太田述正コラム#8338(2016.4.15)
<一財務官僚の先の大戦観(その6)>(2016.8.16公開)

 「軍部擁護の世論を背景として、陸軍は二・二六事件後には広田弘毅<(コラム#1820、4378、4618、4833、4855、4963、4968、4998、5188、5610、6244、6274、6280、7592、7606、8114)>の組閣人事にも公然と注文をつけるようになった。
 外相に予定されていた吉田茂<(多すぎるので省略(太田))>は親英米的であるとして軍部から忌避されて駐英大使に回った。・・・

⇒私は、以前、(コラム#5604で)吉田を忌避した軍部の先見の明を褒めたことがあります。(太田)

 昭和11年<(1936年)>・・・5月に開催された第69回帝国議会では、選挙での躍進を背景に民政党の斎藤隆夫<(コラム#2925、3885、3953、4713、5297、5596、5598、5678、7713)>が、いわゆる粛軍演説を行って軍部を批判した。・・・

⇒斎藤が、いかに胡散臭い、と言ったら語弊があれば、いかに複雑な、人物であったかが分かる典拠を読者が以前(コラム#7713で)提供してましたね。(太田)

 広田内閣の下、昭和11年<6月3日>には帝国国防方針が改定され、それまで<民政党の>高橋是清が守ろうとしていた軍事予算抑制路線が大転換された。・・・
 <しかし、>馬場0譟ΑΑβ∩蠅打ち出した税制改革案<(増税案)>は、・・・広田内閣がいわゆる<政友会の浜田国松(注7)(コラム#3885、3953、5602、5592、5598)による>「腹切り問答」<(注8)(コラム#5592、5598)>で倒れた後の林銑十郎内閣・・・でご破算になってしまう。

 (注7)1868〜1939年。「東京法学院(現・中央大学)を卒業、弁護士となる。明治37年(1904年)、旧三重県郡部選挙区から衆議院議員に初当選する。以後連続12回当選。」・・・<著書に>「議会主義か・フアツシヨか」斎藤隆夫・加藤勘十と共著(昭和12年(1937年)・・・)<がある。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%9C%E7%94%B0%E5%9B%BD%E6%9D%BE
 (注8)浜田(濱田)は、「「近年のわが国情は特殊の事情により、国民の有する言論の自由に圧迫を加えられ、国民はその言わんとする所を言い得ず、わずかに不満を洩らす状態に置かれている。軍部は近年自ら誇称して[我が国政治の推進力は我らにあり、乃公出でずんば蒼生を如何せんの慨がある。五・一五事件然り、二・二六事件然り、軍部の一角より時々放送される独裁政治意見然り(中略)要するに]独裁強化の政治的イデオロギーは常に滔々として軍の底を流れ、時に文武恪循の堤防を破壊せんとする危険がある」と・・・軍部の政治干渉を痛烈に批判する演説を行った。・・・
 <恪循(かくじゅん)=つつしんでそれに従うこと。
http://dictionary.goo.ne.jp/jn/38829/meaning/m0u/%E6%81%AA%E5%BE%AA/ (太田)>
 これを聞いた寺内陸相は答弁に立って「或は軍人に対しましていささか侮蔑されるような如き感じを致す所のお言葉を承りますが」と険しい表情で反駁。ところが浜田が2度目の登壇で「私の言葉のどこが軍を侮辱したのか事実を挙げなさい」と逆に質問をしたため、寺内は「侮辱されるが如く聞こえた」と言い直した。それでも浜田は3度目の登壇で「速記録を調べて私が軍を侮辱する言葉があるなら割腹して君に謝罪する。なかったら君が割腹せよ」と激しく寺内に詰め寄った。これに寺内は激怒、浜田を壇上から睨みつけたため、議場は怒号が飛び交う大混乱となった。
 政府は収拾策を見出すために天皇に裁可を仰いで議会は翌日より停会となった。寺内は「政党が時局に対して認識不足」として、政党に対し反省を求める意味で議会解散を強く廣田首相に要求、解散しないなら単独辞職すると言い放った。総理はもとより、海軍予算の成立を急ぎたい永野修身海相が寺内の説得に乗り出したが、へそを曲げた寺内は結局これに応じず、広田は閣内不統一を理由に内閣総辞職した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%85%B9%E5%88%87%E3%82%8A%E5%95%8F%E7%AD%94
http://royallibrary.sakura.ne.jp/ww2/text/harakiri.html ([]内)

⇒一部の跳ね上がり軍人の言動はともかくとして、「軍部の一角より時々放送される独裁政治意見」など存在したためしがないことだけとっても、この浜田の質疑は軍部に対する侮辱(中傷)以外の何物でもありませんでした。
 彼の真意を解くカギは、その発言中の「五・一五事件」云々にあります。
 すなわち、浜田ら政党勢力のうちの多くは、1932年の同事件を契機に、(世界情勢が緊迫化していた中で英国よりずっと遅れて)日本が挙国一致内閣に移行したことを自分達政党勢力の既得権益の軍部による浸食、簒奪である、と利己的に曲解していたのであろう、と私は推察しているのです。
 そういう曲解のせいで、同事件以降も、政党勢力は、軍事予算の顕著な増大に反対し続けた、ということではないか、と。
 「「腹切問答」のあと、1937年(昭和12年)1月21日、陸軍省は・・・「浜田代議士の演説は終始、反軍侮蔑であるが、それよりも、政民両党のこの場における熱狂的な拍手喝采は、もはや浜田一個人の問題ではなく、累積せる政党の反軍感情を暴露し、日頃の鬱憤を晴らそうとするもので、軍はこのような政党とは、庶政一新の諸政策を議し、内外の時艱突破をともにすることができない」<という>・・・声明を出した
http://ww1-danro.com/sinojapanesewar/ugaki.html
のですが、この、寺内以下の陸軍上層部の憤激は当然である、と言うべきでしょう。
 私は、この数年間の政党勢力によるサボタージュが、陸軍軍備の充実を妨げ、日支戦争の早期勝利・解決を阻害した、と考えています。(太田)
 
 6億円もの増税に財界等の反発が強かったことが、その背景だったとされている。・・・
 しかしながら、軍事費の抑制を内心不満としていた林首相は、・・・いわゆる「食い逃げ解散」<(注9)>を行って政治情勢の局面打開を図った。
 ところが、そのようにして行われた選挙の結果も、<軍事費抑制派の勝利に終わった。>・・・

 (注9)「林銑十郎内閣は、昭和12年度予算が可決されたのを見て、政党のあり方が政府に対して翼賛的ではないとし、議会刷新の必要性に鑑み、衆議院を解散した。しかし、政党や国民は、予算成立という「ご馳走」を食べ終わるなり解散をしたということで、「食い逃げ解散」と非難した。4月30日に行われた第20回衆議院議員総選挙の投票結果は、与党的立場をとる昭和会・国民同盟などは合わせても40議席程度で、野党の政友会・民政党が優位に立った。
 しかし、総選挙後も林内閣は政権居座りを図ろうとしたため、民政党・政友会、加えて社会大衆党は、一斉に林内閣に対して退陣を要求した。林銑十郎首相は退陣要求に対して強気の姿勢を崩さず、5月15日の地方長官会議(知事会議に相当)の席上、政権維持を言明し、再度の衆議院解散をちらつかせた。政党側も一層態度を硬化させ、倒閣運動は激化する。与党・昭和会の望月圭介は林に対し善処を要求し、林も窮した。5月31日、林内閣は総辞職した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9F%E3%81%84%E9%80%83%E3%81%92%E8%A7%A3%E6%95%A3

 議会の軍部への牽制機能に止めをさしたのが、昭和12年7月に勃発した盧溝橋事件と同事件に際して起こった通州事件<(コラム#1388、2196、5726、7252、7635、7637、7739)>(7月29日)であ<り、>・・・世論やマスコミは「暴虐支那の膺懲」に大きく傾いていった。
 昭和12年10月の帰化城(蒙古)攻略戦では中国軍が催涙毒ガス弾を使用したとされ、昭和13年10月の武漢攻略戦では日本軍も特殊弾(毒ガス弾)を使用した・・・。
 昭和12年8月の蒋介石日記には、上海に「独瓦斯をもっていく」との記述がある・・・。・・・

⇒この、中国国民党軍による化学兵器先制使用の話は知りませんでした。
 これまでのところ、これが、この本による最大の収穫です。(太田)

 そのような報道が続く中で、・・・議会は軍部を応援する翼賛機関になっていった。」(55〜、66)

⇒政党勢力が、長らく、利己心が災いして、「暴支膺懲」に向けての民意の喚起を怠ってきたことを反省し、爾後は、せめて民意に従おうとした、というだけのことでしょう。(太田)

(続く)