太田述正コラム#8242(2016.2.27)
<無神論の起源(その9)>(2016.6.13公開)

 (5)終わり

 「それに一般に寛容であった多神教的諸社会が、唯一の「真なる」神の受容を要求したところの、一神教的な帝国的諸勢力によって置き換えられたために、古代の無神論の時代は終わった、と著者は示唆している。
 4世紀におけるローマのキリスト教の採用は、宗教的絶対主義を帝国を結束させるために用いた「震撼的な出来事だった」、と彼は言う。
 それ以降のローマ帝国のイデオロギー的エネルギーは、しばしばキリスト教の他の諸形態であったところの、異端的諸信仰とされたものとの戦いに費消された。
 380年の布令<(注27)>の中で、皇帝テオドシウス(Theodosius)<(注28)(コラム#413、2486、3475、4009、6477)>は、カトリック教徒、と、彼が発狂した精神異常者(dementes vesanosque=demented lunatics)の範疇に入れたところの、それ以外の全員、の間に線を引くことさえした。

 (注27)「380年2月に・・・〈東ローマ帝国の〉テオドシウスと〈西ローマ帝国の正帝〉グラティアヌス〈Gratian〉、〈副帝〉ウァレンティアヌス〈Valentinian II〉〈兄弟、〉の3人の東西ローマ皇帝は、「使徒ペトロ《Apostle Peter》がローマ人にもたらし、ローマ教皇ダマスス1世《Pontiff Damasus》とアレクサンドリア総主教ペトロス2世《Peter, Bishop of Alexandria》が支持する三位一体性《Trinity》を信仰すべきであり、三位一体性を信仰しない者は、異端と認定し罰する。」という「テッサロニキ勅令〈Edict of Thessalonica 〉」を発した。当時のローマ教皇とアレクサンドリア総主教は三位一体派であったため、この勅令が三位一体派の保護と非三位一体派の排斥が目的であることがよくわかる。事実、・・・三位一体性を認めない・・・アリウス派《Arianism》だけではなく、・・・小さな教派も弾圧され・・・た。」
https://en.wikipedia.org/wiki/Theodosius_I (<>内)
https://en.wikipedia.org/wiki/Edict_of_Thessalonica (《》内)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%AA%E3%83%89%E3%82%B7%E3%82%A6%E3%82%B91%E4%B8%96 (それ以外)
 (注28)テオドシウス1世(フラウィウス・テオドシウス=Flavius Theodosius。347〜 395年。東ローマ帝国皇帝:379〜395年。東西ローマ帝国皇帝:194〜395年)。「わずか1年間ではあったが、東西に分裂していたローマ帝国を統一し、一人で支配した最後の皇帝となった。死後にローマ帝国は再び東西に分けられ、永久に統一されることはなかった。392年にキリスト教を東ローマ帝国の国教に定め、のちに西ローマ帝国および統一ローマにおいても同じくした。」(上掲)

 この諸決定(rulings)は<、ローマ帝国内において、>非信仰の余地をなくしてしまったのだった。・・・」(E)

⇒「テオドシウスは379年の冬に大病を患っていたときに三位一体派のテサロニケ主教(司教)・・・から洗礼を受けた」(上掲)というのですから、テッサロニキ勅令を共同発出する直前まで、彼はキリスト教徒ですらなかったわけであり、その改宗理由も、単に、健康回復という現世利益を求めてのものであったわけです。
 そんな疑問符付きのキリスト教徒たるテオドシウスの尻を叩いて最終的にキリスト教をローマ国教化させてしまったのはミラノ司教のアンブロジウス(Ambrosius。340?〜397年。司教:374〜397年)だったのです(上掲)が、このアンブロジウス自身、もともとキリスト教徒ではなかったところ、当時、西ローマ帝国の中心都市であったミラノの市民達が、たまたま同市の首席執政官をしていた彼に、374年、前司教死去に伴って司教就任を強要したのに対し、それを固辞し逃げ回った挙句、やむなくキリスト教について詰め込み勉強をして、同年中に司教に就任した、という経緯があります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%96%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%82%A6%E3%82%B9
 つまり、ローマ領内でキリスト教徒がどんどん増えて行ったという背景はあったにせよ、いわば、偶然が積み重なって、キリスト教がローマ帝国の国教になってしまった、という趣があるのです。
 テオドシウスのほんの少し前の皇帝であった、ユリアヌス(Julian。331/332〜363年。皇帝:361〜363年)(コラム#413、3483、4009)は、キリスト教の棄教者であり、皇帝就任後、以下のような宗教政策をとりました。
 「キリスト教への優遇政策を廃止<するとともに、>・・・「異端」とされた者たちに恩赦を与え、キリスト教内部の対立を喚起した。・・・<そして、>弾圧などの暴力的手段に訴えることなく、巧妙に宗教界の抗争を誘導した。異教祭儀の整備を進めたのも、ユダヤ教のエルサレム神殿の再建許可を出したのもそのためであった。・・・その意図は教育行政に対してもよく現われている。362年6月に布告した勅令で、教師が自らの信じていないものを教えることを禁じた。これはキリスト教徒が教師となること自体は禁じていなかったが、実質的にキリスト教徒は異教のものである古典文学を教授することができなくなった。こうして・・・ギリシアの伝統ある文化・文明の「異教徒」による独占状態を作り出した。次世代の知識人層を「異教徒」で埋め尽くし、そこからのキリスト教徒の排除を図ったのである。ユリアヌスは表面的には宗教的な差別は行わなかったが、その内心では明らかにキリスト教勢力を打倒しようとしていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%A6%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%8C%E3%82%B9
 このユリアヌスがペルシア遠征中に戦死したために、その治世が余りにも短く終わってしまい、彼がローマ帝国最後の異教徒たる皇帝になってしまった(上掲)ことが残念でなりません。
 仮に、ユリアヌスが長生きして、ローマに宗教の自由が確立していたならば、ゲルマン人の浸透によって、西ローマは亡びたでしょうが、カトリック教会は有力な宗派の一つにとどまり、ゲルマン人はキリスト教化せず、また、同様、亡びなかったであろう東ローマからロシア等に正教が根付くこともなかった、いや、少なくとも、そういう可能性はあった、と思いたいところです。(太田)
 
(続く)