太田述正コラム#8370(2016.5.1)
<一財務官僚の先の大戦観(その19)>(2016.9.1公開)

 「<徐州作戦の際の堤防決壊(コラム#6344)について、>蒋介石は、それを日本軍の仕業だと宣伝するために軍事機密として住民を退去させないまま行った。
 しかしながら、堤防破壊が日本軍の仕業だったとの宣伝には失敗し、昭和13年6月19日付のスペイン『ディアリオ・パコ』紙は社説で、中国軍の黄河堤防破壊作戦で「7000万の住民が大洪水の犠牲となろうとしている」と非難した。<(注25)>

 (注25)「日中戦争初期の1938年6月に、中国国民党軍が日本軍の進撃を止める目的で起こした黄河の氾濫である。・・・国民党軍は・・・5月頃から住民の交通を遮断し、黄河本流が河岸に激突する場所に内径10メートル、深さ15メートルの穴を掘り、これを互いに横坑で連結して爆破する準備を行ったが事件後にも未完成で爆破されなかった穴が数個残っていた。開封北方の堤防上では溝を掘って増水期に自然に決壊するように準備されていた。・・・国民党軍は1個師団の兵に加えて付近の農民を強制して作業を行っていた。・・・
 6月7日に<最初の>爆破が行われたが、この作業は失敗し、場所を・・・変更して作業が進められ、6月9日午前9時に作業が終了し黄河の水は堤防の外に流出した。氾濫は河南省・安徽省・江蘇省にまたがる54,000平方kmの領域に及んだ。・・・
 日本軍は筏船百数十艘を出して住民とともに救助活動を行い、同時に氾濫した水を・・・別の地域に誘導するために堤防と河道を築いた。・・・
 国民党軍は現場に近づく日本軍に攻撃を加えたほか、日本軍が住民と共同で行っていた防水作業を妨害した(日本軍の地上部隊は住民とともに土嚢による防水作業を行い、日本軍の航空機も氾濫した地区において麻袋をパラシュートにより投下してこれを支援したが、決壊地点の対岸にいた中国軍遊撃隊が麻袋の投下開始直後からその航空機と地上で防水作業中の住民に激しい射撃を加えたこともあった)・・・ 
 水没範囲は11都市と4000村に及び、3省の農地が農作物ごと破壊され、水死者は100万人、被害者は600万人と言われるが被害の程度については諸説ある。・・・
 日本軍は武漢三鎮への進撃を一時停止せざるを得なかったが、進路変更により漢口作戦の発令から2ヵ月後の10月26日には武漢三鎮を占領した。・・・
 1942年から1943年にかけて河南省では水旱蝗湯(すいかんこうとう)と呼ばれる水害、干ばつ、イナゴの発生、及び<国民党軍>による重税<が続き、>・・・この状態が続けば河南省は全滅していたが、1943年の冬から1944年の春までの間に日本人が河南の被災地区に入り、軍糧を放出して多くの人々の命を救った・・・飢饉の数年間、日本側は各地の食糧倉庫から食糧を放出し、飢えた人々に食糧を調達していた・・・。そのため、河南省の人々は日本軍を支持し、日本軍のために道案内、日本軍側前線に対する後方支援、担架の担ぎ手を引き受けるのみならず、軍隊に入り日本軍による中国軍の武装解除を助けるなどした者の数は数え切れないほどだった。
 1944年春、日本軍は河南省の掃討を決定した(一号作戦)。そのための兵力は約6万人であった。この時、河南戦区の・・・<中国軍>司令官は河南省の主席とともに農民から彼らの生産手段である耕牛さえ徴発して運送手段に充てることを強行し始めた。これは農民に耐え難いことであった。農民は猟銃、青龍刀、鉄の鍬で自らを武装すると兵士の武器を取り上げはじめ、最後には中隊ごと次々と軍隊の武装を解除させるまでに発展した。推定では、河南の戦闘において数週間の内に約5万人の中国兵士が自らの同胞に武装解除させられた。すべての農村において武装暴動が起きていた。日本軍に敗れた中国兵がいたるところで民衆によって襲撃、惨殺、あるいは掠奪され、武器は勿論、衣服までも剥ぎ取られた。3週間以内で日本軍はすべての目標を占領し、南方への鉄道も日本軍の手に落ちた。この結果、30万の中国軍は全滅した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E6%B2%B3%E6%B1%BA%E5%A3%8A%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 同様の作戦(焦土作戦)は、50万都市であった長沙についても大火災という形で行われた(『蒋介石の外交戦略と日中戦争』147、180頁)。<(注26)>

 (注26)「日中戦争中の1938年11月13日午前2時、湖南省長沙において中国国民党軍によって・・・放火事件<が>・・・起された。・・・
 蒋介石は、日本軍が漢口・広東鉄道沿線の戦略的拠点・・・を短期間で攻略したことから、慌てて焦土作戦を指示し、張治中<(前出)>が実行したと伝えられている。また、張が功名心にかられて大火を起こしたとする見方もある。・・・
 目的は日本軍に対して一物も与えないための焦土作戦(堅壁清野)とする見方が一般的だが、この時期に日本軍は長沙に進攻することはなかったため、一部には・・・滞在していた・・・中国共産党幹部であった周恩来らの暗殺を目的としていたとする見方もある。・・・
 人口50万の都市であった長沙は、火災により市街地のほとんどを焼失した。
 <その後、>蒋介石主導により地方役人3名・・・が責任を問われ処刑されたが、張治中への処分は軽いもの<だ>った(なお、張治中はソ連のスパイ疑惑もあった)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E6%B2%99%E5%A4%A7%E7%81%AB 

 「焦土作戦」に対しては中国国内でも批判が高まり、各地で親日傀儡政権が成立する背景になった(同、190頁)。」(85)

⇒松元は、ここで、広義の「焦土作戦」だけでなく、・・・「<日支戦争勃発の前年の>1935年の北支は国民政府による搾取や重税から北支軍閥や市民の中で不満が高まると共に満州の急速な発展を目の当りにし、蒋介石の影響力は後退、1935年6月には白堅武が豊台事変を起こし親日満政権を樹立を図ろうとクーデターを起こしたが失敗、10月には国民党の増税に反発し農民が蒋政権に反発し自治要求を求め香河事件が発生するなど河北省・山東省・山西省などで民衆の政治・経済的不満が高まり、自治運動が高まってきていた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E4%B8%AD%E6%88%A6%E4%BA%89 前出
ことにも言及してしかるべきでした。
 結局のところ、日本の対米英敗戦直前には、日支戦争は、軍事的のみならず、(華北、華中、華南の順に)政治的にも、日本が蒋介石政権に全面勝利が目前の状態に立ち至っていた、ということです。
 こんな状況であった以上、日本の敗戦時に、蒋介石が老子ゆかりの言葉を援用した「以徳報怨」という対日方針を打ち出した
http://yoji.jitenon.jp/yoji/183.html
http://www.jats.gr.jp/journal/pdf/gakkaiho014_04.pdf
のは、日本軍と日本軍による広義の占領地域住民達が結託して、蒋介石政権と敵対することへの恐怖心からであった、と見た方がいいのかもしれません。
 更に言えば、国共内戦とは、中国共産党軍に日本軍の面影を見出した、かつての日本軍占領地域住民達が、中国共産党軍と結託して蒋介石政権を打倒した戦いであった、とさえ言えるのかもしれませんね。(太田)

(続く)