太田述正コラム#8384(2016.5.8)
<入江曜子『古代東アジアの女帝』を読む(その6)>(2016.9.8公開)

 「馬子が、・・・大王の直轄領である葛城県(かずらきのあがた)<(注16)>を蘇我発生の地であるという口実で譲渡を願ったのはその翌年、推古32(624)年であった。

 (注16)「葛城(かつらぎ、かづらき)は、奈良盆地の南西部を指す地域の名称。上代からの地名であるが、明確な範囲や境界を示すことは難し・・・い。・・・
 古墳時代でも有数の豪族であった葛城氏の勢力圏であったと考えられている。飛鳥時代の前半あたりには葛城県が、その後は葛城国が置かれたようである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%9B%E5%9F%8E
 「馬子の本居(ウブスナ)が葛城県だったことから、稲目の妻は葛城氏の出・・・とする説もある」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%98%87%E6%88%91%E6%B0%8F

 族譜上の伯父とはいえ、このとき推古は71歳であるから、かなりの高齢といえる。
・・・
 <推古の回答は、>
 <私は蘇我の血をひいている。それだけでなく大臣は伯父である。ゆえに大臣の言葉は、夜に言われればその夜のうちに、日(あした)に言われたことはその日のうちに、何であれ従ってきた。しかし、今私の治世にこの県を失っては、のちの君が「愚かで頑なな婦人(おのこ)が天下に君臨して、言われるままにどーんとその県を投げ与えてしまった」と言うだろう。単に私が愚かなだけでなく、大臣もまた不忠となり、後世に悪名を残すことになるだろう>
 <というものであり、>推古は初めて蘇我一族の首長に対する王朝の大王としての立場をあきらかに告げた。
 それは蘇我一族による王族の系譜への血による侵蝕に続く、領地への侵入に対する言葉の城壁であった。」(19〜20)

⇒この「史実」についても、推古のウィキペディアには言及がなく、馬子のウィキペディアにはある、という、日本の古代史関係者達の男尊女卑的偏頗さには呆れます。(太田)

 「<推古天皇はその36年(628年)に亡くなるが、>632年、・・・新羅が、最初の女王として善徳<(注17)>を立てたとき、遠く推古の像が投影しているように思われるのである。・・・

 (注17)善徳女王(?〜647年。王:632〜647年)。「先王が632年1月に死去したときに男子がなく、また<有力王族男子もいなかった>たために、<彼女の>その呪術者的性格に期待されて王位を継いだ。
 仏教の保護にも熱心であり、・・・瞻星台(天文台)を築いたとも伝えられて<おり、>・・・<また、>王族の若者を数多く留学生として唐・・・に派遣し、唐の文化が新羅に流入するきっかけ<を作>った」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%84%E5%BE%B3%E5%A5%B3%E7%8E%8B

 『三国史記』<(注18)>を編んだ金富軾は「人間の場合でいえば、男は尊くて女は卑しいということである。どうして老婆が閨房から出て、国家の政治を裁断することが許されてよいかろうか」と儒教に毒された偏見を付記したが、おそらく彼女が王として推された理由は、生来の直観力と長年の経験による判断力が神秘な力として喧伝され、世人に受け入れられたからではなかったか。・・・

 (注18)「高麗17代仁宗の命を受けて金富軾らが作成した、三国時代(新羅・高句麗・百済)から統一新羅末期までを対象とする紀伝体の歴史書。朝鮮半島に現存する最古の歴史書である。1143年執筆開始、1145年完成」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%8F%B2%E8%A8%98

 <643>年9月、・・・善徳は、唐に使者を送って、高句麗と百済が連合して新羅侵略を企てている<(注19)>ことを告げ、何度目かの救援を願った。・・・

 (注19)麗済同盟。「642年頃に高句麗と百済が新羅を攻撃するために結んだ軍事同盟で、百済が滅亡した660年まで続いた。
 6世紀半ばまで、新羅と百済は高句麗に対抗するため羅済同盟を結んでいたが、553年に新羅が百済から漢江流域を奪い、554年には百済の<国>王が新羅との戦いで戦死した。それ以後、百済と新羅は敵対関係が続いた。642年、百済・・・は、高句麗・・・と同盟を結び、新羅の善徳女王から新羅西部・・・を奪い、新羅北部・・・を攻撃した。654年には高句麗が百済、靺鞨と共に新羅の北方・・・を攻略した。新羅は麗済同盟に対抗するため、648年に唐と結び(唐・新羅の同盟)、660年に百済を、668年に高句麗を滅ぼした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BA%97%E6%B8%88%E5%90%8C%E7%9B%9F

 この・・・<唐への>朝貢国同士の争い・・・<に係る>哀訴に対する太宗の対応は、『三国史記』「新羅本紀」によれば、・・・<新羅の国は女性が王になっているので隣国から軽んじられ侮られ、いつまでも侵略が続きやがて王を失うことになる。・・・><というものだった。>」(23、26〜27、30、32〜33)

⇒「東アジア一般では(皇帝や国王が即軍事司令官でなければならず、)女性が即位することなどありえなかった」と前に記したように、「<支那>の歴代王朝では男系女子の王や皇帝が一人も現れなかった(武則天は唐を断絶させて新王朝である武周を興しており、唐の歴代皇帝には含まれない)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B3%E7%B3%BB%E5%A4%A9%E7%9A%87
ところですが、にもかかわらず、「朝鮮では新羅において<のみ、>男系女王が3人即位している」(上掲)ことは、入江の推測、「遠く推古の像が投影しているように思われる」の説得力を高めています。
 そもそも、この時点で、新羅は、朝貢先は唐だけでなく、恐らくは引き続きヤマトにも朝貢していたはずであり、一方の「宗主国」たるヤマトの首長が女性の推古であったことの影響を受けた可能性は大いにあるはずです。
 仏教の保護に熱心だったり、留学生を支那に派遣したのも、推古の政策に触発されたのではないでしょうか。(太田)

(続く)