太田述正コラム#8368(2016.4.30)
<一財務官僚の先の大戦観(その18)>(2016.8.31公開)

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[ソ連空軍志願隊]

 日支戦争中の1937年から1941年までの間、蒋介石政権を支援したソ連空軍の義勇部隊。
 「<1937年>8月21日、中ソ不可侵条約が締結され<たが、>・・・9月14日、国民政府はソ連・・・に対して飛行機などの武器供給とソ連空軍の作戦部隊派遣を要請し<、>ソ連<は>・・・<兵員を>選抜<し、>あるいは部隊ごと<に>・・・形式上は義勇兵と<して支那に送り、>・・・空戦闘機大隊・・・と爆撃機大隊<を編成した。この>・・・ソ連空軍志願隊は、スペイン内戦<に参加した>パーヴェル・ルィチャゴフ少将などが指揮を執っ<た>。ソ連の義勇兵たちは、派遣期間を6ヶ月以内とする交代制(ローテーション)<だった>。・・・
 1938年1月26日、南京を爆撃した中国空軍機の1機が撃墜され、別の1機が不時着した。両機ともソ連人パイロットにより操縦されていたことがわかり、ソ連の義勇部隊が参戦しているという事実が初めて明るみに出た・・・。4月4日、重光葵駐ソ大使はこの義勇飛行兵についてソ連外務省を訪れて抗議した。・・・リトヴィノフ外相は軍人の派遣を否定し、「支那事変」を戦争と扱っていない日本のクレームは理解出来ないとして取り合わなかった。・・・
 1941年6月、独ソ戦が勃発すると、・・・余裕が無くなったソ連は支援終結を宣言、・・・空軍志願隊<は>撤収した。・・・
 <なお、>ソ連製の航空機<が>1937年10月から39年9月までに985機、1941年までに1,250機が<支那>へ送られた。供給された航空機は中国空軍・ソ連志願隊で使用され、ソ連人部隊が引き揚げる際にその使用機は中国側へ引き渡された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E9%80%A3%E7%A9%BA%E8%BB%8D%E5%BF%97%E9%A1%98%E9%9A%8A
 なお、日ソ中立条約が効力を発生した1941年4月25日(署名は1941年4月13日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E3%82%BD%E4%B8%AD%E7%AB%8B%E6%9D%A1%E7%B4%84
から独ソ戦が始まった6月まで、上記志願隊は撤収していなかったことと、撤収する際に使用機を蒋介石政権に引き渡したことは、この条約第二条「締約國ノ一方カ一又ハ二以上ノ第三國ヨリノ軍事行動ノ対象ト為ル場合ニハ他方締約國ハ該紛争ノ全期間中中立ヲ守ルヘシ」
https://ja.wikisource.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B8%9D%E5%9C%8B%E5%8F%8A%EF%BD%A2%E3%82%BD%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%A8%E3%83%88%EF%BD%A3%E7%A4%BE%E6%9C%83%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9C%8B%E8%81%AF%E9%82%A6%E9%96%93%E4%B8%AD%E7%AB%8B%E6%A2%9D%E7%B4%84
の違反にあたるのではないか。
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 「ここで、軍閥の争いを展開した統制派と皇統<(ママ(太田))>派の争いについて触れておくこととしたい。

⇒皇「統」派には恐れ入ります。
 念の入ったことには、その後も立て続けに更に2回、皇「統」派が登場します。
 この校訂ミスは、この本を出版した中央公論社の劣化と松元の無責任ぶりを示すものです。(太田)
 
 両者の違いはわかりにくいが、戦略面で見ると、中国に一撃を加えた上でソ連に対する守りを固めるというのが統制派の中国一撃論だったのに対して、強くなる前にソ連をたたくというのが皇統<(ママ(太田))>派の予防戦争論であった。

⇒ミスプリはともかく、このくだりは、私のかねてからの指摘にかなり近い部分がある主張であり、その限りにおいては評価すべきでしょう。
 但し、中国一撃論・・これも正しくは対支一撃論ですが・・を持ち出しているのは完全に的外れです。
 というのも、「日<支>戦争初期に・・・日本陸軍上層部は、関東軍が満ソ国境において ソ連軍と対峙している状況で、<支那>における戦線拡大を警戒したため、事変不拡大の方針を打ち出し、早期講和の道を模索し始める。しかし、・・・武藤章、田中新一ら・・・は対支一撃論を唱え、国民政府に強硬姿勢で望み 講和を引き出すという方針を陸軍上層部に訴える。・・・<結局、対支一撃論的に>上海を攻略し(第二次上海事変)、南京も攻略した(南京攻略戦)<が、>・・・上海への陸軍派遣は天皇の要望を汲んで米内光政海相らが主張したことであり、実際の事変拡大は陸軍の強硬派が独断で進めたわけでなく、トラウトマン工作を否定するなど強硬派を支援する形で政府側が進めた政策である」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BE%E6%94%AF%E4%B8%80%E6%92%83%E8%AB%96
という次第であり、松元自身がすぐ後で指摘しているように、日<支>戦争勃発時には、既に陸軍上層部は。当時省部でそれぞれ有力課長であったところの、武藤、田中を含め、統制派(注24)一色になっていたのであって、対支一撃論は、統制派の中の一見解に過ぎなかったからです。

 (注24)「支那事変勃発の際、参謀本部作戦課長」であった武藤は「統制派に与していた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E8%97%A4%E7%AB%A0
ところ、武藤と陸士同期であって、二・二六事件の後、「1936年(昭和11年)3月に陸軍省軍務局課員、同年8月に兵務局兵務課長<になり、>・・・1937年・・・3月には軍務局軍事課長に就任し<、>7月7日の盧溝橋事件発生に当たり、武藤章参謀本部作戦課長と連携し、不拡大方針をとる石原莞爾参謀本部第1部長を押し切って5個師団10万人規模の北支増派を決定させ<た>」田中もまた、統制派であったはずだ。
 なお、田中は、「1940年(昭和15年)10月には、・・・参謀本部第1部長に就任。対米関係が悪化する中、交渉の中止と開戦を強硬に主張し、慎重派の武藤章軍務局長と対立した」というのだから面白い。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E6%96%B0%E4%B8%80 (「」内) 

 そして、二・二六事件で皇統<(ママ(太田))>派が粛清されたことから統制派の中国一撃論が実行に移されることになったのである。

⇒上述したように、対支一撃論の出現は日支戦争勃発後であること、統制派イコール対支一撃論ではなかったこと、対支一撃論が実行に移されたとは必ずしも言えないこと、から、このくだりは三重に誤りです。(太田)

 中国一撃論は、蒋介石軍は弱体で数か月で片がつくとの見通しに基づくもので、その上で、日満支を諸外国の経済封鎖に対抗できる自給自足の経済ブロックにしていくことを想定していた。

⇒「中国一撃論」を「統制派」に読み替えれば、ですが、「日満支を」以下だけは間違っていません。(太田)

 しかしながら、その想定は第二次上海事変後の徐州作戦で蒋介石軍の包囲殲滅に失敗し、その後、英米ソによる強力な蒋介石支援体制が構築されたことによって崩れ、中国戦線は膠着状態に陥ることになった。」(82)

⇒「日中戦争勃発後、日本軍は南京占領成功を受けて、山東省から南へ津浦鉄道沿いに支配地域を広げる作戦を開始したが、1938年3月、徐州近くの台児荘で中国国民党軍による頑強な抵抗を受けて撤退した(台児荘の戦い)。1938年5月、南京方面からの援軍も受けた日本軍が徐州を包囲し、1938年5月20日徐州は陥落し日本軍が占領、・・・徐州会戦は中国軍の敗北で終わった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%90%E5%B7%9E%E5%B8%82
のですから、「国民党軍主力を包囲撃滅することはできなかった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%90%E5%B7%9E%E4%BC%9A%E6%88%A6
ことを強調する必要はないでしょう。
 松本自身、「<援蒋ルートの>初期の主力は香港ルートで、香港に陸揚げされた物資が鉄道や珠江の水運を利用して中国内陸部に運ばれていた<が、>同ルートは・・・徐州作戦で遮断された。」と記している(前出)のですからなおさらです。
 (もっとも、徐州作戦にそのような目的もあったことを示唆する記述は同作戦の日本語ウィキペディア上掲には出てきませんが・・。)(太田)

(続く)