太田述正コラム#8324(2016.4.8)
<ナチスの原点(II部)(その6)>(2016.8.9公開)

 「・・・ヒットラーが完全な反ユダヤ主義者として立ち現れたのは、ウィーンにおいてではなく、第一次世界大戦直後のミュンヘン・・ロシア革命とヴェルサイユ条約の日々・・においてだった。
 それは、「経済的な惨めさ、社会的不安定性と集団的トラウマの爆発的混合」の時だった、と著者は記す。
 「ドイツ社会からユダヤ人達を追い出すという中心的目標(goal)…は、常軌を逸した孤独な一個人の観念では決してなかった」、と。
 再編成された軍と社会のそれ以外の所とを問わず、<当時のドイツでは、>広範な<反ユダヤ主義>コンセンサスが成立していたのだ。・・・」(E)

 (8)改めてヒットラーについて

 「・・・ヒットラーの生涯について記したものは山とあるが、彼は、依然として、しばしば、二次元的な諸言辞でもって描写されている。・・・」(A)

 「<これに対し、>著者のヒットラーは<、三次元の>ヤーヌス(Janus)<(注15)>顔をしている。

 (注15)「ローマ神話の出入り口と扉の神。前後2つの顔を持つのが特徴である。表現上、左右に別々の顔を持つように描く場合もある。一年の終わりと始まりの境界に位置し、1月を司る神である。・・・他の著名な神と異なりギリシア神話にはヤーヌスに相当する神はいない。英語で1月をいうJanuaryの語源(ヤーヌスの月)でもある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%BC%E3%83%8C%E3%82%B9

 すなわち、可愛そうなほど不安感で一杯の鋼鉄のような指導者、自分が忘れ去られるのではないか(personal oblivion)との恐怖に駆動された殺人者、だったのだ。
 米国流にどこへでも飛行機で赴く超モダンな政治家は、実際には、諸飛行機に怯えていた。
 大きくて速い諸自動車が大好きだったこの男は、決して運転を習おうとしなかった。
 (彼がアイドル視していたムッソリーニとは違って、)この流暢な雄弁家は一つの言語しかしゃべれなかった。
 「ユダヤ人お断り」の入浴諸地域は、怖くて泳ごうとしなかった、この男によって制定(ordain)された。
 ポーランド風社交ダンス(ballroom polonaise)でイタリア王妃のパートナーになることを強いられた時<(注16)>、(ダンスができなかった)ヒットラーは彼自身の突撃隊指導者のエルンスト・レームの射殺を命じた時よりも、もっと苦しめられた。・・・」(D)

 (注16)ヒットラーは、1934年(ヴェネティア)、1938年(ローマ)、1943年(フェルトレ(Feltre))の3回訪問しているが、国王(ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世)に会ったのは2回目の1938年だけなので、王妃に会ったとすれば、その時だと思われる。
http://www.hitlerpages.com/pagina44.html

 「・・・彼の生涯において、「彼の女性達との諸関係ほど諸噂と諸伝説が蔓延っている」分野はない。
 希な愛は、若きゲリ・ラウバル(Geli Raubal)<(注17)>に対するものであり、彼は、彼女を溺愛し、長々とお説教をしたものだ。

 (注17)1908〜31年。「アドルフ・ヒトラーの異母姉アンゲラ・ヒトラーの第二子で、ヒトラーの姪にあたる。・・・彼のヌードスケッチのうちの少なくとも一つはゲリをモデルとしたものである。・・・。
 ルドルフ・ヘス夫人イルゼは「取り立てて美人というのではないが」「いわゆるウィーン風の魅力を備えていた」と評したが、党の海外広報部長エルンスト・ハンフシュテングルは「頭の空っぽなお転婆娘、下女のように粗野で、頭も悪いし人柄も良くない」と酷評した。一方で妻のエルナ・ハンフシュテングルは「感じの良い、とても真面目な子」と感じており、ナチ党のお抱え写真家であったハインリヒ・ホフマンも「天真爛漫な立居振る舞いですべての人の心をとりこにするかわいい娘」と好意的な評価をしている。一方でホフマンの娘ヘンリエッテは「粗野で、挑発的で、向こう気が強い」としているが、「抗し難い魅力を持った」人物と評している。
 第二次世界大戦後、ゲリの従兄弟であるウィリアム・パトリック・<ヒットラー>はオーバーザルツベルクで初めて彼女を見た印象を「若い娘というより、子供のようだった。美しいわけではないが、人を惹きつける自然な魅力があった。普段は帽子を被らないで外に出たり、プリーツスカートに白ブラウスというような普通の服を着ていた。叔父である<ヒットラー>からもらった金の鉤十字以外は宝石らしきものは身に着けることも無かった」と証言した。・・・
 <やがて、ヒットラー>はゲリを束縛するようになる。友人とさえも自由に行動することを許さず、<ヒットラー>自身か信用できる者を常に彼女の傍につけさせた。また、ヒトラー自身が付き添う事もあり、ウインドウショッピングをするゲリに待たされることもあった。・・・
 そうした<ヒットラー>の束縛とは反対に、ゲリは自由奔放に振舞った。1931年夏、当時運転手であったエミール・モーリス・・・と親しい関係になり、ひそかに婚約した。これを知った<ヒットラー>は激怒して不忠をなじり、モーリスは解雇された(後に再雇用、昇級した)。・・・
 <その後、ゲリは、>1931年9月にはオーストリア人の画家と交際するようになったが、ヒトラーは姉アンゲラと協力し、二人を別れさせた。・・・
 ヒトラーはホフマンに対して「私はゲリを愛している、だが彼女との結婚は望めない」と語っている・・・<他方、>家政婦ヴィンター夫人はゲリが「ヒトラー夫人になることを望んでいた」とし<ている。>・・・
 <結局、ゲリは、>ヒットラーの<ミュンヘンの>アパート<で拳銃自殺する。>・・・
 後に<ヒットラー>は秘書・・・に、愛人エヴァ・ブラウンと結婚しないのかと聞かれて次のように回答している。 「エヴァは好ましい女性だ。しかし、私の生涯で本当に情熱をかき立てさせられたのは、ゲリだけだ。エヴァとの結婚は考えられない。生涯を結びつけることができる女性は、ただ一人、ゲリだけだった。」・・・<また、それ>以降<ヒットラー>は、レバーダンプリングのほか、一切の肉を食べることを<ゲリの死体を連想させるとして>拒否した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%83%AA%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%83%90%E3%83%AB
 1929年にミュンヘン大医学部に入学するも中退している。その後も歌のレッスンを受けていたことがある。
https://en.wikipedia.org/wiki/Geli_Raubal
 ミュンヘン大・・正式名称はルードヴィヒ・マクシミリアン(Ludwig Maximilian)大学ミュンヘン・・は、ドイツで最も古くかつ名高い大学の一つ。
https://en.wikipedia.org/wiki/Ludwig_Maximilian_University_of_Munich

 ゲリのヒットラーとのツーショット等の写真。↓
https://www.google.co.jp/search?q=Geli+Raubal&hl=ja&rlz=1T4GGHP_jaJP668JP668&tbm=isch&imgil=uhFb-j2Iq-12jM%253A%253BHct1MYu0Vru09M%253Bhttp%25253A%25252F%25252Falchetron.com%25252FGeli-Raubal-1355902-W&source=iu&pf=m&fir=uhFb-j2Iq-12jM%253A%252CHct1MYu0Vru09M%252C_&usg=__l68qH1yFJh1GwfHJab1i8vQdaiE%3D&biw=1628&bih=873&ved=0ahUKEwiGgpGC5P7LAhWKGpQKHRq6CAIQyjcIjgE&ei=AoEHV4b5DYq10ASa9KIQ#imgrc=uhFb-j2Iq-12jM%3A

 彼女は、謎めいた状況の下、1931年9月に死んだ。
 ヒットラーの最も有名なパートナーはエヴァ・ブラウン(Eva Braun)<(注18)>だった。

 (注18)エヴァ・アンナ・パウラ・ブラウン(Eva Anna Paula Braun。1912〜45年)。「1929年10月、・・・<ヒットラー>専属カメラマン、ハインリヒ・ホフマンのモデル兼助手<であった>・・・17歳のエヴァは23歳年上の<ヒットラー>にホフマンのスタジオで出会う。・・・<この時、ヒットラー>は、エヴァの目の色が彼の母にとてもよく似ていると評している。・・・1931年、<ヒットラー>との口論の後、ゲリは拳銃自殺を遂げた。この直前、ゲリはエヴァから<ヒットラー>に宛てた手紙を読んで破いていたことを家政婦は証言している。エヴァはゲリの存在を知らされていなかった。<ヒットラー>はゲリの死にショックを受け憔悴するが、結局19歳のエヴァがゲリの代わりに<ヒットラー>の傍で暮らすことになる。エヴァの手記によるとその時期は1932年の春頃とされる。・・・<爾後、2人は、結婚を双方の家族・・ヒットラーに関してはアンゲラ・ヒトラー・・から反対され続ける。>・・・1932年11月1日、エヴァは自らの胸を拳銃で撃ち自殺を図った<が未遂に終わる。>・・・<ヒットラー>とエヴァは<、1945年>4月29日に、総統官邸地下壕内で・・・結婚し<、翌日、2人は自殺し>た。」無学。写真も載っている。↓
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%83%B3

⇒ヒットラーと2人の女性との関係を詳しくご紹介したのは、高校2年の時に授業で読まされたプラトンの『饗宴』の影響で、エロスが人間の最大の駆動力であると私は信じ、現在に至っているからです。
 私に言わせれば、フロイト(Sigmund Freud)は、リビドー(性的エネルギー)、すなわち、エロスが人間の最大の駆動力であると考えた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%A0%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%83%88
点では正しいのだけれど、その考えを、もっぱら精神障害者の症状の原因の究明に用いたことと、その究明にあたって、非科学的アプローチをとったことは間違っています。
 エロス駆動力説は、むしろ、ヒットラーのような、(著者ウルリッヒがそう指摘しているところの、)「正常な」人間の思想や行動の解明にこそ用いられなければならないのであり、また、その解明にあたっては、必ずしも科学的根拠を必要としない、というのが私の考えなのです。
 すぐ後で、かかる観点からの私のヒットラー論をご披露します。(太田)

(続く)