太田述正コラム#8334(2016.4.13)
<一財務官僚の先の大戦観(その4)>(2016.8.14公開)

 「あの戦争には二つの側面があった・・・。その一つは、日本がアジアの盟主になろうとの野望を抱いて行った戦争であり、もう一つは、日本が西欧植民地主義の否定として行った戦争であった。・・・
 とすれば、アジアの盟主になろうとの野望をたくらんだ戦争指導者が東京裁判で裁かれてしまえば、後に残るのは鎮魂の思いだけということになったのである。」(43)

⇒「日本がアジアの盟主になろうとの野望を抱いて行った戦争」には典拠も具体的例示もあげられていませんが、あるわけがありません。
 極東裁判の中ででっちあげられた史観であり、まだ、そんなものをつゆ疑うことなく信じ続けている知識人が私とほぼ同じ世代に属す日本人にいることが私には衝撃です。
 太田コラム読者にとっては周知のことですが、先の大戦における日本の戦争目的は対赤露抑止であり、その手段として掲げられたものがアジアの解放であったというのに・・。(太田)

 「当時、国民には、今日でいえば、西欧キリスト教諸国の抑圧からイスラムの民を守らなければならないというイスラム原理主義の「教義」と同様のものが教え込まれたと考えれば理解しやすいであろう。その代表例が「支那を列強の支配から解放しなければならない」と考えて活動した「支那通」と言われる人々であった。」(45)

⇒「支那通」とは、主として旧帝国陸軍の軍人の中の文字通りの支那通に与えられた通称ですが、少し調べれば、彼らが、全て、対赤露抑止のための手段としての、国民党政権への赤露、独、英、或いは米による支援の排除、それができなければ国民党政権の打倒、を追求したことが分かる(コラム#省略)というのに、松元は、自分の単なる思い込みを、当然典拠を付けることなく、書き散らしているわけです。(太田)

 「中国から見れば、それまでの日清、日露のいずれの戦争も日本が中国に代わってアジアの盟主になることを目指した戦争であったといえよう。・・・
 多くの中国人にとってアジアの盟主になるとの野望をたくらんだA級戦犯を祀る靖国神社は、日本が次の戦争でアジアの盟主になるべく軍国主義を保持していることの象徴以外の何物でもないということになるのであろう。それは、「罪を憎んで人を憎まず」という点についての文化の違いのように思われる。」(47〜48)

⇒日本がアジアの盟主になるとの野望をたくらんだと見た「中国」とは、台湾逃避より前の中国国民党政権なのでしょうか、それとも中共政権なのでしょうか、その両方なのでしょうか、いずれにせよ、その具体的な典拠は?
 松元は、こんな雑な叙述がよくもまあできるものです。
 また、後段に関しては、「<中共>政府<が>、1979年4月にA級戦犯合祀が公になった時から1985年7月までの6年4月間、3人の首相が計21回参拝したことに対して・・・何の反応も示さなかった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%96%E5%9B%BD%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E5%95%8F%E9%A1%8C#.E4.B8.AD.E8.8F.AF.E4.BA.BA.E6.B0.91.E5.85.B1.E5.92.8C.E5.9B.BD
ことを、松元は、一体どう考えているのでしょうね。(太田)

 「我が国の国際的な孤立化への大きな転機となったのが、昭和7年の第一次上海事変<(1932年1月28日〜3月3日)(コラム#3969、4532、4544、4578、4614、4691)>であった。・・・
 当時、ラモント・モルガン銀行総裁<(注2)>は、米国における親日派の代表的存在だった。

 (注2)1870〜1948年。ハーヴァード大卒。モルガン商会のパートナーの一人。ウッドロー・ウィルソン、ハーヴァート・フーヴァー、フランクリン・ローズベルト各政権の顧問格(mentor)。
https://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_W._Lamont

 ラモント総裁は、満州問題について米国政府がスティムソン・ドクトリンを出して日本を非難しても、日本が「満鉄附属地」を管理しているのは、米国がパナマ運河地帯を管理しているようなものである。
 満州において日本が交通網を発達させ、その安全を確保しているから中国人が100万の単位で満州に移住してきているのであり、それは「日本の功績である」としていた。
 そのようなラモント総裁の親日感情の背景には、・・・井上準之助<(注3)(コラム#4614、4982、7831)>と親交を結んでいたことがあった。井上は・・・我が国を代表する国際的な金融家だった。

 (注3)1869〜1932年。東大法卒、日銀に入り、その後横浜正金銀行に転じ、やがて日銀総裁、大蔵大臣。「大臣としては緊縮財政路線を取り金解禁を実現させた。しかし、世界恐慌もあいまって日本経済はデフレーションに陥った(昭和恐慌)。・・・
 また、緊縮財政を進める中で、海軍の予算を大幅に削減したことは、海軍軍令部や右翼の恨みを買い、統帥権干犯問題と自身の暗殺へとつながることになる。・・・
 若槻内閣が内部分裂で倒れると井上財政は終焉し、高橋是清蔵相の元で積極財政を推進する政友会の犬養内閣が成立した。・・・
 しかし、蔵相時代の経済の悪化などを理由に血盟団の暗殺の標的となっており、昭和7年(1932年)2月9日・・・暗殺された(血盟団事件)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E6%BA%96%E4%B9%8B%E5%8A%A9
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%80%E7%9B%9F%E5%9B%A3%E4%BA%8B%E4%BB%B6 (←血盟団事件)

 ラモント総裁が満州事変擁護論を繰り広げたのも、井上蔵相の満州事変についての対米世論工作を支援しようとの思惑からであった。
 ラモント総裁を激しい反日に転じさせたのが、昭和7年1月28日に起こった第一次上海事変とその10日余り後の2月9日に起こった井上準之助の暗殺であった。
 ラモントは、森賢吾財務官に宛てた書簡において、井上などの暗殺を「真の信頼しうる友人たちを失った」「日本にとっては賢明な助言者たちを失った」と述べた。
 そして、ラモントは「上海事変はその全てを変えた。日本に対して何年にもわたって築き上げられてきた好意は、数週間で消滅した」「もしも神が全日本列島を一夜にして海中に沈め、雷をして全日本軍を一撃の下に打倒せしめるならば、それこそが唯一のよい解決となるだろうに」とまで述べるようになったのである。
 <当時の>スティムソン米国務長官とも親しかったラモントの、そのような反日への転向は、その後の日米関係悪化を決定付けたといってもよい出来事であった」(51、53〜)

⇒初めて、私にとって目新しい、典拠付きの話が登場したのは大変結構なのですが、第一次上海事件がどうして起こったかを全く調べていないとしか思えない松元の筆致には、ただただ呆れるほかありません。
 1931年の満州事変勃発以来、上海では反日運動が活発化していましたが、その裏には、上海租界に支那における有力拠点・・イレール・ヌーラン(Hilaire Noulens。1894〜1963年)がその長・・を設けていたコミンテルン・・赤露の国際フロント組織・・の策動がありましたし、1932年1月28日に始まった軍事衝突は、中国国民党の十九路軍の上海市郊外への進出を警戒して上海に増強されていた日本軍に対する(蒋介石の撤退命令に従わずに現地にとどまっていた)十九路軍の攻撃によって始まったものであるところ、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E6%AC%A1%E4%B8%8A%E6%B5%B7%E4%BA%8B%E5%A4%89
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%8C%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3 (←ヌーラン事件)
この十九路軍の総指揮を執っていたのは、中国国民党内の共産党シンパで中途で反中国共産党に転じた、従って、私見では赤露直系の蔡廷カイ(Cai Tingkai。1892〜1968年)であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%94%A1%E5%BB%B7%E3%82%AB%E3%82%A4
https://en.wikipedia.org/wiki/Cai_Tingkai
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%98%8C%E8%9C%82%E8%B5%B7
要するに、上海事変は、赤露が、上海内外から、日本/日本軍を狙い撃ちした事変であったのです。
 井上準之助等の当時の日本の日銀/大蔵官僚の支那情勢認識が、仮に、比較的まともなものであって、ラモントにもそれなりのインプットをしていたとしても、ただでさえ国際音痴の米国の指導層にとって、当時の支那情勢など、到底理解できるわけがないのであって、ラモントが満州事変には理解を示しつつも第一次上海事変における日本の対応に激高したことは、まさにその一つの証左である、と言うべきでしょう。
 そんな話を鬼の首を取ったかのように、松元は紹介しているわけです。(太田)

(続く)