太田述正コラム#8246(2016.2.29)
<無神論の起源(その11)>(2016.7.1公開)

3 終わりに代えて

 (1)総論

 古典ギリシャ文明は、(ずっと以前にも指摘したように、)その美術を通じて仏教に仏像を与え、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%AF%E6%9C%9D
そのおかげで、仏教は東漸したと言ってよいでしょうし、アレクサンドロス大王の遠征や、その後のインド・グリーク朝(BC2世紀頃=AD1世紀頃)という形で(北)インド政治史にインパクトを与えた(上掲)、という経緯があります。
 他方、(プロト欧州文明を含む)欧州文明は、ギリシャ文明とユダヤ文化(≒キリスト教文化)に大きな影響を受けており、アングロサクソン文明もかなりの影響をこの文明と文化から受けています。(コラム#省略)
 以上を踏まえ、私が言いたいことが二つあります。
 一つ目は、何度か指摘したことですが、著者のように、古典ギリシャ史を、欧米史(西側史)の一環ないしその前史と見てはいけない、ということです。
 二つ目は、少なくとも、著者は、古典ギリシャ史だけを渉猟するのではなく、古代ユダヤ史(や欧州文明同様、ユダヤ文化に大きな影響を受けているところのイスラム文明の歴史)もまた渉猟すべきだった、ということです。
 その上で、私としては、著者は、少なくとも、古代ユダヤ史において無神論的なものがなかったのか、なかったとすれば、それはどうしてなのか、を追求すべきでしたし、できうれば、それ以外の(イスラム文明を始めとする)主要諸文明の歴史に関し、同様の追求を行うべきだった、と思うのです。
 そこで、著者に代わって、大急ぎで、私自身が、それ以外の主要文明中、支那文明と日本文明について、かかる追求を試みてみました。

 (2)支那文明

 孔子(BC552〜479年)の言葉を収録しているとされる論語に下掲の一節があることはよく知られています。
 「子曰く、・・・鬼神を敬して之を遠ざく。知と謂ふ可(べ)し・・・。」
http://www2.odn.ne.jp/kotowaza/BBS/RONGO-4ji-igai/59-kisinwo-keisite.htm
http://ir.iwate-u.ac.jp/dspace/bitstream/10140/1548/1/erar-v52n3p34-42.pdf
 しかし、この一節の意味について、定説は存在しません。
 諸説中、無神論に最も接近した解釈を採ったのが、後世の朱子(1130〜1200)です。
 すなわち、「朱子は、気(現代でいえば、原子のようなもの)の集まりが「生」と捉え、気の離散が「死」と解釈した上で、気の離合集散によって魂魄の現象を合理的に説明しようとした・・・。結果、霊性を否定しかねない矛盾した論考(一度、離散した気=魂魄は二度と戻らない=死と主張したために、祭祀による招魂儀礼を行うことに矛盾が生じた)に至ってしま<った。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E7%A5%9E%E8%AB%96#.E6.97.A5.E6.9C.AC.E8.BF.91.E4.B8.96.E6.9C.9F.E3.81.AB.E3.81.8A.E3.81.91.E3.82.8B.E7.84.A1.E9.AC.BC.E8.AB.96
 どうやら、朱子についてさえ、明確に無神論的であったとさえ言えそうもありません。
 支那文明においては、無神論的な思想の萌芽しか存在しなかった、という感があります。

 (3)日本文明。

 この朱子のおかげで、日本にも、江戸時代になって、ようやく、以下のような、無神論的な発想が出現しました。

 「林羅山といった儒学者に鬼神(魂魄)の有無について半信半疑な立場を取らせ、江戸期日本の朱子学者を「無鬼論者」(伊藤仁斎<(1627〜1705年)>)と「有鬼論者」(荻生徂徠<(1666〜1728年))に二分させた。」(上掲)

 どうやら、日本文明においては、内生的には、無神論的な思想の萌芽すら存在しなかった、と言えそうです。

 (4)終わりに代えて

 注目すべきは、富永仲基(1715〜46年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E6%B0%B8%E4%BB%B2%E5%9F%BA
の(広義の)宗教論です。

 「翁の文(おきなのふみ)は、富永仲基の・・・1746年・・・に刊行された著書。儒教・仏教・神道を唱えて争う当代の学者を否定し、各国はそれぞれの国情に応じた教えを奉じるべきだとする。日本においては「誠の道」を道とすべきだとする」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BF%81%E3%81%AE%E6%96%87
 「・・・彼は「国に俗あり、道之が為めに異なり」(『出定後語』)として、地域や文化の違いが思想形成に与える影響を重要視する。『インド人は「幻」(幻術性・神秘性)、<支那>人は「文」(文飾性・誇張性)、日本人は「絞」(直情性・切迫性)というそれぞれの国民的特性をもっている』(<源了圓著「徳川思想小史 (中公新書 (312))」>P133)と考え、比較文化論的な視点からも、伝統的思想の相対化と分析を行った。
 「翁の文」では仏教、儒教、神道をこれらの観点からばっさりと批判する。(<島薗進著「宗教学の名著30 (ちくま新書)>P47-49)
 「僧侶のやることはすべてインドにならったものである。自分の身を収め、また人を教化するのだが、とくに梵語をつかって説法などをするものだから、だれもこれを会得したためしがない。」
 「日本の儒者は、すべてなにごとも中国の風俗に似せようとして、わが国ではとても通用しないことばかりを行っている。」
 「今の神道は、すべて昔のことを手本として、あやしげな、異様なことばかりしている。」
 「今は、もはや末の世であって、偽や盗をするものが多いのに、神道を教えるものが、かえってその悪いところを擁護するようなことは、はなはだ道理にもとることだといわねばならない。」
 これら伝統的思想・宗教のいずれもが最早現実に即していないことを指摘し、その枠組みを超えた普遍的な「あたりまえの理」によって合意される「誠の道」を彼は展望する。
 『今の習慣に従い、今の掟を守り、今の人と交際し、いろいろな悪いことをせず、いろいろとよいことを実践するのを誠の道ともいい、それはまた、今の世の日本で実践されるべき道だともいえる。』(島薗P49)・・・
 死後、一度は忘れ去られたが、やがて本居宣長が彼の「出定後語」を読み「玉勝間」で絶賛したことで復刊され、それを目にした様々な研究者や思想家たちに多大な影響を与えることになった。平田篤胤は排仏の立場からこの本を支持し、その思想の平易化に努めたという。また、明治を代表する史学者内藤湖南は江戸期の思想家の第一に彼の名を挙げて大天才と絶賛し<た。>」
http://kousyou.cc/archives/4086

 上掲を、私の言葉で要約すれば、富永は、俗(文明)ごとに、また、特定の俗(文明)においても、時代によって、道(世界観/倫理観)は異なるが、俗(文明)や時代を超えた、普遍的な道(世界観/倫理観)があるのではないか、という問題提起をした、というわけです。
 この富永に著者と同じ知識を与えたならば、彼は、著者とは違って、無神論なるものは、唯一神論、就中アブラハム系宗教に係る特殊な宗派であって、基本的に欧州文明だけに存在するものである、という結論に達したことでしょう。
 (イスラム文明では無神論者は無条件で殺害されるので存在できず、アングロサクソン文明では同文明が自然宗教的であることから有神論にせよ無神論にせよ演繹論的ドグマは嫌われたことから殆ど存在しなかった、という結論にも・・。)
 さしずめ、「(7)批判」のところで引用した書評子は、富永より300年近く遅れてですが、富永に近い発想ができた人物である、ということになりそうです。
 なお、富永が、31歳の若さで亡くなることがなければ、誠の道は人間主義なり、と普遍的な道を発見するに至っていた可能性が大いにある、と私は思います。

(完)