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太田述正コラム#8314(2016.4.3)
<ナチスの原点(II部)(その3)>(2016.8.4公開)

 (3)第一次世界大戦

「・・・1913年にささやかな遺産が手に入り、ヒットラーはミュンヘンに移住した。
 第一次世界大戦前の憎しみの温床の中で彼が出会った狂気じみた反ユダヤ主義諸集団は、彼自身のたぎりつつあった敵意が、(後に、その上に彼の運動を創始したところの、)大量破壊のごった煮の信条へと変身するのを助けた。
 ヒットラーは、1914年8月に、彼が新たに加わった国のために戦う署名をした。
 彼は、(煙草、女、酒抜きだったので、)典型的な兵士ではなかったが、著者は、西部戦線における伝令としての彼の勇気についての諸報告に異議を唱えていない。
 神秘的摂理によって死を免れたことによって、ヒットラーは、自分が全球的支配(mastery)の運命を与えられていると信じるに至ったところ、1925年にランズベルク刑務所でルドルフ・ヘス(Rudolf Hess)<(注8)(コラム#239、427、4438、5409)>に戦時中の様々な思い出を大きな声で読んで聞かせている時に、珍しい瞬間だったが、突然泣き出すという形で、個人的感情を吐露したものだ。

 (注8)1894〜1987年。「<ナチス>副総統(総統代理、指導者代理とも訳される)、ヒトラー内閣無任所大臣。党内初の親衛隊名誉指導者であり、親衛隊における最終階級は親衛隊大将。」第一次世界大戦の時志願して兵士になり、歴戦の勇士として少尉にまで昇給し、戦闘機操縦士として軍役を終え、ミュンヘン大学に学ぶ。1941年5月、英国に向け、単独飛行し、捕虜となる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%98%E3%82%B9

 この戦争は、帰郷する兵士達向けの反ボルシェヴィキ<教育>の講師(instructor)として、ヒットラーが公衆の前で話をする最初の機会を与えた。
 「自覚せずして自分が常に本能的に感じていたところのものが確認された」、と彼は5年後に『我が闘争』の中で記した。
 「私はうまくしゃべることができる」、と。・・・」(D)

 (4)戦後ミュンヘン時代

 「・・・1918年11月にミュンヘンに戻った時、国内戦線が敗北していない軍を背後から一突きした<ためにドイツは敗北に至った>、と確信していたヒットラーは、この都市が革命によって引き裂かれていることを発見した。
 翌年、柄にもないように見える動きだったが、30歳のヒットラーは政治への決定的跳躍を行い、1920年初頭には、彼の演説会の一つに2000人の観衆を呼び寄せることができるようになった。
 ほやほやとはいえ、凝り固まった急進的な反ユダヤ主義者であった彼は、若きミュンヘンの法学徒のハインリヒ・ハイム(Heinrich Heim)<(注9)>に対して、内輪の会話の中で、彼が既に殺人的な諸結論に達していることを打ち明けている。

 (注9)1900〜88年。ミュンヘン大法学部卒の弁護士。後にナチの重鎮のマルティン・ボルマン(Martin Bormann)に仕え、戦時中のヒットラーの雑談を記録し、戦後それを出版する。
https://en.wikipedia.org/wiki/Heinrich_Heim
 ボルマン(1900〜45年)は、「ナチス・・・総統<ヒットラー>の側近・個人秘書を長らく務め、その取り次ぎ役として権力を握った。ルドルフ・ヘスの失脚後は官房長となり、党のナンバー2となった。親衛隊名誉指導者でもあり、親衛隊における最終階級は親衛隊大将。・・・総統地下壕脱出の際に青酸で服毒自殺」。無学歴。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%B3

 著者は、以下のヒットラーの言を引用する1920年8月のハイムからの手紙群をつきとめた。
 「有害な効果を伴うところの、ユダヤ人達が存在している限り、ドイツは恢復することがない。ある人々<(=ドイツ民族)>の存続と非存続に関わるとなれば、視野が狭い[ドイツの]民族的同僚達に制限を加えざるをえないし、いわんや、敵意を持つ危険な外国の部族<(=ユダヤ人)>においておや。」、と。
 このような形で、ヒットラーは、それが何を意味するかはどんどん変わったものの、彼の国の救済をユダヤ人達の「排除(pushing out)」と結び付けるところの、彼の反ユダヤ主義の贖罪的ヴァージョンの予告編を提示していたわけだ。
 彼の諸メッセージがどんどん熱狂的な反応を<人々の間で>見出すに至ると、彼は、「ミュンヘンの王様」になった。
 でもって、1923年には、彼は、練られていない、生煮えのクーデタを試みた。
 その不名誉な失敗の後、彼が『我が闘争』・・その大部分を刑務所の中で書いた自伝で、彼がどのように考え何を計画したのかを明かしたもの・・の中で発展させた見解だが、人々よりも余りに先を行くようなことは二度としない、と心に誓った。・・・」(C)

(続く)

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