太田述正コラム#8408(2016.5.20)
<一財務官僚の先の大戦観(その31)>(2016.9.20公開)

 「「経済的な交戦国」になったという時に見落としてはならないのが、国際的な借款という面での影響である。
 そもそも米国からの国際的な借款は、1922(大正11)年にハーディング大統領が、全ての対外借款を国務省に照会するように命じて以来、政治的な色彩を帯びていたが、1933(昭和8)年にルーズベルト大統領の下で証券と銀行の分離を定めたグラス・スティーガル法が成立して投資銀行の業務が規制されるようになると、対外借款はそれまでの民間主導から完全に政府主導になっていた。
 その状況下で「経済的な交戦国」になったことは、米国からの借款を、これ以降、全く期待し得なくなったことを意味していた。
 「円元パー政策」で、多くの正貨を失っていた我が国は、ここにおいて借金も難しくなったのである。
 そこで、強化されることになったのが軍事物資の輸入資金を確保するための金の献納運動であった。

⇒まさか、1938年から始まった、カネならぬ金属資源を対象とした金属供出
http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/hondo-kinzoku.htm
https://books.google.co.jp/books?id=oTgReb61V6cC&pg=PA100&lpg=PA100&dq=%E8%B2%B4%E9%87%91%E5%B1%9E%E7%8C%AE%E7%B4%8D&source=bl&ots=MY12-0wTM_&sig=Lz1TWyq9vc49HTlIGNEz5RWTGG0&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwinqueCrOjMAhUlG6YKHWOCCUAQ6AEIIDAB#v=onepage&q=%E8%B2%B4%E9%87%91%E5%B1%9E%E7%8C%AE%E7%B4%8D&f=false
の間違いではないとして、1932年から始まり、終戦まで続いた献金運動(注50)のことでもないとすれば、貴金属の献納(上掲)のことなのでしょうか。

 (注50)「1932年に各府県が愛国飛行機献納運動と称して取り組んだ献金運動は,地方行政機構が在郷軍人会や青年団の協力のもとに市町村から各戸へと負担額を半強制的に割り当てたものであった。新聞社も競って国民に献金を呼びかけた。」
https://kotobank.jp/word/%E6%84%9B%E5%9B%BD%E9%A3%9B%E8%A1%8C%E6%A9%9F%E7%8C%AE%E7%B4%8D%E9%81%8B%E5%8B%95-1259594
 「昭和16年12月12日に掲載された<軍用機献納運動の強化>と題された<朝日新聞>社告・・・
 <大東亜共栄圏確立の聖業に邁進しつつある戦況にかんがみ、本社はこの歴史ある国民運動をこの際、更に更に強調し強化して『千機、二千機われらの手で』の目標を達成したい念願に燃ゆるものであります。国民各位はこの愛国機献納運動の主旨に賛同され、さらに強力無比の大空軍建設に資するため一層のご協力を賜らむことを切望する次第であります>
http://www.geocities.jp/pekin_chan/page034.html

 松元は、もう少し具体的な記述をすべきでした。
 なお、実際の戦費調達方法(注51)が、大部分、日銀の国債引受であったこと、はよく知られているところです。(太田)

 (注51)「太平洋戦争(日<支>戦争を含む)に投入された戦費総額は当時の金額で約1900億円といわれている。日<支>戦争開戦当時の国家予算(一般会計)は27億円程度であり、戦費総額は国家予算の70倍を超えている。GDP(当時はGNP)比では8.5倍の規模<だった。>・・・GNP比では、日清戦争が0.7倍、日露戦争は0.6倍である。・・・米国<は>・・・日本の2倍以上の戦費を投入したにもかかわらず、GDPの3倍程度<だ>った」
http://news.kyokasho.biz/archives/16019

 そして、そのような事態の展開を前に、日本国民の対米感情も急速に悪化していった。
 ここで、当時の対米感情悪化の背景に1924(大正13)年に成立していた排日移民法以来の流れがあったことについて触れておくこととした。
 ・・・<その>成立は、米国は正義と人道の国と考えていた新渡戸稲蔵に大きな失望をもたらした。新渡戸は、同法があるうちは二度と米国の地は踏まないと宣言したのである。その新渡戸は、満州事変後には米国は必ず日本の満州政策を理解するはずだとして米国行脚の旅に立ち、昭和8年にカナダのヴィクトリア市で客死することになる。・・・

⇒典拠が付されておらず、特に新渡戸の最晩年の部分は、随分と短絡的な叙述
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%B8%A1%E6%88%B8%E7%A8%B2%E9%80%A0 前掲
ですが、新渡戸が、米国人のクラークの薫陶を受けたこと、そして、キリスト教徒になった(上掲)こと、がいかに、彼の米国観を甘ったるいうすっぺらいものにしたか、ということです。(太田)
 
 排日移民問題は、1898(明治31)年の米国によるハワイ王国併合を淵源とするものであった。
 20世紀初頭におけるハワイの日系人の人口は、それまでのハワイ王国の親日的な扱いもあって人口全体の4割にも達していたことから、米国によるハワイ併合は期せずして日系移民の米国西海岸への大量流入をもたらすことになった。
 ハワイ併合以降、年間5000人を超えるペースで日系人がハワイから米国本土に移住していった。
 それに対して、サンフランシスコ市は明治39(1901)年に日系人学童の制限を打ち出した。

⇒このくだりについては典拠が付されていないこともあり、松元のハワイ併合淵源説、及び、その系としての、サンフランシスコ市の措置がハワイからの移民説、については、判断を留保しておきます。(太田)

 同命令は、<セオドア・>ルーズベルト大統領のあっせんで翌年撤回されたが、それ以降、日本人の移民は日本の自主規制によって大幅に制限される形になっていた。
 それを、日本人を帰化不能外国人とすることによって全面禁止にしたのが、大正13年の排日移民法であった。
 それは、第一次世界大戦の戦勝国の一員になって、これで日本も一等国になったと喜んでいた国民に人種差別という形で泥の冷や水を浴びせかけたようなものであった。」(106〜107)

(続く)