太田述正コラム#8308(2016.3.31)
<ナチスの原点(I部)(その5)>(2016.8.1公開)

 「・・・ヒットラーがそれまで全国的には知られていなかったにもかかわらず、ミュンヘン一揆はセンセーショナルな出来事であると受け止められた。
 …余りにも多くの報道人達が詰めかけたため、傍聴用に隣室も開放された。
 一番多い時で、恐らくは50人もの外国人ジャーナリストがいた。…
 [この裁判では、]彼は、一つには、自分の人生を語り、もう一つには、自分の世界観を開陳した。
 そして、彼は、「私は、絶対的にして確信的な(committed)反ユダヤ主義者だ」、と言って話の口火を切ったものだ。・・・
 当初は、彼は、深い、深い鬱に陥った。
 ハンストも行った。
 つまり、彼は基本的に餓死による自殺を試みたのだ。…
 そういう状態が8日ないし9日間続いたのだが、彼は、最終的にそれを止めた。
 <それは、>彼は体調を崩して当局は彼に強制給餌をする寸前のことだった。…
 しかし、そうはならなかった。
 というのも、彼…がハンストを諦めたからだ。
 しかし、それこそ、<彼の、>この尋常ならざる復帰の出発点となったのだ。・・・」(C)

 (4)刑務所

 「・・・ヒットラーの裁判が終わった時、彼は大逆罪で有罪とされたが、その判決内容は勝利に等しかった。
 禁固5年を言い渡されたものの、裁判官は、彼が6か月経ったら仮釈放の対象たりうる、と判示したのだから・・。
 ヒットラーを彼の生地であるオーストリアに強制送還することもできたのだが、そうはされなかった。
 その代わり、活力を授けられたヒットラーは、ランズベルク刑務所に戻り、巨大なる精励と決意でもって『我が闘争(Mein Kampf)』を完成することになる。
 ヒットラーはこの刑務所から、1924年12月20日に出所した。
 よく使われる表現を使えば、その後がどうなったかは、知ってのとおりだ。・・・」(B)

 「・・・刑務所の中で、ヒットラーは自殺する考えを放擲した後、看守達の追従的言動に付け入った。
 彼が、ドイツの脆弱な民主主義を打倒するのに、軍事的な方途ではなく政治的な方途を追求する決意を固めたのはまさにその時だった。
 すなわち、クーデタを繰り返すのではなく、情宣と投票が、彼の諸兵器になったのだ。・・・
 <やがて、米国発の>大恐慌が<ドイツを>襲うと、ヒットラーは、まさに、自分の刑務所の中で行ったところの準備作業のおかげで、それに全面的に付け入ることができる立場に立てたのだ。・・・」(A)

 (5)たられば

 「・・・ヒットラーの場合は、人が歴史を作った。
 しかし、歴史が彼に新たな機会を提供しなかったならば、それは起こらなかったことだろう。・・・」(A)

 「・・・[ミュンヘン一揆の間に、]ヒットラーの隣の男に当たった弾丸が自分に当たっていたらどうなっていただろうか。
 あるいは、この一揆の間に、彼の護衛達が彼を守らなかったらどうなっていただろうか。
 ハンストでもって自殺していたら、或いは、逮捕されようとした時に自殺していたらどうなっていただろうか。
 彼がまともな(serious)裁判を受けてまともな判決を受けていたらどうなっていただろうか。
 法の規定に従って、彼が[オーストリアに]強制送還されていたらどうなっていただろうか。・・・」(C)

3 終わりに

 後出の著者インタビューの冒頭、著者から1923年のドイツの状況の説明がありますが、その部分が、これまでの記述の中では出てこないので、ここで、「ヴァイマル共和政」の日本語ウィキペディアの記述を転載しておきましょう。↓

 「ヴェルサイユ条約の下で定められた高額な戦争賠償金はドイツの支払い能力を超え、支払いは滞りがちになった。しかし、フランスはドイツが意図的に支払いを遅らせており、連合国への反抗だとみなし、石炭やコークス・木材等の物資を接収して賠償にあてるため、1923年1月11日から、ベルギーとともにドイツ屈指の工業地帯であるルール地方の占領を開始した。ドイツ政府はこれ<への>官公吏のフランスへの協力を禁止し、鉱工業従事者にストライキやサボタージュを呼びかける「消極的抵抗」で対抗した。また右派による輸送機関への破壊工作も行われた。消極的抵抗は当初ドイツ国内で熱狂的に支持されたが、ドイツ産業の心臓部であるルール地方の停止は経済に重大な影響を与えた。
 かねてから進行していたインフレは天文学的な規模になり、28%が完全失業者となり、42%が不完全就労状態となった。これにより中産階級は没落し、大企業のコンツェルン化が進んでいった。このため社会不安はますます進んでいった。8月12日にクーノ内閣は倒れ、国家人民党と共産党を除く各党の支持を得たグスタフ・シュトレーゼマンが首相となった。シュトレーゼマンは占領への消極的抵抗を中止し、11月15日にパピエルマルクから国有地を担保としたレンテンマルクへの通貨切り替え(デノミネーション)を行い、インフレの沈静化に成功した。これに一役買ったのが、通貨全権委員のヒャルマル・シャハトであった。
 一方で政情不安は左右の蜂起を招いた。中部ドイツのザクセン州・テューリンゲン州では、共産党員が内閣に入閣、さらに軍事組織を形成して全ドイツへの革命を起こそうとした。これを察知した国防相オットー・ゲスラーは軍の派遣を行ったため両州の政権は崩壊した。この際、共産党は一斉蜂起を計画したが、直前になって中止した。しかし連絡ミスによりハンブルクでは暴動が発生した。。一方バイエルン州ではグスタフ・フォン・カール<(前出)>が州総督となり、反中央政府の姿勢を明らかにした。国家社会主義ドイツ労働者党をはじめとする州の極右派はドイツ闘争連盟を結成し、11月8日に「ベルリン進撃」のためのクーデターミュンヘン一揆を起こした。一揆はバイエルン州の警察によって鎮圧されたが、政府による鎮圧はされなかった。社会民主党は右派に対する姿勢が弱腰であるとして連立を離脱し、11月23日にシュトレーゼマン内閣は崩壊した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%9E%E3%83%AB%E5%85%B1%E5%92%8C%E6%94%BF

 まさに、著者が語っているように、1923年は、第一次世界大戦後のドイツの、アンヌス・ホッリビリス(annus horribilis=ひどい年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%8C%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%9B%E3%83%83%E3%83%AA%E3%83%93%E3%83%AA%E3%82%B9
だったわけです。

 最後に、この本に関連する、解説付きの写真集を紹介しておきます。
 その中で、著者のインタビュー(40分弱)も聴くことができます。↓
http://hitler1924.com/ (写真集)

 このインタビューの中で、筆者が言っていてこれまでの記述に出てこなかったもののうちの一つをご参考までにご紹介しておきましょう。
 第一次世界大戦後、バイエルン州では、裁判(一審制?)は、(うち一人が裁判長であるところの)職業裁判官2人と市民裁判官3人で構成され、多数決で判決が下されるようになり、ヒットラーの裁判では、職業裁判官2人は(5年以上終身刑までの)大逆罪で厳罰を課そうとしたけれど、市民裁判官3人が猛反対をしたので、最低の5年を宣告した上、1年で仮釈放できるという大甘の条件を付けざるをえなかった、というのです。

(I部・完)