太田述正コラム#8224(2016.2.18)
<人間は進歩した?>(2016.6.4公開)

1 始めに

 昨日のディスカッションで予告したところの、広義の人間主義に係るコラム、
http://opinionator.blogs.nytimes.com/2016/02/15/is-humanity-getting-better/?ref=opinion&_r=0
のさわりをご紹介し、私のコメントを付します。

2 人間は進歩した?

 (1)すわりの悪い序

 後に出てくるメインの話への繋がり具合が余り良くない、長ーい出だしの部分ですが、面白いのでご紹介しておきましょう。

 「1665年のロンドン。
 この首都は、14世紀の黒い死(Black Death)以来のペストの最後のひどい流行<(注1)>によって死の匂いが満ちていた。・・・

 (注1)「およそ7万人が亡くなった。後にダニエル・デフォーは『疫病の年』(A Journal of the Plague Year、1722年)で当時の状況を克明に描いている。・・・ニュートンは故郷に疎開している間、・・・雑事から解放され思索に充てる時間が増えたことで、微積分法の証明や距離の逆2乗の法則の導出など重要な成果を残した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%82%B9%E3%83%88

 死が累積し、街々がゴミで埋まるにつれ、ロンドンっ子達は、市のあらゆる場所に犬達と猫達がいることに気付いた。
 そこで、市長から、犬達と猫達を殺せ、という命令が発せられた。
 ロンドン市の収入役(Chamberlain of the City)によれば、雇われた狩人達が2000匹超の動物達を殺戮した。
 しかし、犬達と猫達はゴミを餌にしていた鼠達を追っかけており、鼠達はペストを媒介した蚤群を運んでいた。 
 もう連中を餌食にする者達がいなくなったので、鼠達は、この難儀<をもたらした犯人>を一層激しくまき散らした。
 ロンドンの王立内科医協会(London’s College of Physicians)<(注2)>の助言は、雌鶏を死ぬまで<ペストで出来た>腫れ物に押し付けよ、というものであり、この伝染病への蔓延を遅滞させることはなかった。
 最終的に、この1665年のペスト禍は、ロンドンの人口の殆ど20%・・今日に置き換えれば100万人に相当・・を殺したと考えられている。

 (注2)Royal College of Physicians=Royal College of Physicians of London。1518年創立。内科医資格を認定する。
https://en.wikipedia.org/wiki/Royal_College_of_Physicians

 それから、大火<(注3)>が起こり、市の3分の1が灰燼に帰した。

 (注3)The Great Fire of London。「1666年にロンドンで起こった大火・・・。・・・
 9月1日、パン屋のかまどから燃え広がった火は4日間にわたって燃え続け、ロンドン市内の家屋のおよそ85%(1万3200戸)が焼失した。意外にも死者は少なく、記録されているのは5名だった・・・
 これによって中世都市ロンドンは焼失し、木造建築の禁止などからなる建築規制やセント・ポール大聖堂をはじめとする教会堂の復興が行われた。・・・
 当時ロンドンでペストが流行していたが、この大火によって多くの菌が死滅し、感染者低減の一因になったとする説もある。
 さらに世界初の火災保険もロンドンで生まれることになった(1681年)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%B3%E5%A4%A7%E7%81%AB

 多くの人間達と動物達が、この危機の中で、無知が原因でもって死んだ。
 今では、我々はペスト菌を理解しており、我々はどんな諸手順と薬が伝染病を蔓延させないようにするかを知っている。
 もはや、無知は我々の間には蔓延していない、と言えるのかもしれない。・・・

⇒同時代の江戸では、伝染病の大流行は(日本がイギリスよりも大陸から離れた、しかも、完全な島国であったことや、鎖国、更には、より優れた衛生環境のおかげで、と言いたいところですが、)なかったものの、1657年に明暦の大火が起こっており、3万7000余人〜10万2100余人と推定される焼死者が出ています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3
 当時の江戸の人口は、町方だけで30万人弱という推定があり、また、武士人口は概ね町方人口と同等であったと考える説が有力であることから、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3
総人口は60万人弱、であったとすると、ロンドン人口18万人弱(7万X5/2)に比して、いかに江戸が大都会であったかが分かろうというものです。
 ですから、同時代のロンドンでの大災厄ほどのものは、人口比的には江戸では起こっていない、と言っていいでしょう。
 なお、日本で、1687年から「生類憐み」政策がとられた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E9%A1%9E%E6%86%90%E3%82%8C%E3%81%BF%E3%81%AE%E4%BB%A4
ことに鑑みれば、その少し前の時点でロンドンと同様の疫病が江戸で流行したとしても、ロンドンにおけるように、犬や猫が大量処分されることなどは、まずなかったでしょうね。(太田)

 (2)本論

 20世紀の前半では、世界戦争で何千万人もが殺され、全ての大陸が廃墟と化した。
 同じ世紀の後半では、冷戦時代の間、代理戦争で何百万人が殺され、また、世界は人類を壊滅させうる核戦争の勃発を恐れた。
 21世紀初頭である現在では、イラクでのような、最悪の諸戦争で何十万人が殺された。
 また、我々は、テロリストによる諸攻撃が都市全体を破壊することを恐れているけれど、地球上の全<人間>生活が破壊されることまでは恐れていない。
 死者数は依然大きく、諸戦争の諸影響は、それらに巻き込まれた者達にとっては大災厄的だが、全般的には、戦争は劇的に減ってきた。
 一般住民達の大量殺害を実行する諸国家の割合も、1945年以降、大幅に減少しており、信頼できる記録がとられるようになってから以降、一般住民の武力諸攻撃に伴う(そしてまた、ジェノサイドによる)諸死者数も減少している。・・・
 ・・・<更にまた、>戦後の大きな絵柄において、生きた人間が経験する殆ど全ての諸指標において、顕著な諸改善が見られる。
 <すなわち、>人間達の平均寿命は史上最長になった。
 産褥死の割合は空前の少なさになった。
 栄養不良の子供は史上最低水準だし、識字率は世界的に史上最高になった。
 一番印象的なのは、近年における、極度の貧困の減少だ。・・・」
http://opinionator.blogs.nytimes.com/2016/02/15/is-humanity-getting-better/?ref=opinion&_r=0

3 終わりに

 ご紹介した、この、ガーディアン掲載コラムの著者のレイフ・ウェナー(Leif Wenar)は、ロンドン大キングスカレッジの哲学・法学講座を担当している人物であって、コラムのタイトルは、「人間性は良くなってきているのか?(Is Humanity Getting Better?)」であるところ、コラムの内容は、羊頭狗肉だ、踏み込み不足だ、と言いたくなります。
 あえて、私の言葉でもう一歩踏み込むとしたら、17世紀後半から3世紀半の人類の科学技術の進歩には、とりわけ、イギリスで見た場合、目を見張るものがあり、その結果、集積された他人の富を奪い取るよりも、自分で富を稼いだ方が低リスク高リターンの時代になったおかげで、人類は、農業社会の到来とともに毀損されていた人間主義性を、意識的無意識的に修復しつつある、といったところでしょうか。
 いずれにせよ、今日ほど、世界が、人間主義が一度も毀損されることのなかった日本文明を、再発見し、直視し、そこから学ぶことが求められる時はない、と思うのです。