常に低い建材で建てられていることを指摘、「中国人は今一度防災について考える必要がある」と論じた。」
http://news.searchina.net/id/1619398?page=1
 <自信過剰だ、そもそも、もっと「師」に礼を尽くせ、と言いたくなるな。↓>
 「・・・今日頭条はこのほど、中国高速鉄道は世界的に見て「後発中の後発」であるにもかかわらず、総延長や速度の点ですでに新幹線を大きく上回っていると主張し、「中国高速鉄道は技術、規模、速度、営業距離のすべてで世界最高」であるなどと主張した。
 記事は、日本が1964年に新幹線を開業させたことを指摘する一方、中国は「わずか10年程度で新幹線を全面的に追い抜いた」と主張。高速鉄道の発展ぶりを見ると「感慨深いうえに、祖国が日増しに強大になっていることを実感する」と論じた。
 さらに、同記事には中国のネットユーザーから数多くのコメントが寄せられており、「昔は新幹線が憧れだったが、今はわが高速鉄道以下の存在だ」、「中国高速鉄道はまさに“青は藍より出でて藍より青し”だ」といったコメントがあった。」
http://news.searchina.net/id/1619394?page=1
 <これは、逆に日本を持ち上げ過ぎ。↓>
 「・・・今日頭条はこのほど、日本には「隠された軍事的実力が存在する」と主張し、日本に対する警戒を緩めるべきではないと主張した。
 記事は、一国の軍事力を評価するうえでは兵士や戦闘機、艦艇の数である程度は判断できるとしながらも、そうしたデータだけでは見えない要素もあると主張。有事の際にどれだけ速やかに軍備を整えられるかという点も重要だとし、「第2次世界大戦に敗れた日本は米国によって軍需産業を解体されたが、その技術や人材は失われていない」と主張した。
 続けて、かつての日本は「空母大国」であり、空母建造における豊富な経験を持つと指摘し、日本は高い技術力を持つ造船メーカーが数多く存在するうえ、誰もが知る民間企業が戦車や装甲車を生産していると主張。まさに民間企業を隠れ蓑とし、有事の際には一気に軍備を拡張する能力を持っていると論じた。
 また、日本の技術力を持ってすれば核兵器を生産することも「何ら不可能ではない」と主張し、「日本に1カ月の時間を与えれば、核兵器を見事に作り上げるはずだ」とした。さらに、日本の隠れた軍事的実力まで考慮すれば、「日本は米国とロシア以外の国とならば、どことでも戦争できる力を持つ」などと主張した。」
http://news.searchina.net/id/1619395?page=1
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 一人題名のない音楽会です。
 小曽根真(おぞねまこと。1961年〜)の特集をお送りします。
 小曽根は、「5歳からクラシックピアノを習うも、・・・ハモンドオルガンに転向し天才奏者と呼ばれる。12歳の時に・・・ジャズ・ピアノを始める決意をする。1976年15歳でプロデビュー。・・・1980年に渡米し、ボストンのバークリー音楽大学に入学<し、>1983年・・・ジャズ作・編曲科を首席で卒業・・・近年はジャズの世界を越え、クラシック<曲>・・・を演奏する等、活動域を拡げている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%9B%BD%E6%A0%B9%E7%9C%9F
という人物です。

Chopin マズルカ13番(ジャズ編曲)
https://www.youtube.com/watch?v=z11ZZYnsc5k
Chopin ワルツ7番(ジャズ編曲)
https://www.youtube.com/watch?v=9AtGryNw1cg
Mozart アダージョ(即興ジャズ編曲) クラリネット:Paquito D' Rivera
https://www.youtube.com/watch?v=q4quZI6oH0Y
Mozart ピアノ協奏曲第9番「ジュノム」(ジャズ編曲) 指揮:小曾根真 オケ:SCOTTISH NATIONAL JAZZ ORCHESTRA
https://www.youtube.com/watch?v=-7vWaY9DUYI

 以上がジャズで、以下がクラシックです。

Mozart 2台のピアノのための協奏曲 +Chick Corea オケ:?
https://www.youtube.com/watch?v=QrWPugrimDI
Gershwin ラプソディー・イン・ブルー 指揮:Alan Gilbert オケ:NY Philharmonic
https://www.youtube.com/watch?v=BxowOVIdnR0
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     対露百年戦争勝利を記念して(その2)--戦間期の日露冷戦(その2)
        --英対支外交革命・西安事件(余談:毛沢東の孤独)--

1 始めに

 今回の「講演」では、前回の総論を踏まえた各論の通史的なものにするという予定を、(それがいささか私の能力を超えることもあって)若干変更し、英対支外交革命と西安事件という、戦間期の支那に係る極めて大きな二つの転機の背景を探ることと、毛沢東が、中国共産党の最高指導者になってからも、死ぬまで、思想的には党内で孤立状況であったことについても、併せて余談的に語る、という内容にしたことをお断りしておきます。
 この「講演」原稿は、史料集というか、私の備忘録的なものになったので、分量が多いだけでなく、読みにくいと思いますがあしからず。
 最初に結論を申し上げておきますと、英対支外交革命については、それがアルコス事件と一体不可分であったこと、西安事件については、それが蒋介石の自作自演であったこと、をご説明します。
 (それぞれ、恐らく世界で私だけの新説です。
 なお、「英対支外交革命」は、私の造語です。)
 毛沢東の孤独の箇所では、劉少奇や周恩来らの死に関する毛の間接的関与が、毛の耄碌によるものでは必ずしもなく、深刻な原因があったこと、を説明します。
 (これは、間違いなく、世界で私だけの新説のはずです。)
 読者が、これらのうち、興味をそそられた箇所だけを読むこともアリだと思います。
 一番「分かり易い」のは、毛沢東の孤独でしょう。
 なお、「修士論文」(コラム#8352)を取り上げると予告していたのですが、上述の予定変更もあり、今回の「講演」では取り上げません。

2 英対支外交革命

 (1)英対支クリスマス・メモランダム

 下掲は、前回の「講演」でご披露した年表から抽出したものですが、改めて、一瞥してください。↓

「1925年5月30日 5・30事件(国民党、対英経済断交宣言。英領香港で経済封鎖。)

⇒中国国民党政権、すなわち、ソ連(赤露)、が、当初、最も敵視していたのは英国だったことを改めて頭に入れておいてください。(太田)

 1925年10月 北京特別関税会議(幣原外相・中国の関税自主権回復を支持)
 1926年7月 国民革命軍(蒋介石軍)の北伐開始。
 1926年12月26日 英国政府「クリスマス・メモランダム」を発表。(対<支那>政策の大転換)」

 このクリスマス・メモランダム発表から始まったところの、私の言う英対支外交革命・・英国が、日本の対蒋介石政権融和政策を一挙に抜き去る形で、対蒋介石政権敵対政策から超融和政策へと転換した、という意味での外交革命・・のあらましは、以下の通りです。↓

 「12月メモランダム<で>・・・英国政府は、条約上の諸権利の文言に厳密に従うことに厳格に固執する伝統的態度を修正する提案を行った。
 また、諸<不平等>条約の再交渉に応じる前提として、強力な中央政府の確立に固執しないことにもした。・・・
 <更には、>交渉が始まるのを待つことなく、英国は、北と南の支那当局双方に対して諸提案を行った。
 英国の役人達は、軽易なもろもろのことを放棄することによって重要なもろもろのことを確保しようと目論んだわけだ。
 取り扱い対象となった諸事項の中には、若干の条約諸港における英国租界の縮小(retrocession)、威海衛(Weihaiwei)<(注1)>海軍基地の英国による引き続きの使用の諸条件の再交渉、上海の共同租界(International Settlement)の市参事会(municipal council)への支那代表<の参加>、共同租界への支那裁判所設置認可、(英国人総税務司(inspector-general)の維持を前提とした)海関(maritime customs)諸収入コントロール権の返還、支那の慣習(use)への<英国人の>免責権(indemnity)の返還、そして、関税自主権の返還、が含まれていた。

 (注1)「威海衛を<英国>が租借したのは1898年のこと。この年、ロシアは大連・旅順などの関東州を25年間租借し極東艦隊の基地にしようとすると、<英国>は「勢力均衡」を理由に山東半島の東端にある威海衛を<英>東洋艦隊の根拠地として租借することを計画した。・・・<英国>は、ドイツに対して<は>山東半島で利権を確保する意図はないことを説明し、具体的には「威海衛に鉄道を建設しない」ことを約束。日本には<英国>が威海衛を獲得することによってロシアの南下防止に対する日本の負担が軽減される点を説明して、それぞれ説得に成功。そして清朝には「威海衛の租借期限はロシアの関東州租借と同じ25年間とし、ロシアが関東州を返還すれば<英国>も威海衛を返還する」「清朝の北洋艦隊の威海衛使用を引き続き認める」を条件に、威海衛租借を認めさせた。
 こうして1898年5月24日、清朝から賠償金を獲得した日本軍が<保証占領していた>威海衛から撤退すると、翌日<英国>が代わって占領した。」
http://www.geocities.jp/keropero2003/china/weihaiwei.html

⇒往時の英国の対露抑止への入れ込みようがどれほどのものであったか、そして北東アジアにおいては、いかに日本との連携を重視したか、がよくわかりますね。(太田)

 英国政府は、支那の革命的ナショナリスト達の諸攻撃から英国の諸権益を守るために1927年に上海地区に海兵隊の大兵力を上陸させたが、その新しい政策は成功を収めた。
 上海の銀行家達からの支那国貨3000万米ドルの誓約(pledge)によって支えられ、蒋介石は、国民党の革命的諸分子を粛清し始め、最も貴重な英国の条約上の諸権利は維持された。
 1928年以国民党政府が南京に設立されると、英国に対する敵意は事実上消滅し、ロンドンの諸会社の一団は、サー・フレデリック・ホワイティ(Sir Frederick Whyte)<(注2)>を支那に送り、支那の国民党政府の顧問にさせることができた。

 (注2)1883〜1970年。スコットランド生まれで独イエナ大学で学び、エディンバラ大卒。英下院議員、内相。中国国民党政府の政治顧問を務めたのは1929〜32年。
https://en.wikipedia.org/wiki/Frederick_Whyte

⇒(当然、ソ連のお墨付きの下であったはずですが、)中国国民党政権は、あたかも、英国の保護政権に堕してしまったかのように装ったわけです。(大田)

 治外法権に関する英支諸交渉は、<英国が、>1928年12月に、南京体制(regime)が全支那の政府であることを承認した直後に始まった。
 国民党の扇動の唯一の標的に二度とならないようにするというのが、他の諸列強を出し抜いた英国の思慮ある(deliberate)政策の眼目だった。
 しかし、1930年に蒋介石と北部の軍閥達との間の内戦が勃発する<(注3)>と、この諸交渉は中断した。

 (注3)「1923年2月、・・・孫文は第3次広東軍政府を組織すると、急速にソ連との関係を深め、その助言をうけ中国共産党との合作(国共合作)、革命軍の中核を担う人材を養成する黄埔軍官学校を設立するなどして軍閥に依存しない自身の勢力強化につとめ、1924年9月18日に「北伐宣言」を発表し北京政府に対抗した。しかし、同年10月23日、北京政府内で全国統治をかかげた馮玉祥が政変(北京政変、首都革命)を起こし孫文に北上を要請、これに応えた孫文が北京に入るなど平和的全国統治の機運が高まり北伐は立ち消えになる。この平和的全国統治の流れは1925年3月12日に孫文が北京で客死すると頓挫した。
 孫文亡き後の国民党は広東に国民政府を組織し、国民革命軍を<建>軍する。この中で中山艦事件<(コラム#4950)>を契機に、急速に台頭してきた蒋介石が中心となり、1926年7月1日、国民政府は「北伐宣言」を発表、北伐が開始された(第1次北伐)。北伐軍は、全国統治を望む輿論を背景に北京政府や各地軍閥を圧倒、翌1927年には南京、上海を占領した。
 しかし、中国国民党内部で中国共産党が勢力を拡大したこともあり、4月12日蒋介石は、党内の中国共産党員の粛清を行った(上海クーデター)。その後、上海クーデターを巡る中国国民党の武漢派(武漢国民政府)と南京派(南京国民政府)の分立(寧漢分裂)、武漢国民政府の中国共産党との決別及び南京国民政府との合流、広州張黄事変の勃発と、中国国民党内が混乱状態に陥ったため、北伐は一時停滞をみせた。
 蒋介石が事態の収拾に成功し権力を掌握すると、国民政府は1928年4月8日に北伐を再開した(第2次北伐)。この北伐はソ連のヴァシーリー・ブリュヘルの下で計画された。日本(首相田中義一)は、中国にある既得権益及び治安の維持のため、居留民の保護の名目で山東省に軍を派遣した(山東出兵。この時、済南に入った北伐軍との間で武力衝突が発生した(済南事件)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E4%BC%90
 中山艦事件:「1926年3月18日、国民党・・・の軍艦「中山」が突如として広州の黄埔軍官学校の沖合に現れた。国民党内左派・共産党は蒋介石をソ連に拉致しようとしたが、蒋介石はこれを中国共産党員による蒋介石拉致のための策謀と断じ、3月20日艦長の李之竜(共産党員)をはじめ共産党・ソ連軍事顧問団関係者を次々に逮捕、広州の共産党機関を捜索し労働者糾察隊の武器を没収し、広州全市に戒厳令を発するという挙に出る。・・・この事件をきっかけに中国国民党内での蒋介石の地位が急速に上昇し、また翌年4月の上海クーデターで第一次国共合作が破綻へ向かう端緒となった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B1%B1%E8%89%A6%E4%BA%8B%E4%BB%B6 
 ヴァシーリー・コンスタンチノヴィチ・ブリュヘル(Vasily Konstantinovich Blyukher。1889〜1938年。「1924年から1927年にブリュヘルは中華民国の軍事顧問を務め、・・・国民党が中国統一を開始する北伐の立案に責任があった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%83%98%E3%83%AB

⇒ソ連は中国国民党というより、蒋介石一派に肩入れし、傀儡として活用を続けた、ということです。(太田)

 1931年9月に日本が満州を奪取すると、英国側の多くは支那人達の関心が他の諸方面へと逸れたことを見出し、安堵した。・・・」
https://books.google.co.jp/books?id=RzS8AAAAIAAJ&pg=PA9&lpg=PA9&dq=The+British+Proposals+to+the+Powers+Concerning+China;1926&source=bl&ots=ITXMXVXKYu&sig=Lk4xVl7h4B59m-j306cLNpFGzkw&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwiS4MuL1aTNAhVJ3WMKHeTyCXgQ6AEINzAH#v=onepage&q=The%20British%20Proposals%20to%20the%20Powers%20Concerning%20China%3B1926&f=false'>https://books.google.co.jp/books?id=RzS8AAAAIAAJ&pg=PA9&lpg=PA9&dq=The+British+Proposals+to+the+Powers+Concerning+China;1926&source=bl&ots=ITXMXVXKYu&sig=Lk4xVl7h4B59m-j306cLNpFGzkw&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwiS4MuL1aTNAhVJ3WMKHeTyCXgQ6AEINzAH#v=onepage&q=The%20British%20Proposals%20to%20the%20Powers%20Concerning%20China%3B1926&f=false (Stephen Lyon Endicott, Diplomacy and Enterprise--British China Policy 1933〜37 PP9〜10)

⇒(後で述べるように、大英帝国内での地歩を失いつつも、結果として、その「見返り」に支那において英国懐柔に成功した)ソ連は、英国に変えて、今度は、主標的を日本に定めたわけです。(太田)

 一体、この外交革命の背景には何があったのでしょうか。
 ノモンハン事件の背景に独ソ不可侵条約締結についての独ソ間の合意があった、という私の新説(コラム#8372、8588)を覚えておられると思いますが、この外交革命の背景にアルコス事件決行について英政府内での内定があった、というのがここでの私の新説です。

 (2)第一次南京事件

 そのアルコス事件について説明する前に、クリスマス・メモランダム発表とアルコス事件との間に起こった南京事件に触れておきたいと思います。
 第一次南京事件が、ソ連(6)が5(「(6)」、「5」は、前回の東京オフ会講演参照)を使って引き起こしたものであることは、国際的通説であり、その直後の4月6日に張作霖によって行われた北京のソ連大使館捜索(後出)で発見された「訓令」の「掠奪・惨殺の実行・・・在留日本人への危害を控えること、排外宣伝は反英運動を建前とすべき」という内容
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E4%BA%AC%E4%BA%8B%E4%BB%B6_(1927%E5%B9%B4)
を踏まえれば、その目的は、私見では、日本と欧米列強との間に楔を打ち込んだ上で、中国国民党による北伐が進展すれば必然的に接触し紛争が生じるところの、在支日本軍を(欧米列強の支援の下、)中国国民党に支那から駆逐させる、というものであり、第一次南京事件の際、幣原外交の下で、「報復も抵抗もせず、英国からの共同出兵の要請にも反対し、穏便な対応に終始した日本に対し、英国は疑念を募らせ、裏で日本の対中接近・米英離間の下心があるのではないかと疑い、自らも「アヘン戦争以来の外交政策転換」・・私の言う「対支外交革命」・・と語る親中政策を模索・開始することになる」(上掲)という次第で、ソ連の目論見通りに事態は進行することになるのです。
 ソ連が、支那からの日本軍の駆逐を目指したのは、「資本主義」諸列強の中で、英国と日本だけが一貫して対露抑止戦略をとってきたこと、日本に日露戦争で敗北させられたこと、現に、ボルシェヴィキ革命後の内戦において最も激しくかつ長期に介入したのは日本であったこと、からでしょうね。
 安全保障の観点から、領土拡大、勢力圏拡大、緩衝地帯拡大に憑りつかれている点で全く帝政ロシア時代と変わっていなかったソ連は、共産主義を標榜した点で目新しさがあっただけであり、支那の諸勢力の中から、共産主義、とりわけ、スターリン主義への忠誠度ではなく、もっぱら、親ソ・反日度を尺度として選んだ勢力を手先として、日本の支那からの駆逐を図ることとした、と私は見ているのです。
 ソ連は、こうして、最も親ソ的にして反日的であった蒋介石の中国国民党政権を選んだのであり、同政権が、どれだけ、国民党左派や中国共産党毛沢東派(含むシンパ)はもとより、中国共産党ソ連派(含むシンパ)をも、弾圧・虐殺しようと、意に介さずに同政権への支持を貫くことになるのです。
 他方、蒋介石が親ソ・反日を貫いたのは、自分が親ソ・反日であった孫文の正統な継承者であるとの自負に加え、ソ連が、自分を手先として選び自分が支那内の上記諸敵を弾圧・虐殺して権力を掌握するのを黙認してくれること、諸列強中(保護国であるモンゴルを入れればなおさら)最長の国境線で接する国であって軍事・経済援助を質量とも継続的に行ってくれる能力と意思を有していたこと、更には、1925年10月から1937年3月まで長男の蒋経国がいわば人質のような形でソ連に滞在していたこと、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%8B%E7%B5%8C%E5%9B%BD
そして、何よりも、米国等とは違って、蒋介石及び蒋一族の腐敗(後述)になど関心がなかったこと、からだと私は思うのです。
 また、以上の私見が正しいとすると、その論理的帰結として、第一次国共合作の解消後、蒋介石政権が最大の敵となったところの、中国共産党毛沢東派、そして、毛沢東がその実権を掌握してからの中国共産党、は、ソ連と、タテマエの上では友好関係でもホンネでは敵対関係に立たざるをえなかった、ということになるはずです。

 (3)アルコス(All Russian Co-operative Society=ARCOS)事件

 では、いよいよ、アルコス事件についてご説明しましょう。
 まず、その前史からです。↓

 「第2次ロシア革命の経過の中で、<ソ連>がそれまでの戦時共産主義から新経済政策<(ネップ)>に転換し、農業での一定の私有地での清算、企業の自由を認めたレーニンは、経済の活発化を促すための外国との貿易を再開することを望んだ。<ソ連>政府代表がロンドンを訪れて<英国>の財界指導者と接触した結果、<英国>は正式な<ソ連>の承認には踏み切らなかったものの、貿易関係を再開することで同意した。その結果、1921年に<英国>と<ソ連>の間で通商協定が成立し、相互に通商代表部を設置された。<英国>側には世界経済において<米国>に主導権を奪われていたため、<ソ連>を新たな市場として期待したのだった。ただし、<英国>としては、<ソ連>政府がアジアの<英>植民地での独立運動に対する支援などをしないことを条件とすることは忘れなかった。 」
http://www.y-history.net/appendix/wh1501-114_1.html
 「1924年1月、<英>労働党のラムゼイ・マクドナルドが少数与党ながら首相となり、<英国>史上初の左派政権が誕生すると、2月に早速、レーニン死去直後のソ連と外交関係を樹立した。[<更に、>8月8日に<ソ連>政府との間で英ソ貿易協定を調印した。ロシア帝政時代の債務を返済する代償として新たに融資する計画が含まれていた。]しかし、同年10月の総選挙の直前、国際共産主義運動機関であるコミンテルンのグリゴリー・ジノヴィエフ議長が<英国>共産党(CPGB)に出した社会扇動指令とされ、ソ連崩壊後の1999年になって偽書と公式確認されたジノヴィエフ書簡<(コラム#4508)>が提示され、労働党政権は崩壊した。総選挙後に首相へ復帰した保守党のスタンリー・ボールドウィンは対ソ強硬策に回帰し・・・〈ジノヴィエフ書簡を真正と認定した上で、11月21日、まだ批准されていなかった英ソ貿易協定を反故にし〉・・・た。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%93%E3%82%A8%E3%83%88%E9%80%A3%E9%82%A6%E3%81%AE%E5%A4%96%E4%BA%A4%E9%96%A2%E4%BF%82#.E3.82.A4.E3.82.AE.E3.83.AA.E3.82.B9
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%8E%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%A8%E3%83%95%E6%9B%B8%E7%B0%A1 ([]内)
https://en.wikipedia.org/wiki/Zinoviev_letter (〈〉内)
 (同じ頃、MI5は、この書簡を偽書と決定したものの、政府には伝えなかった。(上掲))

 さて、アルコス事件そのものについては、以下の通りです。↓

 「[アルコスは、1920年10月に設立された、株主が全員ソ連人であるところの英国の株式会社でソ連の公式英ソ貿易商社だが、実はソ諜報活動のフロントだった。]
 「1927年5月12日、ロンドン金融街にある5階建てのソ連ハウスと呼ばれた建物を100人以上の警官が急襲した。そこにはアルコスとソ連貿易代表団の事務所があり、千人以上のソ連の職員や従業員が常駐していた。この捜索は2昼夜に亘った。そしてボールドウィン政権はソ連が「大英帝国と南北アメリカのいたる場所においての軍事的スパイ活動および破壊活動」のためにアルコスを使ったとして非難した。この一件はアルコス事件として知られるようになる。ソ連と英国間の外交関係と貿易協定は、この事件の直後に解消された。英・ソ連の国交断絶は1927年5月26日であった。
 <ソ連>は国権回復の気運の高い<支那>南部の新興勢力に加担し、その中で<英国>の名声と利益を損なう反英運動などが激しく行われてから、両国の関係は悪化していた。1927年3月24日に起きた南京事件には<ソ連>の関係があるとして<張作霖によって>行われた同年4月6日の北京のソ連大使館官舎の家宅捜索では、ロシア人・<支那>人80名以上が検挙されるとともに、北京における工作活動、あるいは暴力に訴えるための4,120名に及ぶ宣伝部員等の名簿並びに<英国>、フランス、日本に対する反抗的策動を目的とする委員会の調印文書など共産化の陰謀を示す書類が見つかり、その内容は<英>下院においてもチェンバレン外相から発表されていた。
 <英>国内に限っても<ソ連>の官憲と商務官が<英国>の国家を危うくする宣伝と陰謀を行っていたことは<英国>政府の承知するところであり、このことについて<ソ連>に対して行った警告も6回に及んでいた。アルコス事件に関してボールドウィン首相自ら行った報告では、アルコス事件の直前には<英>空軍の秘密書類がソビエトの工作員の手に入り、別の重要文書もアルコスに渡ったことの確証を得ていたとされた。・・・
 1927年5月24日、<英>首相ボールドウィンは、アルコスを捜索した結果を次のように発表している。
アルコスの地下室には写真部と暗号電信部が存在し、その部屋では<ソ連>商務官が特権を用いて国際的な共産化の宣伝、加えて政治と軍事上の秘密活動を行っていたことを示す証拠書類を発見した。
<ソ連>外交官と商務官とアルコスの人員は、互いに連絡を取るため三者の区別がないことが確認された。
アルコスの捜索の際に商務官首脳の事務室の隣に秘密の部屋が発見され、そこでは多数の書類が焼却されていたが、諸国の共産党員から通信の名簿が押収された。それによると、ロンドンのアルコスは<米国>、メキシコ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカの共産化宣伝と政治・軍事に関する諜報活動の本部であることが確認された。
<ソ連>は<英>船員に対する共産主義の宣伝を大規模に行っていたことが判明した。
押収された多数の暗号電報の中に、<ソ連>の外務人民委員チチェーリンから北京大使館に出されたものがあり、それは大使の後継者決定まではボロディンはモスクワより直接指揮命令を受けるという訓電の写しであった。他にも南京事件について<英国>政府の収集した証拠を覆す宣伝材料を電報で取り寄せ、これを<英>労働党とその機関紙『デーリーヘラルド』 (Daily Herald) に供給することを指示する訓電、加えて<支那>問題、<英国>の労働法改正法案などに関する宣伝文書並びに<英>労働団体との往復文書も見つかった。
 ボールドウィンはこのような<ソ連>官憲の特権乱用、宣伝、国際的諜報活動は<英国>が見過ごすことのできないものとして、対<ソ連>・・・との通商条約を破棄し、<ソ連>商務官と外交官のロンドンからの退去とモスクワ駐在の<英>外交官の召還<・・すなわち、英ソ国交断絶・・>を要求、5月26日下院において承認された。」 
 [この、アルコスへのガサ入れの結果、英国政府が新たに得た情報は実は余りなかった一方で、首相が議会でアルコス関係のソ連暗号電報を解読して英訳したものを読み上げたことから、ソ連は暗号を刷新し、ついに英国政府は、第二次世界大戦終了の頃まで、ソ連の暗号を破れないままだった。]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%82%B9_(%E3%82%BD%E9%80%A3) (「」内)
https://en.wikipedia.org/wiki/All_Russian_Co-operative_Society ([]内)
 「1929年5月、マクドナルドが再び政権に返り咲くと10月にソ連との国交が再開された」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%93%E3%82%A8%E3%83%88%E9%80%A3%E9%82%A6%E3%81%AE%E5%A4%96%E4%BA%A4%E9%96%A2%E4%BF%82#.E3.82.A4.E3.82.AE.E3.83.AA.E3.82.B9

 以上を踏まえた私のヨミはこうです。
 1926年は英国にとって危機的な年でした。
 第一次世界大戦後の経済停滞がまだ続いており、
https://en.wikipedia.org/wiki/Economic_history_of_the_United_Kingdom#Postwar_stagnation
英国における、初めての(、そして戦前唯一の、)ゼネスト(コラム#5750)が5月に行われ、それは、英国共産党やソ連の工作によって行われたものでこそなかったけれど、英国が、一時、一種の革命状況を呈したからです。
 この時、責任政党として政権奪回を目指していた英労働党は、保守党政府と労働組合会議(Trades Union Congress=TUC)の間で苦しい立場に置かれました。 
https://en.wikipedia.org/wiki/1926_United_Kingdom_general_strike
 アルコスのガサ入れが決行されたのは1927年5月12日だったわけですが、その前年1926年の12月段階で、恐らく既にアルコスの内偵は完了しており、ボールドウィン首相(第二次内閣)は、アルコスのガサ入れが、英労働党の最初の政権が実現したソ連との国交回復の撤回(国交断絶)につながることから、弱った労働党を更に痛め付けることを目的とした策動と受け止められないよう、労働党に対して慎重に根回しをした上で、アルコスへのガサ入れのタイミングを決めた、と考えられるのです。
 しかし、遅かれ早かれ、アルコスへのガサ入れを行い、ソ連の、英本国を含む、大英帝国内の諜報・工作網を壊滅させることができる、という前提で、ボールドウィン首相は、英国の経済浮揚の足を引っ張りかねないところの、支那市場からの英国の締め出しを何が何でも回避するため、中国国民党政権の、良く解すれば脱容共に期待して、悪く解すれば容共性には目を瞑って、支那に係る外交革命に1926年12月26日に踏み切った、と。
 (英国の1920年代の経済停滞の深刻さと、1926年から27年にかけての小康状態が、当時の失業率やGRPの推移から分かる。↓
http://www.economicshelp.org/blog/5948/economics/uk-economy-in-the-1920s/ )
 この外交革命は、後で述べるように、後にチャーチル首相の下で、大英帝国が過早に崩壊してしまうことにつながる日英離間をもたらしたところの、英国にとっての大失策であった、というのが私の見解であるところ、その「元凶」のボールドウィンの日本語及び英語ウィキペディアで、この外交革命どころか、アルコス事件すら言及されていないのは困ったものです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%B3 (←そもそも、日本語ウィキペディアは余りにも分量が少ない!)
https://en.wikipedia.org/wiki/Stanley_Baldwin 
 こんな、大失策をやらかしたところに、英保守党の劣化が窺えますし、アルコスへのガサ入れ/ソ連との断交、について、英労働党(と自由党?)への根回しに時間がかかったことや「議会でアルコス関係のソ連暗号電報を解読して英訳したものを読み上げ」るという愚行が英労働党(と自由党?)からの要求に応じた可能性が高いことから、当時の英労働党議員達の質の低さも想像したくなるわけです。
 (前回「講演」での、英国の指導層の劣化に係る私の指摘を思い出してください。)

 (4)エピローグ--ヌーラン事件
 
 さて、この際、ついでに触れておきたいのが、大英帝国としての、ロシアとのグレートゲームの掉尾を飾る、1931年6月のヌーラン事件です。
 上海租界は、同租界の工部局(コラム#4711、4958、4964、4966、5062、5064)を通じて、英国が牛耳っていたことを思い出してください。↓

 「イレール・ヌーラン(Hilaire Noulens、1894年3月24日 - 1963年3月13日)は、プロフィンテルンに所属した<ソ連>のスパイ。・・・
 1931年6月15日、太平洋労働組合書記局の書記員のとき、妻とともに上海租界の工部局警察高等課に逮捕された(ヌーラン事件)。パスポート名はスイス国籍Ya.ルージャクであったが、ほかにも複数国のパスポートを所持し、十数か所のアジトや別の名前での8つの郵便私書箱を有し、2つの事務所と商店を経営していた。ヌーランの検挙により、上海を中心としてアジア各地に張り巡らされていたコミンテルンのネットワークが摘発されていった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%8C%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3
 それは、「<大英>帝国とコミンテルンが熾烈な興亡を繰り広げた結果、タン・マラガ、グエン・アイコック(ホーチミン)など、アジアの革命かが政治情報警察によって一網打尽となった国際的逮捕劇<だった>。」
https://www.toho-shoten.co.jp/export/sites/default/review/405/toho405-01.pdf
 ちなみに、「タン・マラカ(Tan Malaka, 1897年〜1949年2月19日)は・・・宗主国オランダに留学。ハールレムの王立師範学校に学ぶ。・・・草創期のインドネシア共産党を牽引」という人物。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%A9%E3%82%AB

 私見では、アルコス事件でもって、大英帝国内のソ連の諜報・工作網を壊滅させた英国が、その延長線上で、今度は、南アジア及び東南アジアにおける英諸植民地の対ソ安保を万全化させるために、東南アジアにおけるソ連の諜報・工作網の弱体化を企図して起こしたのがヌーラン事件です。
 このような、諜報戦における英国の勝利、ソ連の敗北も、下掲のように、ソ連をして、諜報・工作の対象を英国ないし大英帝国から、日独へと転換することを余儀なくせしめた要因の一つである、と私は見ています。
 (ソ連の指導部が受けた衝撃の大きさを物語るのが、ずっと後の、スターリン死後のベリヤ粛清の際のでっちあげ罪状が彼が英国のスパイだった挿話だ、と言えそうです。(コラム#8583))↓

 「1935年に、コミンテルン大会、すなわち、赤露、が、「<第一に、>一国的及び国際的統一戦線及び人民戦線の徹底的展開並びにその効果的活動方針を決定し・・・第二に共産主義化の攻撃目標を主として日本、ドイツ、ポーランドに選定し、この国々の打倒にはイギリス、フランス、アメリカの資本主義国とも提携して個々を撃破する戦略を用いること、第三に日本を中心とする共産主義化のために中国<・・中国国民党政権のことと見てよい(太田)・・>を重用すること<としたことを受け、>コミンテルンの主な攻撃目標にされた日本とドイツは1936年11月25日に日独防共協定を調印した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%AB%E3%83%B3 」(コラム#8346)

 ところが、英国は、対赤露諜報戦での勝利でもって油断し過ぎてしまい、あろうことか、まず、1920年代には、対露グレートゲームの同志であった日本の梯子をアジアで外し、次いで1940年代には、赤露を同志として、独、日と戦い、東欧を赤露にくれてやっただけでなく、大英帝国の過早な瓦解を招いてしまうわけです。

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[ケンブリッジ・ファイヴと尾崎秀実]

 英国の油断の程が窺えるのが、英国と日本の高度な知識人でソ連のスパイになった者の数の違いだ。↓

 キム・フィルビー(Harold Adrian Russell "Kim" Philby。1912〜88年)ら「ケンブリッジ・ファイヴ<(Cambridge Five=Cambridge Spy Ring)の>・・・メンバーは1930年代にケンブリッジ大学において共産主義を信奉するようになり、ソ連の・・・スパイとして活動するようになった。」うち、3名は暴露後ソ連に亡命。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B1%E3%83%B3%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%B8%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%B4
 尾崎秀実(1901〜44年(刑死))は、「一高を経て、東京帝国大学法学部を卒業、大学院で1年学んだ。この前後に共産主義のシンパになる・・・
ソ連のスパイとして働いた功績からソ連政府から勲章と表彰状を受けたとされていたが、近年その存在が確認された。それを受けて、ロシア政府は親族からの申し出があれば勲章と賞状を授与すると2010年1月発表している。また尾崎と共に活動し投獄、獄死した宮城与徳の<在米の>遺族は、勲章と表彰状を受領した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BE%E5%B4%8E%E7%A7%80%E5%AE%9F

 なお、尾崎と宮城の叙勲等に係るソ連と新生ロシアの継続性は、ロシアの(帝政ロシア以来の)連続性を如実に物語っている。
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2 西安事件(Xi'an Incident)

 (1) 謎だらけの西安事件

 次は、西安事件についてです。
 西安事件/第二次国共合作は、スターリンが、ナチスドイツと日本によって東西から挟撃されることを恐れ、日本に対ソ侵攻を断念させる目的で、蒋介石政権をして、支那統一よりも対日戦争を優先させ、対日開戦をさせるために仕組んだ(下掲年表参照)、と見てよいでしょう。
 
 この年表は重要なので、何度か読み返してください。↓
    1935年(昭和10年)3月16日:ドイツ再軍備宣言
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E5%86%8D%E8%BB%8D%E5%82%99%E5%AE%A3%E8%A8%80
    1935年(昭和10年)7月25日〜8月20日:第7回コミンテルン世界大会(統一戦線及び人民戦線の推進を決定)(前出)
    1936年(昭和11年)11月25日:日独防共協定調印
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%B2%E5%85%B1%E5%8D%94%E5%AE%9A
    1936年(昭和11年)12月12日:西安事件
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%AE%89%E4%BA%8B%E4%BB%B6
    1936年(昭和11年)12月24日:第二次国共合作
https://en.wikipedia.org/wiki/Second_United_Front
    1937年(昭和12年)1月:関東軍、「対ソ<抑止>の経済基礎を構築することが目的」の「満州産業開発五カ年計画要綱」策定。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E5%B7%9E%E7%94%A3%E6%A5%AD%E9%96%8B%E7%99%BA%E4%BA%94%E3%82%AB%E5%B9%B4%E8%A8%88%E7%94%BB
    1937年(昭和12年)7月7日:盧溝橋事件
    1937年(昭和12年)8月13日:第二次上海事変
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%85%B1%E5%90%88%E4%BD%9C
    1937年(昭和12年)8月21日:中ソ不可侵条約調印
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E3%82%BD%E4%B8%8D%E5%8F%AF%E4%BE%B5%E6%9D%A1%E7%B4%84

 魔訶不思議なのは、第二次国共合作に、毛沢東も(注4)蒋介石も、西安事件が「解決」する寸前まで反対していた(注5)にもかかわらず、同合作が成立したことです。

 (注4)「スターリンとコミンテルンの許可の下、王明率いるところの、中国共産党のコミンテルン代表団は、・・・支那が日本に対する統一戦線(United Front)を樹立するよう促す声明を発した。この声明の中で、現段階では、中国共産党の最大の敵は蒋介石ではなく日本であるとしたのだ。
 しかし、これは、中国共産党を支配し蒋介石の諸政策に大いに不同意であった毛沢東及び彼の仲間達からは冷たいあしらいを受けた。」
https://en.wikipedia.org/wiki/Xi%27an_Incident
 「蒋介石<が西安で>監禁<さる、と>の報を受けた中国共産党は、蒋介石殺害を検討したが、スターリンの鶴の一声で立ち消えとなった。スターリンは「蒋介石を釈放しなければコミンテルンを除名する」と恫喝している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%AE%89%E4%BA%8B%E4%BB%B6
 (注5)西安での蒋介石監禁は、武力衝突を伴う形でなされた。↓
 「蒋介石<誘拐の際に、蒋介石側は>・・・20名、実行部隊は17名の死傷者を出した。・・・
 監禁された蒋介石は張学良らの要求を強硬な態度で拒絶した。12月13日、黄埔軍官学校書記長文儀は第28師、第51師に西安攻撃を進言するとともに軍官学校卒業生7万余人の名で強硬策を国民政府に進言した。中国全国の将軍から中央政府への支持と張学良討伐を要請する電報が国民政府に続々と到着していった。ドイツ軍事顧問団のファルケンハウゼン中将からはドイツ人顧問をともなった戦車旅団、ドイツ式訓練を受けた第83師、第87師を西安に派遣し反乱軍への奇襲攻撃と共産軍への空爆を行い、蒋介石釈放交渉を行うとする作戦が献策された。第28師は進撃し、洛陽の空軍部隊は渭南への爆撃を行った。・・・事情を知った一般世論からも張学良は強い批判を浴びることとなった。」(上掲)

 ところが、スターリンの脅迫に屈して蒋介石は殺さないと確約した上で、いやいや重い腰を上げたはずの「中国共産党の周恩来、秦邦憲、葉剣英が西安に入り話し合いが行われ<るや>、国民政府側の蒋介石、宋子文、宋美齢(蒋介石夫人)との間に前8項目に関する合意ができて蒋介石は解放された」(上掲)わけです。
 どうしてこんな結果になったのかについて、「蒋介石と周恩来との間でどのような会談が持たれたか<を>戦後も一貫して張学良は語らなかった」(上掲)ばかりか、肝心の「蒋介石は・・・後年・・・数々のインタビュー内において、西安事件に関して一切発言しようとはしなかった」(上掲)ため、「この会談で具体的に何が話し合われたのか、なぜそれまで頑なに共産党との合意を拒否していた蒋介石の態度が変わったのかについては、関係者が全て鬼籍に入った今となっては、永遠の謎となってしまった。」(上掲)わけです。

 (2)私の新説

  ア 毛沢東が国共合作に否定的だったことははっきりしている
 
 1934年11月から長征が始まったところ、1935年1月に貴州省遵義県(現遵義市)で開催された中国共産党中央政治局拡大会議である遵義会議<(Zunyi Conference)>で、党内の親露派と親毛派・・後者は私見では親日派・・の闘争に後者が最終的な勝利を収め、張聞天(Zhang Wentian。1900〜76年)を書記長、周恩来を最高軍事指導者・・実質上の最高指導者・・とする決定を行い、その後まもなく周恩来は毛沢東に最高軍事指導者の地位を明け渡すこととなるのですが、張聞天は、書記長の座に1943年までとどまることになります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%BE%81
https://en.wikipedia.org/wiki/Communist_Party_of_China
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%B5%E7%BE%A9%E4%BC%9A%E8%AD%B0
https://en.wikipedia.org/wiki/Zhang_Wentian
 これは、張聞天がソ連留学組・・孫逸仙大学(モスクワ)で学ぶ・・であること(上掲)から、(張聞天自身は親毛派に転じていたものの、)ソ連に対して、引き続き、親露派が党を支配しているかのように装うためだった、と考えられるのです。
 なにせ、長征にコミンテルン派遣の軍事顧問である、ドイツ人のオットー・ブラウン(Otto Braun。1900〜74年)もついてきており、遵義会議にも出席していたのですからね。(上掲、及び、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%83%B3_(%E5%85%B1%E7%94%A3%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E8%80%85) )
 周恩来が、一時的に最高軍事指導者の地位を預かったのも、毛沢東嫌いのソ連に対する配慮であった、と思うのです。

 さて、1936年10月の時点で、「<共産党軍は、>・・・8万を越えていた兵力が死亡・脱落などにより数千人にまで減少<した。>・・・<このように、>長征の過程で内部粛清もあり共産党軍<は、>延安に着いた時は壊滅状態になっ<ており、同党は、>コミンテルンの資金援助で何とか食いつないでいる状態であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%BE%81 前掲
と、日本語ウィキペディアは記しており、これは、胡適の、「西安事変がなければ共産党はほどなく消滅していたであろう。・・西安事変が我々の国家に与えた損失は取り返しのつかないものだった」という証言等を鵜呑みにしているのでしょうが、英語ウィキペディアには、「共産党軍が延安に着いた時は壊滅状態になった」という記述も「コミンテルンの資金援助で何とか食いつないでいる状態であった」という記述もありません。
https://en.wikipedia.org/wiki/Long_March
 長征については、中共当局による公式説明を検証する研究が殆どできていない状況(上掲)ですが、私は、長征に関しては英語ウィキペディアの方の見識を買っています。
 私自身は、更に踏み込んで、日本語ウィキペディアの「<共産党軍は、>・・・8万を越えていた兵力が死亡・脱落などにより数千人にまで減少<した。>」という部分・・英語ウィキペディアにも同様の記述がある・・すら疑ってかかるべきである、と考えています。
 その手掛かりになるのが、長征の日本語ウィキペディアの以下のくだりです。↓

 「物資の調達などで略奪を厳禁したので、このことにより中国共産党に対する人民の信頼を勝ち得た」と宣伝しているが、実態としては<、中国共産党は、>人民裁判による地主・資本階級の処刑と資産没収そして小作人からの「革命税」徴収という、革命の美名のもとに行われた狼藉によって食いつないでいた状況」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%BE%81 前掲

 ここは、典拠が付されていないのですが、私は、前段については、より広範かつ肯定的な表現で、典拠付きで英語ウィキペディアにも記されている
https://en.wikipedia.org/wiki/Long_March
ところ、それが消極的な意味での農村での党勢拡大の手段であったのに対し、「人民裁判による地主・資本階級の処刑と資産没収そして小作人からの「革命税」徴収」については、「人民裁判による地主・資本階級の処刑とカネ・モノ資産の共産党への没収、そして、同じく『共産党に没収された農地資産の小作人への分配』、それにより担税力が生じた旧小作人からの「革命税」徴収」と読み替え、『』が積極的な意味での農村での党勢拡大の手段であった、と見ているのです。
 そう見る根拠は次の通りです。
 第二次国共合作中も、実は共産党は国民党との内戦を続けたのですが、共産党が国民党から奪取した地域では、地主からの農地の没収は行っていません。
https://books.google.co.jp/books?id=6oy-4LB56O0C&pg=RA1-PA32&lpg=RA1-PA32&dq=%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E4%BA%BA%E6%B0%91%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD%EF%BC%9B%E8%BE%B2%E6%B0%91%EF%BC%9B%E8%BE%B2%E5%9C%B0&source=bl&ots=lK0FSLYKIg&sig=B3hFNBlbeeiZkqILd4BKHeYtacM&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwiu4PDX3qfOAhVItpQKHc5DC9wQ6AEIHjAA#v=onepage&q=%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E4%BA%BA%E6%B0%91%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD%EF%BC%9B%E8%BE%B2%E6%B0%91%EF%BC%9B%E8%BE%B2%E5%9C%B0&f=false (川島博之『農民国家中国の限界』より)
 しかし、私見では、それは、第二次国共合作の体裁を最小限維持するための、国民党支持基盤たる地主階級への配慮、ということであり、だからこそ、日本軍降伏後、内戦が激化すると、共産党は没収・分配を行い始め、また、それによって、共産党は党勢を拡大して行くのです。(上掲)
 ということは、第二次国共合作前の長征期にも同様のことをやっていた、と考えるのが自然ではないでしょうか。
 そうだったのだとすれば、「8万を越えていた兵力が死亡・脱落などにより数千人にまで減少」した原因のかなりの部分は、「死亡・脱落」による減少などではなく、長征地域等における、国民党/地主・資本階級の反撃への対処や旧小作人からの「革命税」徴収業務のために各地域に残置されたことによる減少であった、そして、これに関連し、「コミンテルンの資金援助」は多多ますます弁ずではあっても必要不可欠なものではなかった、と見ることもあながち穿ち過ぎ、ということにはならないのではないでしょうか。
 
 私が何が言いたいかというと、毛沢東は、(親露派との争いに最終的に勝利を収め、)中国共産党の最高権力を掌握した長征期に、(親露派が拠ろうとした都市労働者ではなく、)農村小作人に拠った革命、というか、支那全域の権力掌握、の方法論を確立・実践し、その有効性に確信を抱くにいたっていたと考えるべきだ、ということです。

 ここで、もう一つ、どうして、毛沢東は、陝西省の延安を、長征の終着点、国共内戦における本拠、として選んだのか、が問題になってきます。
習仲勲の宣撫工作・統治(後出)のおかげで住民に背かれる心配が殆どない地域であったこと、(タテマエは友好関係ホンネは敵対関係の)ロシア(含む、その保護国たるモンゴル)に近い場所であったこと、(タテマエは敵対関係ホンネは友好関係の)日本圏(満州国、内蒙古、華北北部)に近い場所であったこと、延安地区に隣接する西安地区にあって共産党攻撃の任にあった張学良と楊虎城(いずれも後出)を篭絡する見通しがついていたこと、である、と私は見ています。

  イ 張学良が国共合作の首謀者だったことになっている

 西安事件の第一張本人とされてきた、張学良(Zhang Xueliang。1901〜2001年)の同事件との関わりについての通説的説明は、下掲の通りです。↓

 「1934年、張学良は<欧州旅行から>帰国すると共産軍討伐副司令官に任命された。彼は河北省に残っていた旧奉天軍閥の残党を呼び寄せて軍を整えた[(北東軍司令官)]。1935年、西安に駐留して9月から11月にかけて共産党の根拠地を攻撃したが、戦力では勝っていたものの士気の高い紅軍に連敗し多くの将兵を失った。11月末、共産党は張学良に抗日共闘を訴えるようになり、これに同調して極秘に周恩来と会見し両軍は停戦することになった。この時、既に対蒋介石クーデターの構想などが練られていたと言われる。・・・
 張学良は西安事件で蒋介石の日記を読み、彼が対日戦略のために臥薪嘗胆の計を取っていることを知り驚愕する。・・・
 1980年代後半には、・・・事実上軟禁状態が解かれた形となった。・・・
 1990年にはNHKの取材を受けたが「西安事件の真相についてとは証言はできない」とする態度を崩さなかった。・・・
 1991年にアメリカのハワイ州ホノルル市へ移住した。1994年の陸鏗のインタビューに対して、張は「(西安事件に関して)私がすべての責任を負っています。しかしまったく後悔はしていない」と断言している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E5%AD%A6%E8%89%AF
https://en.wikipedia.org/wiki/Yang_Hucheng ([]内)
 張学良が周恩来と会ったのは、1936年4月6日。
https://en.wikipedia.org/wiki/Zhang_Xueliang

 ちなみに、第二張本人とされてきた楊虎城(Yang Hucheng。1893〜1949年)は、中国国民党の北西軍司令官であり、西安事件の後、「妻らとともに蒋介石の指示で・・・捕らえられた。12年間各地で監禁され、妻は虐待の果てに1947年に病死した。・・・重慶陥落(1949年11月)前の9月17日に、蒋介石の命令で本人、幼い娘、秘書ら6人すべて惨殺され、埋められた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%8A%E8%99%8E%E5%9F%8E
https://en.wikipedia.org/wiki/Yang_Hucheng
という目に遭っているところです。

  ウ 蒋介石こそ国共合作の首謀者

 この二人、張と楊に対する、事件以降の、上記にような、蒋による「処遇」の天と地ほどの違いをもたらしたものは一体何だったのでしょうか?
 それは、この2人のうち、張学良だけが蒋介石の「共犯者」だったからだ、つまり、西安事件は蒋介石のやらせ、自作自演だった、蒋介石が主犯だった、というのが私の新説 (コラム#8358)です。
 すなわち、私は、蒋介石は、1936年、日本とできるだけ早く戦端を開こうと決意するに至ったが、中国共産党を壊滅させることを優先してきた手前、中国国民党内の説得は容易ではないので、「西安を訪問した際に自分を「誘拐」した上で、共産党との合作に同意することを条件に自分を「解放」して欲しい。日本は、張の父親を殺し、満州を張から奪ったのだから、君に異存はあるまい。その代わり、知り過ぎることになる君には、生涯(快適な)軟禁生活を送ってもらわざるをえない」、といった具合に張に話を持ちかけた、と見るに至っているのです。
 そう見れば、蒋が、絶対にこの秘密をバラさないであろうところの、(そして、恐らくは事前に計画を打ち明けていたと思われるところの、)身内である(義兄の)宋子文と(妻の)宋美齢、だけを西安に呼び寄せて、共産党等との交渉を補佐させたことの説明もつきます。
 (張が、以上の経緯をしたため、第三者に託した可能性がある以上、蒋は約束を反故にして張を殺害するわけにはいかなかった、とも見ます。)
 問題は、どうして、蒋がこんな大きな方針転換を唐突に行ったのか、です。
 蒋介石は、スターリンから、赤化第一目標を大英帝国から独・日・ポーランドに転換しているけれど、ドイツが本格的再軍備に乗り出したこともあり、まずは日本を軍事的に叩いておきたい、ついては、早期に対日戦を開始して欲しい、北から軍事挑発行動を繰り返すことで日本が対蒋戦に専念できないようにしてあげるから、といった要請を受けていたと考えられ、そんな中で生起したところの、1936年(昭和11年)11月25日の日独防共協定調印が蒋の背中を最終的に押した、と私は想像しています。
 というのも、ドイツが日本と手を握った以上、ドイツからの軍事・経済援助は急速に先細りになることは必至であり、蒋介石一族(注6)の軍事権力と経済利権の源泉を今後ソ連に求めるほかない、という切実な必要性が生じたはずだからです。(注7)

 (注6)四大家族。「中華民国期に政治・経済の実権を握った蒋介石・宋子文・孔祥熙・陳果夫(陳立夫)の一族を指す。四家の姓を取って蒋宋孔陳と呼ぶこともある。
 四家のうち蒋・宋・孔家は血縁関係がある。宋子文の姉宋靄齢は孔祥熙夫人であり、妹の宋美齢は蒋介石夫人だったことから、蒋介石・宋子文・孔祥熙は互いに義理の兄弟の関係にあることになる。ちなみにもう一人の姉宋慶齢は孫文夫人であり、彼らは孫文とも義兄弟の関係ということになる。
 唯一、陳家だけが直接の血縁が無いものの、蒋介石と陳其美は義兄弟の契りを交わしており、其美の甥にあたる陳果夫・陳立夫も特に秘密警察や特務関係で力を振るった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%A4%A7%E5%AE%B6%E6%97%8F
 (注7)「1931年には<支那>の貿易額において対ドイツが米日英に次いで5%を占めていたのに対して、1936年には17%を占めるようになり、英国を抜いて日本に並び、3位となっ<てい>た。・・・
 <しかし、>日独防共協定が締結されると、<国民党政権>とドイツの関係は弱められていった。・・・<国民党政権>が1937年8月21日に結んだ中ソ不可侵条約によりヒトラーの態度は硬化し、・・・中国からの既に注文済みの品の輸出の妨害こそしなかったものの、以後新たな対中輸出が認められることはなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E7%8B%AC%E5%90%88%E4%BD%9C 

 この私の新説は、「統一戦線の形成に関するソ連の強い関心を背景に、国民政府とコミンテルン・中共との接触が、モスクワと中国とでほぽ同時期に開始された。・・・他方、中国国内では、国民党中央組織部長陳立夫の指揮下で、国共間で一九三六年前半までに三回の秘密会談がもたれた。これらの国共交渉において、国民党側が提示した条件は比較的柔軟であった。・・・蒋介石は一月二十二日、ボゴモロフに対して寸紅軍が中央政府と統帥部の権威を認め、現在の編成を維持しつつ対日戦に参加することを基礎として、中共と交渉することが可能であると考えている<、と伝えた(?)>。・・・モスクワは歓迎した。三月十一日、孔祥<熙>と会見したボゴモロフは、孔から秘密裡に、蒋介石が既に統一戦線に関する国共交渉を開始していること、孔自身はこの交渉の成功を希望していることを伝えられているが、ソ連は様々な情報源から統一戦線運動の進展についての感触を得ていた。」(コラム#8580)ことを明らかにしたところの、読者提供史料によって裏付けられた、と言っていいでしょう。
 すなわち、蒋介石は、自分の分身、ないし(腐敗仲間でもある)運命共同体たる四大家族中の陳立夫と孔祥熙に、それぞれ、中国共産党、ソ連/コミンテルン、と、国共合作/対日開戦に係る秘密交渉を行わせる一方で、かねてから掲げてきたところの、「先安内後攘外」(国内の安定化を優先し、その後で対外的危機にあたる)路線(注8)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%8B%E4%BB%8B%E7%9F%B3%E6%94%BF%E6%A8%A9
を唐突に180度転換する公式理由付けに苦慮し、西安事件を企んだ、と見るわけです。

 (注8)1931年7月23日に蒋介石が表明し、1932年6月14日に国民党政権の国策となった。この間の1931年9月18日に満州事変が起こっていることに注意。
https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%85%A7%E6%94%98%E5%A4%96

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[蒋介石政権の腐敗ぶり]

 (まず、下掲↓を読んでいただきたい。)

 「<米陸軍将官の>スティルウェルは、1942年に中国戦線を担当したが、この年から蒋介石は全く役に立たず、能力はあっても抗日戦に軍を使う気がないとレポートしていた。スティルウェルはビルマ・インドに拠点を移し、ビルマの援蒋ルートを遡って中国大陸に攻め入り、数百万の中国兵をアメリカの将校団が指揮することで中国大陸から日本を駆逐するという構想を持つようになる。その為に彼は蒋介石に対し、彼の元に中国陸軍の数個師団をよこし、彼に中国兵の訓練を任せるよう要求するのである。それにより、米式中国軍(米国式中国軍)が編成されている。しかし、この彼の構想は蒋介石の利害と正面から衝突し、二人の関係は悪化。最終的にスティルウェルは蒋介石にひどく嫌われて最後は解任されてしまう。蒋介石は軍隊の強化により政権への反旗の翻しを危惧した。・・・
 <ロ>ーズベルトとは正反対に、彼は中国国民党軍の腐敗と弱小ぶりを見抜いていた。大陸打通作戦の前年には、戦勝後には米英ソ中で構成される『四人の警察官構想』を検討しカイロ会談に出席したルーズベルトに、次に日本軍に攻勢されれば国民党は倒壊すると通告し、さらに中国本土からのアメリカ軍の日本空襲作戦は日本陸軍の猛烈な反撃を招くとして反対した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%BB%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%AB

 (部分的にダブリがあるが、下掲↓も参照されたい。)

 スティルウェルの日記によれば、蒋介石及びその政権によって、1944年価格のドルで3憶8000万ドルが浪費されたとしており、そのため、英国の権威ある史書は、蒋介石政権の徴兵の6〜7割は基礎的訓練を終了できず、4割は脱走し、残りの2割は餓死したとしている。
 スティルウェルは、ローズベルト大統領を介して、蒋介石に、(それまでは蒋介石政権軍の参謀長であったところ、)軍司令官に任命するよう申し入れるが、蒋介石の激しい反発を受け、スティルウェルはウェデマイヤーに交代させられ、本国に召喚される。
 「その直前に、NYタイムスのブルックス・アトキンソン(Brooks Atkinson)がスティルウェルを重慶で取材して、「スティルウェル大将の解任は、自らの政治的至上性の維持を日本軍を支那から駆逐することにより関心のある、瀕死の状態にある反民主的な体制の政治的勝利を意味する。・・・大元帥<(蒋介石)>は、中国共産党軍を、支那と自分の至上性への最大の脅威と見ており、この戦争の間は少なくとも彼らとの休戦を整えるまともな試みを行う必要性を感じていない。…いかなる外交的天才をもってしても、自分の軍を日本軍との戦闘で危険に晒すことへの基本的躊躇を克服することなどできない」と書いた。
 アトキンソンは、それ以前に延安の毛沢東を訪れており、中国共産党軍は民主的運動体・・・であり、中国国民党は、それに対し、絶望的に反動的で腐敗している、と見て<、そう記事に書いていた。>
 この見解は、当時、支那にいた米記者団の多くが共有していた。
 この、米国内での国民党に対する否定的イメージは、ハリー・トルーマンによる、支那内戦最高潮の時に蒋介石への米国の援助を全て注視する決定にあたって、大きな要素を演じた。」
https://en.wikipedia.org/wiki/Joseph_Stilwell

 (これも部分的にダブリがあるが、下掲↓は、コラム#8330での紹介したのとほぼ同じもの。)

 「<ロ>ーズベルトは開戦以来一貫して蒋介石を強く信頼し支持し、カイロ会談の際に蒋介石を日本との単独講和で連合国から脱落しないように対日戦争で激励し期待をかけたが、<1944年に日本が仕掛けた大陸打通>作戦により蒋介石の戦線が総崩れになった事でその考え方を改めたという。<ロ>ーズベルトの配下のジョージ・マーシャル陸軍参謀総長やジョセフ・スティルウェル将軍が、かねてより主張してきたとおり、実は蒋介石の軍隊は軍隊の体をなしていない士気の沮喪したどうしようもない腐敗した組織であり、とても<米国>とともに戦う意欲もなければ能力もないことが明らかになったのだという。その結果、<ロ>ーズベルト大統領は対日作戦のシナリオを、従来の<支那>大陸の航空基地から日本などを爆撃するというものから、太平洋の島々を逐次占領していくものに転換した。そしてもう一つ重要な点は、それまで蒋介石とその一派にのみ注がれ続けていた<米国>の目を、<支那>のもう一つの勢力、毛沢東指揮下の中国共産党軍に向けさせる効果をもったことである。
 この大陸打通作戦の最大の目的は、<支那>西南地区に設置された<米>陸軍航空軍基地群を占領する事であった。日本は中国戦線の制空権を完全に奪われており、<支那>の基地から出発したB-29爆撃機は九州、山陰、朝鮮を爆撃していた。満足な装備を持たない日本軍がこの作戦に成功した要因は国民党軍が戦わなかったからである。桂州、柳州では在華米軍基地を日本軍に明け渡した。7月<ロ>ーズベルトは蒋介石に書簡を送り、在華米軍、国民党軍、共産軍を統合した最高指揮官にスティルウェル将軍を任命するよう提案したが、蒋介石はこれを拒絶している。スティルウェルはその日記に次のように記述している。
 “ 蒋介石は自分に補給される軍需品をためておき、日本軍の退去につれ、共産主義者の地域を占拠してこれを粉砕するつもりである。(日本軍と)真剣に戦う努力はしないであろう。 ・・・
 「中国は勝てるか」と述べた<ロ>ーズベルトに対し、スティルウェルは「蒋介石を排除するしかない」と述べ、・・・「大陸打通作戦」の過程で6月に発生した・・・衡陽会戦に際しては夜も眠れず、2回も自殺を考えたと言う。アメリカ側も蒋介石の暗殺を計画し、毒殺・航空機事件・自殺に見せかけるという三方法が検討されたが、1944年ビルマ等の国際状況の変化で中止した。・・・”
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%99%B8%E6%89%93%E9%80%9A%E4%BD%9C%E6%88%A6 
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 その蒋にとって予想外だったのは、壊滅寸前まで追い詰めていたはずの中国共産党の指導者、毛沢東が、本気で国共合作をするつもりなどなかったことであったと想像されます。
 蒋の命が救われたのは、毛が、スターリンの「指示」(前述)に従ってみせることで、劉少奇らを除いたとはいえ、ソ連系中国共産党員の大半をパージしたことにより、毛に対して疑心暗鬼になっていたはずのスターリンのご機嫌をとり、ソ連からの軍事・経済援助の継続を確実なものにしておいた方が得策だ、といった思いに、最後の瞬間に転じたからではないでしょうか。
 ところで、張は、蒋介石の死後、ついに完全に自由な身分になったというのに、引き続き、死ぬまで西安事件について口を噤んだままだったのはなぜでしょうか?
 それは、蒋の対日戦争への思いをホンモノだと信じて、生涯にわたる自分の軟禁を甘受してまで蒋による自作自演に全面協力をしたというのに、(彼から事前に蒋に伝えてあったに違いないところの、国共合作に応じる意思が毛沢東にはあるとの情報が誤っており、すんでのところで蒋が命を落とすところであったこともさることながら、)実は日本とまともに戦う気などなかった蒋にまんまと騙されていたことを後になって知って臍を噛んだ張は、そんな愚かな自分を心底恥じた、ということではないでしょうか。
 (中国共産党に至っては、第二次国共合作下でも、日本と殆ど戦わなかったどころか、内々日本に内通さえしていたところ、このことをどの程度軟禁中の張が知るに至っていたかは分かりませんが、)張学良は、蒋が碌に日本と戦わず、一族の軍事権力と経済利権を、ソ連からの援助に加えて米英からの援助まで得る形で、守ることにもっぱら汲汲とし続け、だからこそ、米英に見放されたこと、くらいは知るに至っていたはずですからね。

  エ スターリンも要は張同様に蒋・毛双方に騙されたということ

 スターリンは、「ソ連の傀儡政権である蒋介石政権に対日開戦させ、更に英米に同政権を軍事支援させるとともに、自らは満ソ・満蒙国境で対日軍事挑発を繰り返すことで、一、日本が対ソ開戦するのを蒋介石政権と協力して南北挟撃して打ち破る、か、二、日本が対ソ開戦はせずに対英米開戦をして疲弊したところを後ろから衝く、ことによって、支那全域のソ連保護国化を実現する」という謀略を立てていたのでしょう。
 そして、この謀略に沿って、1937年に蒋介石政権による対日開戦の運びとなり、1939年、独ソ不可侵条約締結の目途が立ったことにより、最大限の対日軍事挑発たる、ノモンハン事件を敢行したものの、日本軍の手ごわさに、一を放棄し、二に絞り、爾後、対日軍事挑発を中止し、更に1941年には日ソ中立条約締結まで行った上で、目論見通り日本が対英米開戦をした後は、日本を後ろから衝くタイミングをはかることにしたわけです。

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[長征ロケットから読み解く長征の本質]

 下掲から分かるように、毛沢東は、長距離弾道弾の自力開発の目途をつけてから、なお、ソ連を利用することで開発速度を上げたと考えられるのであり、こうして開発した弾道弾に「長征」という名前を付けたことは、長征そのものが、自力による支那権力掌握の目途をつけてから、なお、ソ連を利用し続けることとした営みであったことを示す、一種のジョークである、と私は、大胆な(?)想像をしている。

 「中国の人工衛星打上げロケットである」長征ロケットは、「ソ連から中国への技術導入はヤンゲリ設計局(OKB-586)の技術陣によって1957年12月24日から行われ、中ソ対立の進行によってソ連共産党指導部による技術陣の引き上げが完了する1960年6月まで2年半続いた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%BE%81_(%E3%83%AD%E3%82%B1%E3%83%83%E3%83%88)

 開発を主導した科学者の銭学森(1911〜2009年)の経歴は以下の通りだ。↓

 「「中国誘導弾の父」「中国宇宙開発の父」「ロケット王」と呼ばれ・・・東風・長征・海鷹2号誘導弾(シルクワームミサイル)等の開発を指揮。・・・
1939年 カリフォルニア工科大学で博士号取得。
1944年 米国国防総省の科学顧問。
1947年 マサチューセッツ工科大教授となる。
1949年 カリフォルニア工科大教授となる。
1950年 共産主義者との嫌疑で逮捕、軟禁状態に置かれる。
1955年 軟禁を解かれ朝鮮戦争の米軍捕虜と交換で中国側に引き渡される。
1956年 中国科学院力学研究所の所長となる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%AD%E5%AD%A6%E6%A3%AE

 毛の長距離弾道弾や核の開発におけるソ連の利用が、中ソ対立、及び、その公然化と並行して行われたこと・・よくもまあやってのけたものだ・・が下掲から分かる。↓

「1956年2月、ソ連共産党第20回党大会で、ニキータ・フルシチョフがスターリン批判、平和共存路線採択、東欧各地で動揺。これを契機に中華人民共和国とソ連の間でイデオロギー論争が生じる。10月にハンガリー革命。
1957年10月、モスクワでロシア革命40周年記念式典開催、中国共産党中央委員会主席毛沢東2度目の訪ソ、モスクワ大学で講演「東風は西風を圧す」を語り暗にフルシチョフの平和共存政策を批判。
1958年7月、ソ連共産党中央委員会第一書記フルシチョフ訪中、毛沢東との会談で中ソ共同艦隊等の提案をするも毛沢東拒否。
1959年6月、ソ連が原爆供与に関する中ソ間の国防用新技術協定を破棄。同年10月、フルシチョフが北京訪問し、毛沢東と会談するも意見不一致の為共同声明出ず。
1960年4月、人民日報及び紅旗が共同論説「レーニン主義万歳」発表。中ソ論争が表面化し、同年6月、ソ連共産党指導部は中華人民共和国に派遣していた技術専門家をひきあげる。同年11月、モスクワで81カ国共産党会議開催、中華人民共和国とソ連の間で意見調整、妥協的なモスクワ宣言発表。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E3%82%BD%E5%AF%BE%E7%AB%8B

 なお、毛の核開発については、下掲参照。↓
https://en.wikipedia.org/wiki/China_and_weapons_of_mass_destruction

 こちらの開発を主導した銭三強(Qian Sanqiang。1910〜92)・・上の銭と親戚関係にはない・・は、上の銭より科学者として遜色があるように見受けられることから、核については、かなり、ソ連への依存度が高い開発であったのではないか。
 この原子物理学者・銭三強の経歴等だが、浙江省紹興に生まれ、革命運動の中心北京で青少年時代を過ごし、清華大学で学び、北平研究院物理研究所で研究を続け、1937年、公費留学生としてフランスに留学し、ジョリオ・キュリー夫妻の下で核分裂に関する研究、実験に従事し、この間、ドイツ留学中の何沢慧(1914―2011)と結婚し、1949年帰国して中共の科学院近代物理研究所長、同原子力研究所長、中国科学院副秘書長などを歴任、1964年10月に成功した中国第1回原爆実験を指導した、というものだ。
https://kotobank.jp/word/%E9%8A%AD%E4%B8%89%E5%BC%B7-88301
https://en.wikipedia.org/wiki/Qian_Sanqiang
http://www.nytimes.com/1992/07/03/world/qian-sanqiang-chinese-physicist-on-atom-bomb-team-dies-at-79.html
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 (3)盧溝橋事件(Marco Polo Bridge Incident)

 盧溝橋事件、及びその後の日支衝突の本格化、そして第二次上海事変は、ソ連と蒋介石が連携して引き起こしたものである、と言ってよいでしょう。↓

 <ソ連・(手先が自軍に紛れ込んでいた)蒋介石、と、日本との板挟みになり、緩衝地帯の指導者は窮地に。↓>
 「1935年・・・7月、梅津・何応欽協定(何梅協定)により国民党(国民政府)の主力軍は河北省から撤退せざるを得なくなる。この結果として、<国民党>非直系の宋哲元が平津衛戌司令に任命されることになった。
 同年末には、宋哲元は冀察政務委員会委員長を兼任し、さらには平津衛戌司令を改組した冀察綏靖公署主任に任命された。これにより、宋は河北省を強力な自立勢力圏として、蒋介石の中央が容易に手出しできないようにさせた。・・・
 日本に対しては、完全なる敵対姿勢もとれず、逆に和平の姿勢では国内世論の攻撃を受けるというジレンマに陥っ<た>。・・・
 1937年(民国26年)7月、盧溝橋事件が勃発した後、宋哲元は日本軍側との人脈を生かして、いったんは停戦に持ち込んだ。7月18日に宋は「自分は今回の事変について甚だ遺憾に思ひます。今度のことについては軍司令官(香月中将)の指導を仰ぐことにしたいと思ひますから何事>によらず指示に与りたい」という丁寧な挨拶で香月中将に謝罪を行い、19日には停戦協定を樹立した。しかし結局、宋の第29軍は反日感情により何度も発砲を繰り返したために日本軍の主要な攻撃目標の一つとされた。宋は厳しい政治環境の中で一時故郷に戻るなど、抗戦態度の決定に逡巡した。しかし第29軍の内部の気風は強い抗日で、日本軍も攻撃意思が明確だったために、和平など衝突回避の方策はとれなかった。しかも蒋介石はこの停戦協定に反発して、北京に派遣された熊斌は7月22日、天津にいた宋哲元を北平に呼び、主権と領土を守るためには、日本軍の甘言にまどわされず、抗戦を決意しなければならないと説いた。宋もこの説得によってようやく中央の堅い決意を理解し、抗戦の心を決めた。しかし結局、宋率いる第29軍は一部地方で激しく抗戦したものの、敗北して北平・天津を放棄した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%8B%E5%93%B2%E5%85%83
 <ソ連は、傀儡の蒋介石を日本と戦わせるために着々と手を打ってきた、という背景がある。↓>
 「コミンテルンによる中国の抗日運動指導は[1925年5月30日の上海での]五・三〇事件に始まって<いたが>、・・・{短時間に軍隊を派遣できる日本を各国から隔離すること、在留日本人への危害を控えること、排外宣伝は反英運動を建前とすべきであるというもの<であり、日本は攻撃目標ではなかった。ところが、>}・・・1935年7月25日から開会された第七回コミンテルン大会では《<、第一に、>一国的及び国際的統一戦線及び人民戦線の徹底的展開並びにその効果的活動方針を決定し・・・第二に共産主義化の攻撃目標を主として日本、ドイツ、ポーランドに選定し、この国々の打倒には<英、仏、米>の資本主義国とも提携して個々を撃破する戦略を用いること、第三に日本を中心とする共産主義化のために中国を重用することが記されている。<(>コミンテルンの主な攻撃目標にされた日本とドイツは1936年11月25日に日独防共協定を調印した。<)>》
 1935年11月に起きた中山水兵射殺事件、1936年には8月24日に成都事件、9月3日に北海事件、9月19日に漢口邦人巡査射殺事件、9月23日には上海日本人水兵狙撃事件などの反日テロ事件を続発させた。・・・
 〈<また、>1935年12月9日に<は>北京で・・・燕京大学や清華大学の学生らが内戦の停止や抗日運動の弾圧反対を掲げ<た>・・・学生運動<である>一二・九運動<が起こっている。>〉
 〔中国国民党の第十七路軍を率いていた・・・楊虎城<は、>・・・運動に参加した学生側に理解を示し、【父を日本軍に殺された私怨から】反共より抗日を重視する張学良と接近していった。そして、前述したように、1936年、蒋介石に対して、張学良とともにクーデタを決行(西安事件)し、中国国民党と中国共産党の間の国共内戦を収拾させた。
 <楊は蒋介石によって>12年間各地で監禁され、妻は虐待の果てに1947年に病死し・・・<終戦後の国共内戦末期に>蒋介石の命令で本人、幼い娘、秘書ら6人<が>惨殺され<た。>〕
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%A7%E6%BA%9D%E6%A9%8B%E4%BA%8B%E4%BB%B6
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E3%83%BB%E4%B8%89%E3%80%87%E4%BA%8B%E4%BB%B6 ([]内)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%83%AD%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%B3 ({}内)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E4%BA%8C%E3%83%BB%E4%B9%9D%E9%81%8B%E5%8B%95 (〈〉内)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%8A%E8%99%8E%E5%9F%8E (〔〕内)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E5%AD%A6%E8%89%AF (【】内)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%AB%E3%83%B3 (《》)
 <その上で、ソ連・蒋介石は、盧溝橋事件を起こした、ということ。
 但し、この事件には中国共産党員が関与したとされている。↓>
 「盧溝橋事件前、<宋哲元の>第二十九軍はコミンテルン指導の下、・・・抗日事件に関して張北事件、豊台事件をはじめとし、盧溝橋事件までの僅かな期間だけでも邦人の不法取調べや監禁・暴行、軍用電話線切断事件、日本・中国連絡用飛行の阻止など50件以上の不法事件を起こしていた。・・・国民政府からの中堅将校以外にも中国共産党員が活動していた。副参謀長張克侠をはじめ参謀処の肖明、情報処長靖任秋、軍訓団大隊長馮洪国、朱大鵬、尹心田、周茂蘭、過家芳らの中国共産党員は第二十九軍の幹部であり、他にも張経武、朱則民、劉昭らは将校に対する工作を行い、張克侠の紹介により張友漁は南苑の参謀訓練班教官の立場で兵士の思想教育を行っていた。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%A7%E6%BA%9D%E6%A9%8B%E4%BA%8B%E4%BB%B6
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E3%83%BB%E4%B8%89%E3%80%87%E4%BA%8B%E4%BB%B6 ([]内)

 しかし、下掲から窺えるのは、この謀略を指揮したのは、中国共産党の劉少奇だったということです。↓

 「盧溝橋事件より前に支那二十九軍は日本軍を各個撃破する計画をたてており、これは盧溝橋事件後に日本軍が計画書を発見しています。支那二十九軍は5月から増兵、トーチカなどの整備にあたっていました。副参謀の張克侠(共産党員)は積極的に日本軍撃滅を考えていました。張克侠は最終的には満州攻略を考えており、この計画を支持していたのが、共産党の指導者である劉少奇書記<(当時)>です。
 この事件発生後、日本軍の憲兵隊と特務機関で調査したところ、中共北方局主任・劉少奇指導下に北平・清華大学生たちが土砲と爆竹を鳴らして日華双方を刺激し、事件拡大を策していたことが判明しています。また、戦後、中共軍の将校となった経歴を持つ葛西純一氏は中共軍の「戦史政治課本」の中に、事件は「劉少奇の指導を受けた一隊が決死的に中国共産党中央の指令に基づいて実行した」ものであることが書いてあるのを見たと著書にしるしてあります。」
http://d.hatena.ne.jp/jjtaro_maru/20100707/1278458593

  その劉少奇ですが、彼が赤露直系であることは、下掲から明らかです。↓

 「1921年にソビエト連邦に入国し、モスクワの東方勤労者共産大学[(the Comintern's University of the Toilers of the East)]で学ぶ。同年、中国共産党に入党。1922年にはコミンテルンが主催した極東諸民族大会に参加。同年に帰国後、江西省の安源炭鉱のストライキを李立三らとともに指揮して闘争を成功させ、その後も主に労働運動で活躍した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E5%B0%91%E5%A5%87
 「劉は正統派の(orthodox)ソ連流共産主義者であり、国家計画と重工業の発展を好んだ。」
https://en.wikipedia.org/wiki/Liu_Shaoqi ([]内も)

 毛沢東が、そんな、自分とは思想的に相容れなかったはずの劉を、中国共産党中央に残しておいたのは、対ソ連欺騙及びソ連との連絡役としてだった、というのが私の見立てです。
 (だからこそ、毛は文革中に劉が虐待死させられるのを黙認したのでしょう。)
 対日戦争を含みに国共合作を受け入れた、というか、受け入れざるをえなかった毛沢東は、それがあくまでもソ連の謀略であったと申し開きができるよう、盧溝橋事件に関する謀略は、劉少奇が、自分を通すことなく、ソ連の直接的指揮の下で行うよう措置した、と私は想像しています。
 その根拠は、ソ連の「指示」に真っ向から違背するところの、毛沢東の日本との戦闘回避に向けての執念が、下掲からもうかがえるようにハンパなものではなかったからです。↓

 「モスクワのコミンテルン本部は盧溝橋事件勃発をうけ、次のような指令を発しました。
1.あくまで局地解決を避け、日支の全面衝突に導かなければならない。
2.右目的の貫徹のため、あらゆる手段をりようすべく、局地解決や日本への譲歩によって支那の解放運動を裏切る要人は抹殺してもよい。
3.下層民衆階級に工作し、彼等に行動をおこさせ、国民政府として戦争開始のやむなきにたち判らしめなければならない。・・・」
http://d.hatena.ne.jp/jjtaro_maru/20100707/1278458593 前掲
 「1937年日中全面戦争にいたり、共産党軍は国民革命軍第八路軍<(Eighth Route Army)>となる。38年8月八路軍は山西省前線に向け黄河を渡り、多くの兵士は日本軍との闘いに勇み立ったが、毛は[1937年8月20日の洛川会議(Lochuan Conference)で、]「戦闘ではなく根拠地創造に集中せよ」と指示、[彭徳懐(Peng Dehuai)等、]指揮官達の反発<を受けた。彼らは>、9月山西省.平型関で初めて日本軍と交戦、毛はこれに猛烈に怒り、「蒋介石を利するだけ、何の足しにもならない」として、日本軍が国民政府軍を打ち負かすのを待ち、その後背地を領土として獲得せよ、むしろ日本軍の進軍に「大いに感謝したい」と述べたという。
 抗日戦最中にも、国民党軍を倒すため、日本軍に対して国民党の軍事情報を提供し、見返りに共産軍への攻撃を控える密約をかわす。<(コラム#8598)>
 1940年日中戦争重大局面に入り、重慶<(Chongqing)>に退いた国民党に対する日本の重慶爆撃の爆弾総量は、連合軍が日本全土に投下した爆弾総量の1/3にも上った。毛は日本軍が「重慶あたりまで侵攻してくれることを望んでいた」と語っている。ところが八路軍を指揮していた彭徳懐は党よりも国を優先させる決断を下し「百団大戦<(Hundred Regiments Offensive)>」という日本軍への大規模な作戦計画を立て、毛に何度も打電するが<なかなか>承認を得られ<なかったが、ついに>8月戦闘開始命令を出し、日本軍にとって「完全に予想外の出来事」で、1ヶ月の戦闘によって日本側の損害は「きわめて深刻かつ甚大」であった<と報告された《(兵士の死傷者数ではその真逆だったが)》>。毛は蒋介石敗北の可能性が小さくなったとして、怒りで煮えたぎり、百団大戦は中国が日本占領下にあった8年の間に共産党勢力が実行した唯一の大規模作戦であったにもかかわらず、後<で>、彭徳懐は<2度にわたり>高い代償を支払わされる。」
http://www.assert.jp/data/2006/34305.html (『マオ 誰も知らなかった毛沢東』(ユン・チアン/ジョン・ハリディ)の記述の要約)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E5%9B%A3%E5%A4%A7%E6%88%A6 ([]内)
 「延安に召喚された彭徳懐は、政治教育キャンペーンの対象となり、そのコミンテルンとの良好な緒関係の∴「経験主義者(empiricist)」として批判され、見事に(professionally)毛の指導性に無条件で服する旨転向することを通じてようやく生き残ること(survive)ができた。
 毛は、彭に対し、(毛はそれを承認(support)したし、直後には(afterwards)その諸成功を称賛していたというのに、)百団大戦における「諸失敗(failings)」について、40日間、批判を受けるよう命じた。
 <その間、彭は答えることを許されず、自己批判を行うことを強いられた。」
https://en.wikipedia.org/wiki/Peng_Dehuai
 (彭が支払わされた二度目の高い代償については、次回の「講演」に譲る。)

 「スターリンは毛沢東を日本のスパイと疑っていたともいわれる」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%AE%E6%A0%B8%E5%AE%9F%E9%A8%93
のは、当然でしょうね。

 (なお、盧溝橋事件の英語ウィキペディア↓を読む時間がありませんでした。
https://en.wikipedia.org/wiki/Marco_Polo_Bridge_Incident )

3 余談:毛沢東の孤独

 (1)同志の不在

●劉少奇(1898〜1969年)

 既述。

●周恩来(1898〜1976年)

 周は、毛沢東の忠実なイエスマン的「同志」にはなったものの、嘘つきでかつ反日派であり、毛にしてみれば、心を許せない、生理的に受け付けない人物だった、と私は見ています。
 ちなみに、「ダライ・ラマ14世は毛沢東を「革命の真の偉大な指導者」とする一方で、周恩来は「大変ずる賢いと思った」と評している」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E5%B0%91%E5%A5%87
ところです。
 そんな周が、最晩年に膀胱癌に罹った時、毛はそれを周に明かすことも、手術をすることも禁じ、その後、毛は翻意するも、結局、周は、そのせいで死亡します。
https://en.wikipedia.org/wiki/Zhou_Enlai

 その周が、自分の無能故の挫折を日本への憎しみに転化し、それをウソによって正当化した人物であることは、下掲から明らかでしょう。↓

 「1917年に、日本に留学。日本語の習得不足により第一高等学校と東京高等師範学校の受験に失敗し、東亜高等予備学校(日華同人共立東亜高等予備学校)、東京神田区高等予備校(法政大学付属学校)、明治大学政治経済科(旧政学部、現政治経済学部)に通学。・・・帰国前の数ヶ月・・・苦渋の中で、酒に溺れがちだったという説もある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E6%81%A9%E6%9D%A5
 「もともと、<中華民国>政府の奨学金をもらうことをあてにした渡日だったが、それには<旧制高校に>合格することが条件になっていたところ、彼は合格することができなかった。・・・」
 彼は、日本語の習得ができなかったこと、支那人差別をもたらしていたところのひどい日本の文化的な狂信的愛国主義<等>によって不安感に苛まれていた。
 1919年の春に帰国する頃には、日本文化に幻滅し、日本の政治モデルが支那に適用可能であるとの観念を否定し、彼が目撃したところの、エリート主義と軍国主義の諸価値を軽蔑していた。」
https://en.wikipedia.org/wiki/Zhou_Enlai
 <これは、まさに周恩来のホンネだろう。米国への迎合といい、毛ははらわたが煮えくり返るような思いで、この会談の速記録を読んだに違いありません。
 (なお、ここでは改めて立ち入りませんが、キッシンジャーの日本観は、米国の指導層のコンセンサスと言っていいでしょう。↓>
 「この会談は一九七二年二月のニクソン訪中の前年十月二十二日に北京の人民大会堂で行われた。・・・
キッシンジャー:率直な日本観を示す。これは米政府全体の見方ではないが、ホワイトハウスの代表的な見解だ。中国と日本を比較した場合、中国は伝統的に世界的な視野を持ち、日本は部族的な視野しか持っていない。
周恩来    :日本はものの見方が偏狭で、全く奇妙だ。島国の国民だ。英国も島国だが。 ・・・
 日本は米国のコントロールなくしては野蛮な国家だ。拡大する経済発展を制御できないのか。」
http://nippon-senmon.tripod.com/tairiku/chuugoku/kiken_na_nippon.html

 毛にしてみれば、、自分が軽蔑しきっていた蒋介石との周恩来の下掲のような親密な関係にも腹に据えかねるものがあったことでしょう。↓

 「西安事件<の際、>・・・周恩来<は、孫文が設立した黄埔軍官学校で、1924〜26年に、自分が政治部副主任、蒋介石が校長であったところ、>・・・蒋介石に開口一番「お久しぶりです。校長」と呼び掛けた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E6%81%A9%E6%9D%A5#.E8.A5.BF.E5.AE.89.E4.BA.8B.E4.BB.B6
 「周恩来と蒋介石の間には尋常ならざる特別な関係<があった。>
 この関係は、彼の晩年まで続いた。
 時の米国の指導者達であったところの、米大統領のリチャード・ニクソンと国務長官のヘンリー・キッシンジャーが中共と歴史を作りつつあると思っていたまさにそのころ、周は、この二人が蒋を「川下に追いやろうとしている(sell him down the river)」、と秘密裡に<台湾の>蒋に情報提供をし続けた。」
http://www.taipeitimes.com/News/editorials/archives/2016/09/15/2003655167

 (2)後継者の不在

●習仲勲(1913〜2002年)

 習は、中国共産主義青年団
< https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%85%B1%E7%94%A3%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E9%9D%92%E5%B9%B4%E5%9B%A3 >
出身でそれ以上の学歴はありませんでしたが、私の見るところ、中国共産党の元老クラス中、恐らくは唯一の人間主義者であり、その彼が1933年3月に陝西省・甘粛省辺境地域に入り、同地域に解放区を確立し、想像するに、同地で人間主義的統治を行っであろう結果、地域内住民の中から共産党支配に反旗を翻したりする者は出ず、また、外部勢力のスパイになる者も殆どいない、と目されたからこそ、長征で毛沢東が党主導権を掌握した時に、最終目的地、すなわち、共産党の恒久的根拠地として、この解放区中の延安を選び、そこに1935年9月に到着したのではないでしょうか。
 なお、毛沢東が到着する寸前、党中央の幹部達の目には習の人間主義が住民等に対して甘過ぎると映ったのか、習は投獄され、処刑されることが決まったのですが、毛によって救われることになります。
 (人間主義者は敵や潜在敵に対して甘すぎると見られがちだ、ということが分かりますね。)
 後先になりましたが、習が人間主義者であることは、下掲のような、彼のその後の事績群から読み取れます。
 共産党が支那で権力を掌握した後の1951年7月、イスラム教徒の軍閥達の残党がチベット人を使嗾して叛乱を起こしたのですが、習は、平和的手段でこの叛乱を収束させ、毛の習に対する覚えは更に目出度くなります。
 また、習は、毛沢東の支持を得て、翌1952年には、北部新疆の牧畜業地区に対して、現地共産党幹部が、農地改革や階級闘争を持ち込むことを止めさせ、叛乱の芽を摘んでいます。
 あるいはまた、1959年のインド亡命以前の1954年にダライ・ラマが北京を訪問した際、彼は習と意気投合し、習にオメガの腕時計をプレゼントし、習がその時計をずっと使用し続けた挿話は有名です。
 (人間主義者は人間主義者と肝胆相照らす関係を構築するものであることが分かりますね。)

 ところが、1962年の反党小説劉志丹事件
< https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8D%E5%85%9A%E5%B0%8F%E8%AA%AC%E5%8A%89%E5%BF%97%E4%B8%B9%E4%BA%8B%E4%BB%B6 >
で康生らの指弾を受け、毛の了解の下、習は、党内外の職務からすべて解任された上に下放され、文化大革命終了2年後の1978年まで、16年間も拘束されるのです。
 (今度は、人間主義者は非人間主義者によってカモにされることが分かります。)
 毛は、トウと違って、習を自らの手で復権させることはついにありませんでした。
 (一度ならず、二度も、自分の身を守ることができなかったところの、人間主義者たる習について、毛は、匙を投げたといったところでしょうか。
 但し、習が生き残ったことは示唆的です。)
 しかし、1976年の毛の死後、1978年4月にトウ小平によって復権され、習が、そのトウに1979年4月に、香港・マカオ隣接地域を特区に指定して外資を導入することを、直接、提案して受け入れられたことは、最も有名な話です。
https://en.wikipedia.org/wiki/Xi_Zhongxun

●林彪(1907〜71年)

 林は、中国共産主義青年団を経て黄埔軍官学校も出ているので、習とは違って学歴が少しはあります。
 しかし、彼は、徹底したゴマ擂りで毛沢東に取り入って、一時は毛の後継者にまでなったものの、毛にその野心(非人間主義性)を見抜かれて失脚に追い込まれるのです。↓

 「林彪は・・・ソ連をモデルにした軍の精鋭化および近代化と国境付近での敵撃滅を主張する彭徳懐と異なり、林彪は毛沢東の持久戦論および遊撃戦論を支持<を表明していたところ、>1959年<に>・・・党中央軍事委員会第一副主席に任命されて軍権を掌握<し、>・・・、1959年に<は>解放軍向けとして『毛主席語録』の編集・刊行を命じ、1966年の文化大革命の発動とともに一般向けに大量に出版<し>た。・・・
 <そして、>1966年の第8期11中全会において党内序列第2位に昇格し、単独の党副主席となった。さらに1969年の第9回党大会で、毛沢東の後継者として公式に認定された。・・・
 1970年頃から・・・林彪らの動きを警戒した毛沢東がその粛清に乗り出したことから、息子で空軍作戦部副部長だった林立果が中心となって権力掌握準備を進めた。
 1971年9月、南方を視察中の毛沢東が林彪らを「極右」であると批判し、これを機に毛沢東暗殺を企てるが失敗し・・・旅客機で・・・ソビエト連邦に向けて逃亡中に・・・墜落死した。・・・
 林彪事件直前に書かれた林彪グループの毛沢東暗殺に関する計画書「五七一工程紀要」に・・・、「毛沢東は真のマルクス・レーニン主義者ではなく、孔孟の道を行うものであり、マルクス・レーニン主義の衣を借りて、秦の始皇帝の法を行う、中国史上最大の封建的暴君である」「中国を人民の相互軋轢によるファシズム独裁国家に変えてしまった」という記述<がある。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E5%BD%AA

●華国鋒(1921〜2008年)

 華は、中国共産主義青年団出身でない上、無学歴であり、政治家としての基礎素養不足でした。
 彼は、湖南省の地方党官僚歴が長く、たまたま同省内の、毛の生地を含む地区の党書記をしている時に、彼が作っってあった毛沢東記念館を毛が訪れて喜んだことを契機に、毛が勝手に華を中央に引っ張り出した、と見てよさそうです。
https://en.wikipedia.org/wiki/Hua_Guofeng
 そんな華を自分の後継に毛が指名したのは、毛が心身共に衰え、妻の江青を含む4人組を統御できなくなっていて、後継に指名したかったトウ小平を失脚させられてしまったために、純真なこと(だけ?)が取り柄の華国鋒・・simplicityという言葉が上掲に出てくる(但し典拠が付されていない)・・に、自分の死後における文革の幕引きとトウ小平の復権を密かに言い含め、実行させるためだった、と私は想像しています。↓

 「1976年1月8日に周恩来総理が死去すると、毛沢東の意向により国務院総理代行とする決定がなされ、2月2日に党中央の「1号文件」として通知された。
 4月7日、毛沢東の指示に基づいた党政治局会議の決議により、華国鋒は後継の国務院総理兼党中央委員会第一副主席に任命され、毛に次ぐ序列第2位の地位に抜擢された。
 1976年4月30日、毛沢東から「あなたがやれば、私は安心だ・・・」という遺言にあたる自筆メモを入手したとされている。
 同年9月9日、毛沢東党主席が死去。10月6日、文化大革命の主導者であった江青や張春橋らの四人組を逮捕。これにより、毛沢東の死後に激化していた党内対立を一気に解決し、文化大革命を事実上終結させた。翌10月7日、中央政治局決議により党中央委員会主席および党中央軍事委員会主席に就任し、これは1977年7月21日の第10期党中央委員会第3回全体会議で追認された。同年8月の第11回党大会において、1966年以来11年にわたった文化大革命の終結を宣言した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%AF%E5%9B%BD%E9%8B%92
 参考:二つのすべて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E3%81%A4%E3%81%AE%E3%81%99%E3%81%B9%E3%81%A6

 (3)消去法でトウ小平を後継者に

●トウ小平(1904〜1997年)

 トウは、苦学生として滞在していたフランスで周恩来等と出会い、共産主義者となるわけですが、「トウは支那でマルクス主義革命運動に参加したとはいえ、歴史学者のモボ・ガオ(Mobo Gao)は、「トウ小平と[中国共産党の]彼のような多くの人々は、基本的には、本当にマルクス主義者であったわけではなく、支那が全球的諸大国と平等な諸条件で屹立する姿を見たいと欲したところの、革命的ナショナリスト達だった、と主張してきた」
https://en.wikipedia.org/wiki/Deng_Xiaoping
ところ、私も同感です。
 ちなみに、モボ・ガオは、豪州に帰化した中共人です。
https://fr.wikipedia.org/wiki/Mobo_Gao

 最終的に中共の権力を掌握するまでのトウの事績をざっと振り返ってみましょう。↓

 「東方勤労者共産大学・モスクワ中山大学で・・・学ぶ。・・・
 1927年に帰国し、ゲリラ活動を開始。・・・
 しかしコミンテルンの指令に忠実なソ連留学組が多数派を占める党指導部は、農村でのゲリラ戦を重視する毛沢東路線に従う<トウ>小平を失脚させる。
 1935年、周恩来の助力で中央秘書長に復帰、長征に参加・・・
 1952年、毛沢東により政務院副総理に任命され、翌1953年には財政部長(大臣)を兼任する。1954年9月に政務院が国務院に改組されると、引き続き副総理を務める。1955年4月、第7期党中央委員会第5回全体会議(第7期5中全会)において中央政治局委員に選出。さらに1956年の第8期1中全会で党中央政治局常務委員に選出されて党内序列第6位となり、中央書記処総書記として党の日常業務を統括することとなる。・・・
 <トウ>小平は、毛沢東の指揮した大躍進政策の失敗以降、次第に彼との対立を深めていく。大躍進政策失敗の責任を取って毛沢東が政務の第一線を退いた後、総書記の<トウ>小平は国家主席の劉少奇とともに経済の立て直しに従事した。
 [トウ小平は、1956年9月に開催された第8回全国大会において、「労働者階級の政党の領袖は、大衆の上にあるのではなく、大衆の中にあり、党の上にあるのではなく、党の中にある」として、明らかに毛沢東の個人崇拝やその絶対化を阻止しようとした。この大会において、トウ小平は劉少奇と組んで、党規約から、「毛沢東思想」という言葉を全て削除したといわれる。
http://www.araki-labo.jp/wecono11.htm 前掲 ]
 この時期には部分的に農家に自主的な生産を認めるなどの調整政策がとられ、一定の成果を挙げていったが、毛沢東はこれを「革命の否定」と捉えた。その結果、文化大革命の勃発以降は「劉少奇に次ぐ党内第二の走資派」と批判されて権力を失うことになる。
 1968年には全役職を追われ、さらに翌年、江西省南昌に追放された。「走資派のトップ」とされた劉少奇は文化大革命で非業の死を遂げるが、トウ小平は「あれはまだ使える」という毛沢東の意向で完全な抹殺にまでは至らず、党籍だけは剥奪されなかった。南昌ではトラクター工場や農場での労働に従事するが、与えられた住居には暖房設備もなく(南昌は冬は極寒の地である)、強制労働は過酷なもので、トウは何度か倒れた・・・。
 1973年3月、・・・トウ小平は党の活動と国務院副総理の職務に復活、病身の周恩来を補佐して経済の立て直しに着手する。同年8月の第10回党大会で中央委員に返り咲き、12月には毛沢東の指示によって党中央委員会副主席、中央軍事委員会副主席、中国人民解放軍総参謀長となり、政治局を統括。・・・1975年1月、国務院常務副総理(第一副首相)に昇格し、周恩来の病気が重くなると、党と政府の日常業務を主宰するようになる。
 着々と失脚以前の地位を取り戻して行ったかに見えたが、1976年1月8日に周恩来が没すると、トウ小平の運命は暗転する。清明節の4月4日から5日未明にかけて、江青ら四人組が率いる武装警察や民兵が、天安門広場で行われていた周恩来追悼デモを弾圧した。すなわち第一次天安門事件である。この事件において周恩来追悼デモは反革命動乱とされ、トウ小平はこのデモの首謀者とされて再び失脚、全ての職務を剥奪された。しかし、党籍のみは留められ、広州軍区司令員の許世友に庇護される。同年9月に毛沢東が死去すると、後継者の華国鋒を支持して職務復帰を希望し、四人組の逮捕後、1977年に三度目の復活を果たす。
 1977年7月の第10期3中全会において、党副主席、国務院常務副総理、中央軍事委員会副主席兼人民解放軍総参謀長に正式に復帰。翌8月に開催された第11回党大会において、文化大革命の終了が宣言される。・・・
 1978年・・・11月10日から12月15日にかけて開かれた党中央工作会議と、その直後の12月18日から22日にかけて開催された第11期3中全会において文化大革命が否定されるとともに、「社会主義近代化建設への移行」すなわち改革開放路線が決定され、歴史的な政策転換が図られた。また、1976年の第一次天安門事件の再評価が行われ、周恩来の追悼デモは四人組に反対する「偉大な革命的大衆運動」とされた。<トウ>小平はこの会議で中心的なリーダーシップを発揮し、事実上中国共産党の実権を掌握したとされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%82%A6%E5%B0%8F%E5%B9%B3

 私は、毛沢東は、現実主義的ナショナリストのトウ小平に後事を託すほかないと最後は達観したと思いたいのです。
 この毛の願いに、トウは、大化けして、余りにも見事に応えてみせた、と言うべきでしょう。
 毛沢東と違って理想主義的な側面など、殆ど持ち合わせていない、徹底した現実主義者であったトウですが、彼は、人間主義を中核とする日本文明総体継受こそ、中共、というか、支那、を再興させる、唯一の現実主義的手段であることを、毛が亡くなるまでのある時点で、ついに悟ったに違いない、と私は見ています。
 そのトウもまた、自分の、ということは毛のでもありますが、後継者の確保に大変苦しむことになるのですが、そのことについては、次回のオフ会の時にお話しすることにしましょう。