太田述正コラム#8244(2016.2.28)
<無神論の起源(その10)>(2016.6.30公開)

 (6)結論

「・・・著者は、無神論それ自体の真実性ないし誤りについての<自分自身の>スタンスを明らかにしていないが、序文の中で、この本に係る調査と執筆を通じて、自身の強い確信がより強固なものになった、と謳っている。
 すなわち、宗教的多元性(pluralism)と自由な論議(debate)が良い生活のためには不可欠である、という確信が・・。」(A)

⇒更に一歩を踏み込み、宣教活動の禁止、ないし、(理神論的なものは別として、)唯一神教、より端的にはアブラハム系宗教の廃棄、こそが人類全体の良い生活のためには不可欠なのであり、恐らく著者もそう考えているはずだと思うのですが・・。(太田)

 「・・・神政国家の深淵へと滑り戻りつつあるように時にして見える世界・・米国の南部の子供達は、米国の憲法はモーゼ(Moses)に神が与えた諸法に立脚していると教えられているし、急進的イスラム教諸集団は自分達の信仰の名において日常的な残虐諸行為を行っている・・の中において、著者の、より大きな視点はもっともだ。

⇒決して驚きはしませんが、米国の南部のこの話は初めて耳にします。
 典拠を示して欲しかったところです。(太田)

 すなわち、この彼の本は、無神論は、それが常に無視しようとしているところの、幻想的な諸カルト同様、全くもって尊ぶべきものであることを、はっきり示している。・・・」(C)

 「・・・確かに、ソクラテスは、アテナイで、「<同>市の神々を認めない」として処刑された。
 しかし、それは、異なった宗教を持っていたからというより、選良に集中していた既存権力を揺るがそうとしたためだった。
 「古代の無神論者達は、人々が今日なお問題提起しているところの基本的諸事項・・例えば、悪の問題にどう対処するか、信じ難いように思われるところの、宗教の諸側面をどう説明するのか・・と格闘した。」と著者は記している。・・・
 今日においては、我々は、なお、圧倒的に宗教的な社会に住んでいる。
 時の経過とともに、米国人達は、より宗教的でなくなってきたけれど、わずか3%ぽっちの者しか無神論者達である、と自らをみなしていないし、3%が<神>不可知論者だと主張している<にとどまる>。
 世論調査に気を付けなければいけないのは、自分を無神論者であるとみなす個々人はその伝統的な諸定義よりも、諸信仰と、より関わっているのが通常だからだが、<いずれにせよ、>世界中で約13%の人々が、何らかの、より高次の力が存在していることを信じていない、と推定されている。・・・」(F)

⇒「何らかの、より高次の力が存在していることを信じていない」となると、理神論者はもちろん、日本人の大部分であるところの人間主義者の大部分もまたこの中に入らないでしょうね。
 そんなものが無神論だとすれば、(以前にもそのような趣旨のことを言ったことがありますが、)それは一種の宗教である、と言って語弊があれば、一種の宗教的ドグマである、と言わざるをえません。(太田)

 (7)批判

 「・・・著者の論述に欠点があるとすれば、それは、彼が、雑駁に(brusquely)、不可知論(agnosticism)や哲学的懐疑(doubt)を無神論的仮説として一括りしていることだ。
 ギリシャとローマには、信仰の社会的意味(social point)を認める(see)ことができるけれど、ドグマ(dogma)の効用を認めない(had no use for)、思慮深い思想家達を大勢有していた。
 何名もの流暢な証人達がこの陣営にいた。
 大プリニウス(Pliny the Elder)<(注29)(コラム#3740)>が記したように、「神はもう一人の人間(mortal)を助けてくれる人間(mortal)」なのだ。・・・」(D)

 (注29)ガイウス・プリニウス・セクンドゥス(Gaius Plinius Secundus。22/23〜79年)。「古代ローマの博物学者、政治家、軍人。ローマ帝国の海外領土総督を歴任する傍ら、・・・全部で102にもおよぶ<著作を残した>・・・が、現存するのは77年に完成した『博物誌』のみである。・・・夜明け前から仕事をはじめ、勉強している時間以外はすべて無駄な時間と考え、読書をやめるのは浴槽に入っている時間だけだった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%82%A4%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%AA%E3%83%8B%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%BB%E3%82%AF%E3%83%B3%E3%83%89%E3%82%A5%E3%82%B9

⇒大プリニウスもこの書評子も、古典ギリシャと古代ローマの神々は、ドグマとは無縁で、どちらかと言えば人間に優しい存在であった、という認識であったようであり、神道によく似ていますね。
 この書評子が指摘するように、確かに、不可知論者や哲学的懐疑論者が、習俗としてのこれらの神々を「信じて」いた可能性は大いにありそうです。(太田)

(続く)