太田述正コラム#8202(2016.2.7)
<矢部宏治『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』を読む(その17)>(2016.5.24公開)

 「日本占領についての権限をめぐって米ソが対立し、その結果、極東委員会<(注25)>という、11ヵ国からなる日本占領に関する最高決定機関がワシントンに設置されることになってしまいました。(『日本国憲法誕生記』佐藤達夫著/大蔵省印刷局)・・・

 (注25)「終戦後の日本は事実上米国の単独占領のもとに置かれていたが、1945(昭和20)年12月のモスクワ外相会議の結果、日本占領管理機構としてワシントンに極東委員会が、東京には対日理事会が設置されることとなった。極東委員会は日本占領管理に関する連合国の最高政策決定機関となり、GHQもその決定に従うことになった。とくに憲法改正問題に関して米国政府は、極東委員会の合意なくしてGHQに対する指令を発することができなくなった。翌年1月17日、来日中の極東委員会調査団(来日中は、前身である極東諮問委員会として活動した)はGHQ民政局との会談の席で、憲法問題についての質問を行ったが、民政局側は憲法改正についての検討は行っていないと応じた。同月29日、マッカーサーは同調査団に対し、憲法改正については日本側に示唆を与えたものの、モスクワ宣言によりこの問題は自分の手を離れたと述べた。」
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/053shoshi.html
 「極東委員会<は、>・・・12月の<ソ・米・英>のモスクワ三国外相会議において、英・米・ソと中華民国、オランダ、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、フランス、フィリピン、インドの11カ国代表で構成されることが決定した。・・・極東委員会の任務は「極東委員会及聨合国対日理事会付託条項」の「甲 極東委員会」項において、
日本国が遂行すべき義務の基準作成および審議
軍事行動の遂行や領土調整に関して勧告することなかるべし
最高司令官の占領軍に対する指揮と日本における管理機構の尊重
とされている。
 極東国際軍事裁判(東京裁判)では、委員各国から判事を一人ずつ出す権利を持ち、日本国憲法の制定に当たっては、新憲法草案の最終採決には、委員会の承認を必要とするとした決議を採択した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%B5%E6%9D%B1%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A
 「対日理事会は、ワシントンD.C.にあった極東委員会の出先機関として設置された。1946年(昭和21年)4月から、1952年(昭和27年)4月までの期間に164回の会合が公開で行われた。人員は<米>国、<英>連邦・・・(<英国>、オーストラリア、ニュージーランド、インド)・・・、ソビエト連邦、中華民国の4者の代表で形成され、議長は連合国最高司令官の代理である<米国>代表が務めた。理事会の任務は、占領下の日本に対する降伏条項や占領管理などのGHQの指令の実施について、連合国最高司令官と協議し補佐することであった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BE%E6%97%A5%E7%90%86%E4%BA%8B%E4%BC%9A

 発言の真意は不明ですが、マッカーサーは1946年1月29日に、来日中の極東諮問委員会(極東委員会の前身)の調査団に対して、「日本の憲法改正問題は(略)自分の手を離れてしまった」とのべています。・・・
 チャールズ・ケーディス<(注26)>・・・はGHQによる憲法草案執筆プロジェクトの現場米責任者をつとめた人物なのですが、その<彼>が、GHQが憲法執筆をおこなう直前の1946年2月1日、マッカーサーに対して「憲法の改革(リフォーム)について」という報告書を提出しているのです。

 (注26)Charles Louis Kades(1906〜96年)。「ユダヤ人として<米>国ニューヨーク州ニューバーグに生まれる。ハーバード大学法科大学院を卒業後、弁護士となり、やがて・・・財務省に入省してニューディール政策推進に尽力した。第2次世界大戦が始まると<米>陸軍に属し、将校としてフランス戦線に従軍。最終的には大佐まで昇進した。1945年、第2次世界大戦終戦の直後に進駐軍の一員として来日。はじめGHQ民政局課長、やがて次長となり、局長コートニー・ホイットニーの下で日本の民主化を推し進めた。1946年、GHQ総司令官マッカーサーの命を受け、日本国憲法のGHQ草案作成の実質的な指揮を執り、ほぼ全ての内容を日本政府に受け入れさせた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BA%E3%83%BBL%E3%83%BB%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%B9
 「コートニー・ホイットニー (Courtney Whitney。1897〜1969年)。「1917年<米>陸軍に入隊。駐軍中にコロンビア・ナショナル・ロー・スクール(現・ジョージ・ワシントン大学)の夜間部に通って法学博士号を取得。1927年に除隊となり、その後1940年までマニラで法律事務所を開き、同時に鉱山などの事業活動を営む。1940年に軍に復帰。日本軍によるフィリピン全土の掌握に対し、マッカーサーの指揮下、オーストラリアの基地から、フィリピンの諜報活動を行ない対日ゲリラ活動を指揮して奪回作戦に従事。1944年、前線に復帰し、マッカーサーの下で戦った。日本のポツダム宣言受諾後の1945年8月30日、マッカーサーとともに厚木基地から日本に入国。准将の階級を持つホイットニーは、一時期フィリピンに戻ったが、同年12月15日に再び来日して連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ/SCAP) で民政局 (GS) の局長に着任、1946年2月3日のマッカーサーの指示によって翌2月4日、トップ・シークレットの憲法草案制定会議をGHQ内に設置しこれを主宰、以後、日本政府に手交するまでの期間、日本国憲法の草案作成を指揮した。ホイットニーは、日本の占領中から朝鮮戦争までを通じ、側近としてマッカーサーに仕え、その懐刀として活躍した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%9B%E3%82%A4%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%8B%E3%83%BC

 これは極東委員会の発足を目前にひかえ、「日本の憲法改正に関し、マッカーサー元帥が法的にどのような権限をもっているか」についてまとめたレポートでした。
 現在のこっているその報告書には、提出者として、コートニー・ホイットニー将軍(民政局長ケーディスの上司、ケーディスは民政局次長でした)のサインがありますが、のちにケーディス自身が、「私が書いて、ホイットニー将軍の了承とサインをもらってマッカーサー元帥に提出しました」とのべています。
 そして、「その[レポートの]なかで、われわれがもし、日本の憲法づくりをやろうと思うなら、その権限はあるのだ、という結論を出したのです」と証言しているのです。(『占領史録3』江藤淳編/講談社)
 そのレポートの内容を簡単にまとめると次の4点になります。
・マッカーサー元帥には、日本の憲法改正についての政策を決定する権限がある。
・ただしそれは極東委員会が発足するまでのあいだに限られる。
・極東委員会が発足したあとは、マッカーサー元帥が憲法改正についてなにか命令しても、<英国>、ソ連、・・・中華民国・・・のうち、一ヵ国でも反対すれば拘束力をもたなくなる。
・ただしその「命令」の意味は、「マッカーサー元帥から日本政府に対する強制的な命令」という意味で、日本政府自身によって提出された憲法改正案に対して元帥が承認をあたえるような行為についてはふくまれない。・・・
 つまり2月26日に予定されていた極東委員会の第一回会議までは、マッカーサーは日本の憲法改正について、なんでもできる権限をもっている。
 (→だからそれまでに草案の骨格をGHQ側でつくて、日本政府に受け入れさせておけばよい。その法的な権限はあります)
 また、極東委員会が発足したあとは、<英国>、ソ連、<中華民国>の主要国のうち一ヵ国でも反対するとなにもできなくなるが、日本国政府自身が提出した憲法改正案にマッカーサーが承認をあたえる過程については、だれも口出しすることはできない。
 (→だから日本政府がGHQの草案を受け入れたあとは、日本政府自身に日本語の草案をつくらせ、それに承認をあたえる、あたえないという形で条文をコントロールすればよい。その法的な権限はあります)
 そうケーディスは主張しているのです。」(175〜178)

⇒矢部が、ここで、下掲の背景事情の説明を省いたことは理解に苦しみます。
 「このまま<新憲法原案作成作業を>日本政府に任せておいては、極東委員会の国際世論(特にソ連、オーストラリア)から天皇制の廃止を要求されるおそれがあると判断し、総司令部が草案を作成することを決定した。その際、日本政府が総司令部の「受け容れ難い案」を提出された後に、その作り直しを「強制する」より、その提出を受ける前に総司令部から「指針を与える」方が、戦略的に優れているとも分析した。・・・
 2月13日に日本政府に提示された「マッカーサー草案」<を、日本政府は、>・・・22日の閣議で・・・受け入れを決定し、幣原首相は天皇に事情説明の奏上を行った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E6%86%B2%E6%B3%95
 私に言わせれば、日本政府、より端的には昭和天皇、は、「天皇制の維持」のため、『軍隊不保持』という主権確保の最大の手段の放擲、換言すれば、主権の毀損、を受け入れた、ということなのであり、米国は、米国以外の戦勝国の大半が求めていた「天皇制廃止」を回避してやることで昭和天皇/日本政府に恩を売り、その見返りに、昭和天皇/日本政府に、米国以外の戦争国の大半が求めていなかった『軍隊不保持』を受け入れさせることによって、既に実施していたところの(軍人の発言権剥奪を主たる狙いとした)公職追放と相まって、占領終了後も引き続き日本を米国の属国的地位に置こうとしたのです。(太田)

(続く)