太田述正コラム#8348(2016.4.20)
<一財務官僚の先の大戦観(その10)>(2016.8.21公開)

 「ここで、第二次上海事変でドイツが蒋介石政権に肩入れをしていた当時の状況みておくことにしたい。・・・
 当時の情勢をドイツ側から見れば、日本は第一次世界大戦で、火事場泥棒的に中国におけるドイツの拠点である青島要塞を攻略し、戦後はドイツの植民地だった太平洋諸島を委託統治という形で奪い取った国であった。
 昭和11年のドイツの武器輸出総額の57.5パーセントは、<上海郊外に>ゼークトラインを築くなど対日軍備拡充に努めていた中国向けになっていた(田嶋信雄『ナチズム外交と「満州国」』)。
 日本側から見ても、ドイツは日清戦争後の三国干渉を主導して旅順がロシアの基地になる結果を招き、苦しい戦いとなった日露戦争のきっかけを作った立役者であった。
 また、第一次世界大戦で失脚したドイツの皇帝ヴィルヘルム2世は日本人排斥でもある黄禍論を強力に唱えていた人物であった。・・・
 <以上に加えて、>中独関係の急速な緊密化は、第一次世界大戦後に欧米列強が中国での利権保持に頑なな姿勢を崩さなかったのに対して、大戦に敗れたドイツと革命後のソ連が親中国路線をとったこと<も>背景としていた。
 ドイツは1921年に中国が西欧列強と結んだ初めての平等条約を締結し、関税自主権を認め、治外法権の撤廃を行った(加藤陽子『昭和天皇と戦争の世紀」(154頁)。
 ソ連も1924年に同様の協定を結んでおり、後にソ連が援蒋ルートの主役の一人になる背景になったのであった。・・・

⇒松元は、第一次世界大戦後の独露(ソ)両国についてきれいごとばかりを並べ立てていますが、少なくとも、「<独ソ>両国間の外交関係を正常化し、「相互親善の精神により両国の経済的必要を解決するため協力する」ことにも同意した・・・<ところの、1922年の>ラパ<ッロ>条約」や同年中ないし翌年<の>「ヴェルサイユ条約の条項に違反する<ところの、>・・・[ドイツはソ連の重工業や軍事教育を支援し、ソ連は武器製造などを分担する]秘密の付属条項・・<の>調印」、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%91%E3%83%83%E3%83%AD%E6%9D%A1%E7%B4%84_(1922%E5%B9%B4)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E7%8B%AC%E5%90%88%E4%BD%9C ([]内)
や、ソ連が、外蒙古を1921年に事実上支那(中華民国)から奪取したほか、帝政ロシア時代に支那(清国)から獲得していたところの、附属地を含む中東鉄道の利権、の返還を拒み、それが原因で1929年に中ソ紛争が起こったものの、これにソ連は勝利して引き続きこの利権の保持を続けたこと、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E3%82%BD%E7%B4%9B%E4%BA%89
そして、「<ワイマール共和国時代の>ドイツは軍事先進国として多くの製造会社が一流の軍用品生産技術を持って<いたところ>、「外国に売るため」と<ヴェルサイユ>条約・・・の抜け穴をついて・・・ドイツの兵器メーカーは、<支那>に武器と軍事支援を提供する商権の拡大を画策し<こと、また、>・・・ナチス・ドイツは、・・・軍需資源の確保、特に<支那>で産出されるタングステンとアンチモンを重視し<て>・・・<そ>の対<支>政策<を>促進<し>た」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E7%8B%AC%E5%90%88%E4%BD%9C (前掲)
こと、等にも言及すべきでした。(太田) 

 ドイツの前身であるプロイセンは、幕末に蝦夷地を自国領にする思惑を持っていた国でもあった(クラウス・クラハト、克美・タテノ=クラハト『鴎外の降誕祭』)。」(63、68)

⇒この話を少し調べてみたところ、いささかニュアンスの異なる、以下のような記述を見つけました。↓
 「会津藩は1859年に北方警備のために、幕府から蝦夷(北海道)の一部(根室・紋別)を譲渡されていた。
 当時の蝦夷地(北海道)は、米がとれないということで、進退窮まった会津藩にとっては、無用の長物。庄内藩(山形)とともに、その管轄地をプロイセン(ドイツ)へと売り渡そうとしたのである。
 国土を他国に売り渡そうとするとは、何たる非国民的な行いかと思うかもしれないが、当時の蝦夷(北海道)は、日本であって、日本でなかった。
 蝦夷(北海道)を旅した「イザベラ・バード」は、「日本はどこもかしこも誰かの土地で、焚き火も自由にできない。しかし、北海道なら、どこでも焚き火ができる」と書き残しているくらいである。
 蝦夷地(北海道)譲渡の話を受けた、駐日プロイセン公使の「ブラント」は大喜び。

 「ブラント」は、過去2回ほど蝦夷地(北海道)を訪れており、その土地の価値を充分に評価していたのだ。
 「ブラント」に同行した農業の専門家「ゲルトナー」が、北海道が「ジャガイモや麦」などの栽培に最適であると助言したためでもある。「気候は北ヨーロッパと似ており、土地は広大、水は豊か、牧畜には最適である」。
 当時の日本人にとっては、国力は「米の生産力」に他ならず、米のとれない蝦夷(北海道)は、その意味で無価値であった。ところが、プロイセン(ドイツ)人にとって、ジャガイモ、麦、そして放牧に格好の土地である蝦夷(北海道)は、ノドから手が出るほどに有益な土地であった。
 しかし、プロイセンの鉄血宰相「ビスマルク」は、この会津藩の申し入れを「却下」。
 蝦夷(北海道)を手に入れるということは、ロシア・フランスとの関係悪化を意味したからだ。・・・
 フランスは幕府軍<、すなわち、会津藩側>に武器を売り込<んで、幕府との特別の関係樹立を狙っているように見えた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5
こと>、ロシアは北の大地を虎視眈々と狙っていた<こと、を想起すべきだろう。>」
http://eikojuku.seesaa.net/article/213039019.html (太田)

(続く)