太田述正コラム#8280(2016.3.17)
<20世紀欧州内戦(その8)>(2016.7.18公開)

 (5)各論1--20世紀内戦の知識人犠牲者

 「・・・欧州内戦で打ちのめされた(vanquished)者達には、ローザ・ルクセンブルク、アントニオ・グラムシ<(注11)>、ウォルター・ベンヤミン(Walter Benjamin)<(注12)>、レオン・トロツキーのような左翼だけでなく、二つの世界大戦でドイツのために闘った知識人であるエルンスト・ユンガー(Ernst Junger)<(注13)>や影響力ある法理論家でナチ党員であったカール・シュミット(Carl Schmitt)<(注14)(コラム#4015、5884)>といった保守主義者達もいた。・・・」(C)

 (注11)「1921年、イタリア共産党の結成に加わり中央委員会委員に選出され、1922‐23年までイタリア共産党代表としてモスクワに滞在し、コミンテルン執行委員をつとめる。・・・モスクワ滞在時にムッソリーニ政権により逮捕状が出されたために帰国不能となり、スイスに滞在。このころ・・・イタリア共産党書記長となる。翌1924年、下院議員に選出されると、議員の不逮捕特権を利用してイタリアに帰国、既に22年に成立していたムッソリーニ政権との対立姿勢を鮮明に示した。しかし、ムッソリーニの勢いは止まらず、1926年まさに亡命しようとしていた時に寸分違いでファシスト政権に逮捕され、20年4か月の禁錮刑判決を受け・・・1937年4月、釈放直後に脳溢血で死亡。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%8B%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%A0%E3%82%B7 前掲
 (注12)1892〜1940年。「ドイツの文芸批評家、哲学者、思想家、翻訳家、社会批評家。フランクフルト学派の1人に数えられる。ドイツ観念論、ロマン主義、史的唯物論、及びユダヤ教的神秘主義などの諸要素を取り入れ、主に美学と西洋マルクス主義に強い影響を与えた。第二次世界大戦中、ナチスの追っ手から逃亡中ピレネーの山中で服毒自殺を遂げたとされてきたが、近年暗殺説もあらわれ、いまだ真相は不明。・・・
 ベルリンの裕福なユダヤ人家庭に生まれ、・・・」フライブルク大、ベルリン大、ミュンヘン大で学び、ベルン大卒、同大博士。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%B3%E3%83%A4%E3%83%9F%E3%83%B3
 (注13)1895〜1998年。ミュンヘン大卒(動物学・哲学)。「ベルリンを1933年に去り、ハノーファー近くのキルヒホルストに居を構えるが、ナショナル・ボルシェヴィキのエルンスト・ニーキッシュ (Ernst Niekisch)との関係からゲシュタポによる家宅捜索を受ける。ゲシュタポ長官のハインリヒ・ヒムラーはユンガーを逮捕しようとしたが、第一次世界大戦でのユンガーの戦争体験を評価したアドルフ・ヒトラーが制止した。しかし、1938年以降、彼は執筆活動を禁止され、その直前に書かれた『大理石の断崖の上で』では、象徴的な手法でヒトラーによるファシズムの時代の状況を描き出していると評されている。友人たちからは国外に亡命するよう勧められたが、ユンガーはドイツに留まった。
 第二次世界大戦には大尉として召集され、友人であるハンス・シュパイデル大佐の配慮でフランス語能力を買われパリのドイツ軍司令部で私信検閲の任につき、パリ在住のフランスの知識人、作家、思想家たちと深く交流し、パリは彼の「第二の故郷」となる。戦争後期は自費出版として『平和』(Der Friede, 1943) を著し、エルヴィン・ロンメル元帥やフォン・シュテュルプナーゲル将軍をはじめ西部戦線の反ナチ派のドイツ陸軍士官に広範な影響を及ぼす。1944年7月20日のヒトラー暗殺計画と将校反乱に関係があったとされ、軍を解任され、住んでいたキルヒホルストに戻る。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%A6%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%BC
 (注14)「優柔不断な政治的ロマン主義者が最終的に権威に屈従していく過程を観つつ、思想的状況に「決断」を下す独裁者を要請<するという>・・・独自の法学思想・・・に依拠して、第一次大戦後のワイマール政権下、議会制民主主義、自由主義を批判した。また、ナチスが政権を獲得した1933年からナチスに協力し、ナチスの法学理論を支えることになる。しかし、ナチス政権成立前に、著書『合法性と正統性』において、共産主義者と国家社会主義者を内部の敵として批判したことや、ユダヤ人のフーゴー・プロイスを称賛したことが原因で、1936年に失脚する。第二次世界大戦後に逮捕され、ニュルンベルク裁判で尋問を受けたが、不起訴となる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%9F%E3%83%83%E3%83%88

⇒トラヴェルソが知識人犠牲者の中であげているのが、「左翼」と「保守主義者」であって、「右翼」が登場しないことに首を捻ったむきもあるでしょうね。
 「右翼」には知識人の名に値するような者はいなかったからだと思いますか?
 いや、そうではなく、衆目一致する、「右翼」の知識人たるハイデッガーは「欧州内戦で打ちのめされ」たところの「犠牲者」にならなかったからです。
 下掲のハイデッガーの戦間期の事績に目を通してください。↓

 「1929年にはハイデッガーの反ユダヤ主義的傾向はよく知られていた。・・・
 1933年4月21日、ハイデッガーはフライブルク大学総長に選出され・・・5月1日のメーデーを改称した「国民的労働の日」をもって、・・・ナチス党に入党した。・・・
 ハイデッガーの講義を受けたこともあった日本の哲学者田辺元<は、>ハイデッガーのナチス入党と「ドイツ大学の自己主張」について1934年「危機の哲学か 哲学の危機か」で批判した。田辺元は「単に存在の不可測性、それに対する知識の無力の自覚、という如き原理だけで、積極的に民族国家の形而上学的基礎を確立し、学問も国家奉仕の所謂知識勤務を以て本質とすべき所以を明にし得るか、という如き疑問は必然に起こり来らざるをえない」とし、ハイデッガーの師であるプラトンはその師ソクラテスが死刑になったことを源泉とした「危機の哲学」であるが、理性を参与させることなく単に運命的なる存在に従属しようとするハイデッガーは「哲学の危機」であると批判した。・・・
 1942年夏学期、「ヘルダーリンの讃歌『イスター』」・・・の講義では「アメリカ主義のアングロサクソン世界は、ヨーロッパ、故郷、西欧的なものの元初を殲滅しようと決意している」と述べた。・・・1943年の講演「ニーチェの言葉:神は死んだ」<では、>・・・「ニーチェが念頭に置いている公平性の了解を準備するためには、われわれはキリスト教的、ヒューマニズム的、啓蒙主義的、ブルジョワ的、社会主義的モラルに由来する、公正性にかんする考えはすべて排除しなければならない」と語った。・・・
 1944年の戦争末期、軍務を免除された500人の学者と芸術家のなかにハイデッガーは入っておらず、大学総長は大学教官を不用、半ば不用、不可欠の3グループに分け、ハイデッガーは「不用」グループの筆頭にされ、夏にはライン川保塁工事を命じられた。ハイデッガーは国民突撃隊に招集された大学教官のなかで最年長であった。1944年-45年の冬学期にフライブルク大学で「哲学入門―思索と詩作」を講義したが、11月8日で招集<された。>・・・
 ハイデッガーは1945年11月から12月にかけてフランス占領当局によってフライブルク大学において非ナチ化を行う純化委員会の査問を受けた<が、大部分の>・・・委員はハイデッガーがナチの内的な敵となっていたことから好意的だった。委員会は・・・、ハイデッガーは1934年以降ナチではなくなっていたと寛大な判定を下した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%87%E3%83%83%E3%82%AC%E3%83%BC

 つまり、ナチスに心酔し、すり寄ったハイデッガーを使いこなすだけの能力のある者がナチス指導層中に存在しなかったために、彼は、「ナチの内的な敵と」され、そのおかげで、ハイデッガーは、僥倖にも、戦後、「犠牲者」になることを免れた、というわけです。
 この、いわば、ナチスの最高のイデオローグの思想に対し、京都学派の田辺元が真っ向から批判したことを我々は銘記すべきでしょう。
 それぞれの思想に殆ど通じていない私ですが、想像するに、人間主義者の田辺がハイデッガーの非人間主義性に嫌悪感を抱いた、ということではないでしょうか。
 先の大戦を、ナチスドイツは、およそ、ハイデッガーのレベルにすら達していないところの、無思想に等しいところの、非人間主義的な思想もどきを掲げて戦い、日本は、京都学派がほぼ思想化したところの、人間主義を掲げて戦ったのです。
 単なる敵の敵であったとはいえ、日本は、まことに悍ましい国と手を携えて先の大戦を戦ったものです。

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[参考:ハイデッガー余談]

 「1930年ブレーメンでの「真理の本質について」講演後の討論で「ひとは他者の身になってみることができるか」という問いについて荘子秋水篇第17の「魚の喜び」説話<(注15)>を読んで聞かせ、「自己移入」から出発しては「共存在Mitsein」は理解できないということを示そうとした。」

 (注15)「、『荘子』の荘子外篇第17秋水篇は、「濠梁(ごうりょう)問答」ともいわれる荘子と恵子(恵施ともいう)の問答で、次のような話です。
 荘子が恵子(けいし)と濠水をわたる飛び石の上で遊んだことがある。そのとき荘子は流れに浮かぶ魚を見ていった。
「はやがゆうゆうと泳ぎまわっているが、あれが魚の楽しみというものだよ」
 すると、すかさず恵子がいった。
「君は魚でもないのに、どうして魚が楽しんでいるのがわかるのかね」
 荘子は答えた。
「君は私ではないのだから、私が魚の楽しみを知っているかどうか、わかるはずはあるまい」
 だが恵子も負けていない。
「なるほど私は君ではないのだから、むろん君の心はわからないよ。だが同様に、君も魚ではないのだから、君に魚の楽しみがわからないことも確実だよ」
 すると、荘子は答えた。
「では、はじめから順序を追ってみよう。最初に君が、『君にどうして魚の楽しみがわかるのかね』といったのは、そのときすでに君は私の心を察して、私の心が魚の楽しみを知っているかどうかを知っていて、私に問いかけてきたわけだ。とするならば、魚でない私が、魚の心を察したとしても不思議ではあるまい。私は濠水の上に立ったままで、魚の心がわかったのだよ」 
(『老子・荘子』森三樹三郎著 講談社学術文庫p231〜p232)

 という問答で、・・・「他人の心を察する」ことを「濠上にしる」というのだそうですが、その語源になっている話だそうです。
 この問答は、荘子と恵子の友人同士の論理の展開です。万物斉同の無差別を強調する荘子と対立差別を強調する論理学派の恵子の論争ということになりますが、決して敵対関係にある二人ではないそうです(下記弁蜂屋邦夫先生)。
 この話のことの発端は恵子の『君にどうして魚の楽しみがわかるのかね』ですが、元の訓読は、「子(し・君)は魚に非ず。安(いずく)んぞ魚の楽しみを知らんや」で、この中の「安んぞ」という言葉には「どうして」という理由と「どこで」という場所の両方の疑問の意味が含まれています。
 このことについて、東京大学名誉教授の蜂屋邦夫先生は、・・・恵子はむろん「どうして」の意味で言ったのですが、荘子はそれを「どこで」の意味にずらして答えたのです。荘子にはぐらかされて恵子が苦笑している様子が、手に取るように想像できる話。・・・と説いています(ラジオNHK宗教の時間テキスト『老子と孟子をよむ・下』p14)。」
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/578e98566d72cbce027c92685d0384b8

 このくだりは、ハイデッガーの非人間主義性を示す挿話だと思う一方で、そもそも、荘子がハイデッガーの受け止めたようなことを言っていただろうか、と、大昔に『荘子』関係の本を何冊も愛読したことがある私として、疑問を抱いたので調べてみたところ、上掲の注15に遭遇した。
 その中の記述から明らかなように、荘子は、深刻な命題を提示しつつも、最後のところで、言葉遊びで逃げてしまって、解答は示していないわけだ。
 恐らくは、ハイデッガーは、誤訳に近い、『荘子』の独語訳を読んで、荘子の言を誤解し、我が意を得たり、と、自らの非人間性を暴露してしまったのだろう。
 教訓としては、何度か指摘してきたことだが、原文ならぬ、邦訳でハイデッガー等のドイツの哲学者や思想家の著作を我々が読むことなど、絶対に止めておいた方がいい、ということだ。
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(続く)