太田述正コラム#8270(2016.3.12)
<20世紀欧州内戦(その4)>(2016.7.13公開)

 トラヴェルソは、ファシズムと共産主義反ファシスト左翼との同等視を措定する「ポスト全体主義的智慧」を強く拒否する。

⇒このようなトラヴェルソの主張は「強く拒否」されなければなりません。
 ロシアが援用したスターリン主義にせよ、ドイツやイタリアが援用したファシズムにせよ、自国の国益を、暴力的に維持増進させるために採用したところの、キリスト教の変形物たる民主主義独裁のイデオロギーであったことに何の違いもありません。
 むしろ、ファシズムの方が、自国の国益の維持増進をタテマエ上も掲げていたという点で、タテマエ上はそれを否定していたスターリン主義よりも偽善的でないと言うべきでしょう。
 それが証拠に、ロシアもドイツ/イタリアも、どちらも侵略的でしたし、どちらも国内での体制の敵と目された勢力の隔離ないし除去ないし絶滅を期したところです。
 いちいち数字はあげませんが、前者よりも後者の方が、侵略によって他国民を殺害した数が多い一方で、国内での体制の敵と目された勢力の絶滅数は少ない、という大数的な重点の置きどころの違いこそあれ、総体的な殺人性向に基本的な違いはありませんでした。(太田)

 この考え方においては、「人道主義」だけが正当な傾倒なのだが、それは、トラヴェルソの見立てでは、ドイツの実業家でナチ党員でもあったオスカー・シンドラー(Oskar Schindler)<(注7)>を、共産党と繋がった運動の中でナチズムと闘ったところの、フランスへの移民者達・・ユダヤ人達やアルメニア人達、イタリア人達やスペイン人達・・よりも、自分のユダヤ人被雇用者達を救ったからと高く評価することへと導いてしまう、と。・・・

 (注7)1908〜74年。「メーレン(当時オーストリア領、現チェコ領)生まれのズデーテン・ドイツ人の実業家。第二次世界大戦中、ドイツにより強制収容所に収容されていたユダヤ人のうち、自身の工場で雇用していた1,200人を虐殺から救った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%BC

⇒話の本筋からははずれますが、虞犯少年に近く、学歴もなく、また、積極的にナチ党員となり、かつ、金儲けに意地汚く執着し、更には、妻を蔑ろにして愛人との間に2人の子をなした、悪漢シンドラーが、次第にユダヤ人救済にのめり込み、ついには「聖人」へと昇華して行った半生(上掲)は、妻が、晩年の10数年間、別の愛人とつるんで会ってもくれなかったシンドラーに生涯愛情を捧げたこととも相まって、実に感動的です。(太田)

 トラヴェルソは、反ファシズムを、それをスターリニズムと同化させる保守主義者の諸試みから奪還(reclaim)する。
 反ファシズムは、蠱惑的イデオロギーやプロパガンダ・キャンペーン勢力によるものではなく、ムッソリーニ、ヒットラー、及び、フランコ(Franco)の諸独裁と闘っていた人々の「集団的エートス」によるものだった、と彼は述べる。

⇒ロシア側のイデオロギーの偽善性が、その謀略的威力を高めていたことから、非スターリン主義者もいたところの「共産主義者」、及び、非スターリン主義者であったところの「キリスト教徒、リベラル、共和主義者」ら(下出)、が、それぞれ、目を晦まされてしまった、というだけのことです。(太田)

 更に、反ファシズムは、共産主義者達の専売特許であったことは一度たりともなかったのであって、実際には、<ソ連>共産主義がファシズムと戦闘するために人民戦線戦略を採用したのは、ヒットラーの勃興に衝撃を受けた左翼達と知識人達の間で「既に始まっていたところの転換に適応しようとしただけのことだった」、と。
 反ファシズムは、「マルクス主義者、キリスト教徒、リベラル、共和主義者」といった多くの諸潮流を持っており、その全諸構成要素は、啓蒙主義を自分達の世襲財産であると主張した、とトラヴェルソは述べる。
 反ファシズムは、「権威、階統制、人種の反動的諸価値に対して、平等、民主、自由、そして市民性を対置させた」、と。
 この、共有されたエートスが、多様な運動の種々の諸成分(strands)を結び付けた、と。・・・
 彼は、第一次世界大戦によって「消耗させられ震撼させられた」ところの、リベラリズムとその諸制度は、ファシズムと闘う能力がなかった、と指摘する。
 それだけではなく、実のところ、ファシズムへと導いたのは、リベラリズムの崩壊だったのであり、更に言えば、ウィンストン・チャーチルのようなリベラルな民主主義諸国の指導者達は、ファシズムをヴォルシェヴィズムへの砦として歓迎したのだった、と。・・・

(続く)