太田述正コラム#8360(2016.4.26)
<一財務官僚の先の大戦観(その14)>(2016.8.27公開)

 「リチャード・ニクソンは、「権謀術数などは一般的に悪とされるが、指導者にはそれはなくてはならない。(中略)
 ルーズベルトは、絶対に参戦しないと公約しながら、ひそかに戦争準備を進めた(中略)、(第二次大戦で)我々は何千万という人間を殺し、傷つけ、不具にしたが、目的は立派に手段を正当化した」と述べている(『指導者とは』)。

⇒松元は、ニクソンが「目的」を何だと考えていたか、また、松元自身が、ローズベルトにとって「目的」は何だったと考えているのか、を書く必要がありました。
 恐らくは、どちらも、ナチスドイツの打倒なのでしょう・・但し、ローズベルトの場合、それはタテマエであって、ホンネは英国に代わって米国を名実ともに世界覇権国にすることだったはずです・・から、東アジアの話にはストレートにつながりません。(太田)

 ルーズベルト大統領は、日本軍による武漢攻略作戦<(コラム#6348)>(昭和13年10月)後、対日武器輸出制限措置を発動。
 その一方で、中国の武器購入には便宜を図り、対中2500万ドルの特別融資を供与した。

⇒いかにも、武漢作戦と米国の措置に因果関係があるかのような書きぶりですが、そうならば、松元は典拠を付す必要がありました。(太田)

 米国の日中両国に対する武器輸出は、昭和13年<(1938年)>以前にはほぼ拮抗しており、昭和13年の実績は、対中890万ドルに対して対日910万ドルであったが、その後、日米開戦までの間の米国の対中軍事支援額は1億7000万ドルに達して対日輸出を圧倒した。
 このような米国の対中軍事支援は、戦争当事国に対する武器輸出を禁止していた米国の中立法の下で行われたものであった。
 昭和12年7月の盧溝橋事件後、日中ともに戦線布告をしなかった大きな理由は、戦争となると米国の中立法上の制約から軍事物資を輸入できなくなるからであった。
 日本が中国に宣戦布告したのは、真珠湾攻撃による対英米宣戦布告と同時であり、その後中国も日本に宣戦を布告した。・・・
 ルーズベルト大統領は、日本軍が天津事件<(注17)(コラム#3782、3794)(昭和14年4月)を起こして英国に理不尽な圧力をかけると日米通商航海条約の破棄を通告した(昭和14年7月)。

 (注17)1939年「四月九日、中国で「天津事件」・・・が起きました。
<英>租界内で、日本側に立って便宜をはかってくれていた関税委員が四人の<支那>人に殺されたのです。
 日本は裁判にかけるため、<英>側へ逃げた容疑者を引き渡してくれと申し出たのですが、<英>領事館はこれを突っぱね・・・ついに日本は「六月四日昼までに容疑者を引き渡せ」と最後通牒を発し、これを<英側>が拒否したため六月十四日、・・・天津に駐在している陸軍・・・第27師団<の師団長の>・・・本間雅晴中将<は、>・・・北支那方面軍の命令により・・・英仏租界を隔離してしまいました。
 どういうことかといいますと、境界に陸軍部隊が立ち、電流を通した鉄条網を張り、いちいち身体検査など検問を行ない、男女とも出入りする人は時には民衆の面前で素っ裸にして調べ上げるというような強硬なものでした。・・・
 <なお、>北支那方面軍司令部は<、隔離にあたって>声明を出しまし<ています>。
 「矢はすでに弦(つる)を放たれた。もはや容疑者の引き渡しで終わるものではない。
 この問題を通じ、帝国陸軍はイギリスの援蒋政策(蒋介石の軍隊が依然として抵抗を続けるのはイギリスが弾薬などの兵器も含めて援護物資を送っているからだということ)を再検討することを呼びかけている。
 イギリス租界官憲が『日本とともに東亜新秩序建設に協力する』との新政策を高くかかげるまでわれわれは武器を捨てることはないであろう」<、と。>」(半藤一利『昭和史1926〜1945』)
http://ameblo.jp/ko269/entry-11260559030.html (より孫引き(下の[]内も))
 「天津の租界地では、野蛮な日本の兵隊が、白人のレディーズ&ジェントルメンを裸にひん剥いて身体検査をしている! <米>世論は沸騰した。・・・
 日英交渉は東京会談に移され、現地軍側の主席として[北支那方面軍参謀副長の]武藤章[少将]は七月七日東京に着いた。犯人引き渡しをはじめ治安関係事項の話し合いは、有田外相とクレーギー英国大使の話し合いで協調点に達したが、 聯銀券の流通、法幣の使用制限で話し合いは停頓。」
http://www.c20.jp/1939/06tensi.html

⇒「日本軍が・・・英国に理不尽な圧力をかけ<た>」などとよくもまあ松元は言えたものです。
 それは、犯人引き渡しに応じた、つまりは、英側に理がないことを認めた、クレイギー駐日英国大使(コラム#3794)に対する非難に等しい、と言うべきでしょう。
 松元が、日本軍による「隔離」のやり方だけを捉えて「理不尽」であったと言っている可能性が全くないわけではありませんが、それならそうときちんと記すべきでした。(太田) 

 昭和14年<(1939年)>9月に欧州大戦が勃発すると中立法を廃止し、昭和15年1月には日米通商航海条約の破棄を実行、同年7月には日本への石油と屑鉄の輸出を許可制にし、ガソリンも禁輸とする一方、中国への軍事援助を増強した。
 同年12月には、ルーズベルトはラジオの「炉辺談話」で「われわれはデモクラシー諸国の偉大な兵器廠たらねばならない」と述べて、欧州大戦への参戦を忌避していた米国民を参戦に向けて啓蒙した(『昭和史』)。
 中国に関しては、それまで民間航空機材輸出のためのパイロット養成として在郷軍人を斡旋するにとどめていたのを、昭和16年<(1941年)>7月からは、退役軍人パイロットの志願部隊(シェンノート<(コラム#6413、8346)>部隊)を中華民国軍に直接参加させた。」(76〜77)

⇒この部分には典拠が付されていないところ、松元は、日本語文献に丸写し的に拠っている部分・・その場合でも、もとより、その文献それ自体の信頼性の問題があるわけですが・・はともかく、自分の記憶に頼った部分では、途端に事実関係が怪しくなります。
 「退役軍人パイロットの志願部隊」の「中華民国軍<への>直接参加」は、1941年「7月から」ではなく、「恐らくは1941年4月15日から」であり、「7月」というのは、「夏から秋にかけて」同部隊がビルマに移動した時期
https://en.wikipedia.org/wiki/Flying_Tigers
に近く、その話、と、「中華民国軍<への>直接参加」云々の話、とを松元は混同したのではないでしょうか。
 いずれにせよ、このような米国の動きは、日本に対する戦争行為である、との認識が松元から全く窺われないのは嘆かわしい限りです。(太田) 

(続く)