太田述正コラム#8404(2016.5.18)
<一財務官僚の先の大戦観(その29)>(2016.9.18公開)

 「日本政府は、昭和14年<(1939年)>3月には華北での法幣流通を強制的に禁止し、華北重要輸出品12品目についての輸出入為替を聯合銀行の一元管理の下に置く等として強権的な問題の解決を図ったのである。
 ちなみに、第一次近衛内閣においては、池田構想と平行して、宇垣外相による和平工作も進められていた。
 しかしながら、宇垣外相の和平工作も軍部や右翼から「英米の走狗」「対英媚態外交」などと執拗に攻撃され、最終的には首相の近衛からの支持も得られずに昭和13年9月の宇垣の外相辞任で終わっている(『宇垣一成』)。

⇒宇垣は、松元が大好きらしい(?)昭和天皇からも疎んじられていたこと(注20)、を思い出しましょう。(太田)

 宇垣の辞任後、米国は、昭和13年<(1938年)>10月に中国の門戸開放、機会均等を守るように日本に要求した。
 それに対して、有田外相が、同年11月に近衛首相が出した「東亜新秩序建設」声明<(注46)>に関して「事変前の事態に適用ありたる観念および原則」は、そのまま現在および将来の事態には適用できないと回答(新秩序外交)すると、米国はそれを日本が従来の門戸開放政策を反故にしたものと受け止め、同年12月30日には日本の「新秩序」を認めないとして国民政府支持を明らかにした。

 (注46)「東亜新秩序は、昭和13年(1938年)11月3日・・・に、時の内閣総理大臣近衛文麿(第1次近衛内閣)が発表した声明。反共主義によるもの(抗日容共な国民党政府の否定、大日本帝国・満州国・中華民国3カ国の連帯による共同防共の達成)と、汎アジア主義によるもの(東洋文化の道徳仁義に基づく「東亜に於ける国際正義の確立」、東洋古来の精神文化と西洋近代の物質文化を融合した「新文化の創造」)の両方を含む。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%9C%E6%96%B0%E7%A7%A9%E5%BA%8F

 ・・・<ちなみに、>近衛首相の「東亜新秩序建設」声明は、当時、ヒトラーのナチス・ドイツが「ヨーロッパ新秩序」を唱えていたことに影響されたもので(<半藤一利>『昭和史1926〜1941』)、戦争目的をそれまでの「暴虐支那の膺懲」から、より積極的なものに変えようとしたものであった。・・・

⇒政策のタイトルなどではなく、内容において、独日比較を行った上で、日本が「影響」を受けていたかどうかを見極めなければならないところ、ここでそれが明らかにされていない・・例えば、独において「アジア主義」に対応するものは何だったのか・・以上、半藤の指摘ににわかに首肯はできません。
 また、「戦争目的をそれまでの「暴虐支那の膺懲」から、より積極的なものに変えようとしたものであった」には典拠が付されていませんが、「国民政府と雖も従来の指導政策を一擲し、その人的構成を改替して更正の実を挙げ、新秩序の建設に来り参するに於ては敢て之を拒否するものにあらず。」という「声明」内容からしても、「<そ>の狙いは蒋介石と対立していた汪兆銘を重慶に移転していた国民政府から離反させることにあった」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%A3%B0%E6%98%8E#.E7.AC.AC.E4.B8.89.E6.AC.A1.E8.BF.91.E8.A1.9B.E5.A3.B0.E6.98.8E.EF.BC.88.E8.BF.91.E8.A1.9B.E4.B8.89.E5.8E.9F.E5.89.87.EF.BC.89
のであって、戦争目的に係る「積極的」なもの、というよりは、戦争遂行上の「戦術的」なもの、と、我々は受け止めるべきでしょう。
 ちなみに、「汪はこの<声明がなされた>後重慶を脱出し、昆明を経由してハノイに到着している。」(上掲)ところです。
 なお、この声明中の「東亜に於ける国際正義の確立、共同防共の達成、新文化の創造、経済結合の実現を期する」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%9C%E6%96%B0%E7%A7%A9%E5%BA%8F 前掲
というくだりは、この声明の最大の眼目が、(「国際正義の確立」という無内容のスローガンに続く、)「共同防共の達成」、私の言葉に置き換えれば、「対赤露共同抑止の達成」、にあったことを、松元は当然のごとく言及していませんが、我々は、改めて、銘記すべきでしょう。(太田)

 <さて、>そのような展開に驚いた有田外相は「新秩序外交」を軌道修正し、日満支ブロックの外側で、当時、米国がとっていた自由貿易政策<(注47)>にあわせて米国を中心とする世界との自由貿易を確保する政策を展開しようと試みた(<井上寿一>『アジア主義を問いなおす』)・・・

 (注47)「ニューディール政策<においては、>・・・対外的には保護貿易から自由貿易に転じ、大統領権限による関税率の変更や外国と互恵通商協定を結ぶ権限が議会で承認された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E6%94%BF%E7%AD%96
 「1929年恐慌に際して、<米国>では翌1930年にホーリー‐スムート関税法Howley-Smoot Tariff Actを制定して保護関税を強化してきたが、1933年に大統領に就任したF・D・<ロ>ーズベルトは、ニューディール政策の一環として、1934年6月にホーリー‐スムート関税法に新しく1条(第350条)を加えた互恵通商協定法[(Reciprocal Trade Agreements Act (RTAA))]を制定した。この法律の目的は、当時の<米国>の不況を克服するための輸出拡大策にあった。この法律第350条a項前文の内容は、<米国>の商品輸出のために先方が市場開放をすると同時に、<米国>も自らの市場を外国商品のために開放するというものであった。
 この法律は、大統領に対して、諸外国政府と互恵的に関税を引き下げる権限(1934年7月時点の関税率を最大限50%まで引き下げることができる)、およびその他の貿易制限を緩やかにする通商協定を結ぶ権限を与えることにあった。期限は3年であったが、数回にわたって延長され、この法律のもとに、<米国>は1939年までに20か国と互恵通商協定を結んだ。」
https://kotobank.jp/word/%E4%BA%92%E6%81%B5%E9%80%9A%E5%95%86%E5%8D%94%E5%AE%9A-1537051
https://en.wikipedia.org/wiki/Reciprocal_Tariff_Act

 <ちなみに、>米国は、「不公正貿易」を続ける国に対しては「ブラックリスト」対象国として協定の破棄や高率関税の適用等を行って通商ネットワークから排除する一方で、それ以外の国との間では、互恵通商協定を締結することによって米国を中心とした多角的な通商関係を再建しようとしていた。・・・。

⇒二国間で関税引き下げを目指す交渉を行う場合、(経済が上り調子で)商品の全般的競争力が強い側、或いは、(米国のように)潜在的自給自足能力が高い側、すなわち、関税引き下げでより裨益する側、が、政治的経済的に相手側に圧力をかけるほかないところ、裨益する側が実際かかる圧力をかけることができ、かつ、相手側にその圧力がきく場合でない限り、商品の全般的競争力が弱い側、或いは、潜在的自給自足能力が低い側に関税引き下げを飲ませることなど、不可能でしょう。
 戦後、自由貿易ならぬ、関税の全球的引き下げが行われえたのは、大戦中の日本の東南アジア侵攻によって欧米の植民地解放の機運が急速に高まり、戦後、植民地独立によって欧米列強の経済ブロックが解体されたこと、また、戦後、英国に代わって全球的覇権国になった米国が、二国間から多国間へと関税引き下げ交渉の考え方を転換したことによる、と私はとりあえず考えています。
 そうだとすれば、戦前において、かかる米国の政策が、とりわけ東アジアにおいて、成功する可能性などなかった、と思われます。
 なお、「東亜新秩序建設」声明に藉口した米国の蒋介石政権支持表明は、日本が事実上戦争状態にある相手方に与する利敵行為であり、日本がそれに強く抗議しなかったことが米国に、「誤解」を生み、それが将来の「悲劇」の伏線になったのではないでしょうか。
 とまれ、有田外相は、あくまでも「日満支ブロックの外側」で米国の「自由貿易政策」に対応しようとしたのであって、それは「新秩序外交」の軌道修正とは言えないのではないでしょうか。(太田)

 <さて、>対米融和路線の重要性は、有田にとっても明らかなことであった。
 それは、軍部の暴走を危惧する昭和天皇の感覚にも沿ったものであった。
 昭和天皇は、昭和13年の徐州作戦か漢口攻略に至る一連の作戦が一段落した昭和14年1月には「どうも今の陸軍にも困ったものだ。要するに各国から日本が強いられ、満州、朝鮮をもともとにしてしまわれるまでは、到底目が覚めまい」と述べて、陸軍の「深謀遠慮」のなさを嘆いていたのである(『満州事変から日中戦争へ』)。

⇒松元は、昭和天皇の発言中、自分にとって都合のよい部分(だけ)を引用するのは控えるべきでした。
 一つには、いくら優秀でかつ情報全般に通じる立場であったとはいえ、昭和天皇もあくまでも一人の人間であったこと、もう一つには、私が累次指摘しているように、天皇制存続を至上命題とするところの、昭和天皇を含む歴代天皇にとっての利益と国益とは完全に同じではないこと、からです。(太田)

 しかしながら、そのような有田外相の対米融和路線も昭和14年4月に勃発した天津英国租界封鎖事件(天津事件)で崩壊してしまう。」(102〜104)

(続く)