太田述正コラム#8200(2016.2.6)
<矢部宏治『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』を読む(その16)>(2016.5.23公開)

 「戦後日本の社会科学における「最高権威たち」というのは、「あらかじめ決まっている結論」をウラからあたえられ、それを正当化するためには自説を180度変えても平気でいられる人物、「インテグリティ」の喪失にほとんど痛みを感じない人物ということが大きな条件になっているのです。
 ※・・・宮澤俊義<(注24)>・東大法学部教授<の唱えた>・・・「8月革命説」のアイデアそのものを思いついて、それを宮澤に教えたのは、東大の「憲法研究委員会」で書記役をつとめた政治学者の丸山眞男でした。(『丸山眞男集/別巻』岩波書店」)(169)

 (注24)1899〜1976年。「旧制長野中学、東京府立四中、第一高等学校を経て、」東大法卒。「美濃部達吉の弟子。・・・八月革命説は有名。また法哲学者である尾高朝雄との尾高・宮沢論争(国体論争)<下掲>も有名で、その他公共の福祉の解釈における一元的内在説の主張など、後の憲法学界に多大な影響を残した。司法試験などの受験界では「宮沢説」は通説であり、弟子の芦部信喜にその地位は引き継がれた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E6%BE%A4%E4%BF%8A%E7%BE%A9
 「大日本帝国憲法では天皇が日本の統治権者であったのに対し、日本国憲法は象徴天皇制と国民主権を採用している。この変革につき、・・・東京大学教授で法哲学者である尾高朝雄・・・は、与えられた具体的な条件の下でできるだけ多くの人々の福祉をできるだけ公平に実現しなければならないという筋道、すなわちノモス(社会制度上の道徳)に従った政治をしなければならず、主権が国政のあり方を決定するものであれば、主権はノモスに存在しなければならないとして、<旧憲法の>天皇主権であっても<新憲法の>国民主権であってもノモスの主権<という意味での国体>は変わらないとして、象徴天皇制と国民主権の調和を図った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BE%E9%AB%98%E3%83%BB%E5%AE%AE%E6%B2%A2%E8%AB%96%E4%BA%89
 尾高朝雄(おたか ともお。1899〜1956年)。「東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業した後、・・・初め外交官を志<し、>・・・一高、東京帝国大学法学部卒業<後、>・・・京都帝国大学文学部に進学し、文学部卒業後は大学院で哲学を研究する。京都帝国大学では西田幾多郎、米内庄太郎に師事した。
その後、法哲学研究者として京城帝国大学法文学部教授や東京大学法学部教授を歴任する。京城帝国大学助教授であった1928年11月13日からの約3年半の間、政府の奨学金で欧米に留学、ドイツ、イギリス、フランス、アメリカと在留した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BE%E9%AB%98%E6%9C%9D%E9%9B%84

⇒当時、東大名誉教授であった美濃部達吉が新憲法に反対したこと、また、宮澤が、美濃部同様、新憲法の必要性を否定していたにもかかわらず、新憲法ができるや「8月革命説」を唱えて新憲法擁護の立場に切り替えたことや、この「8月革命説」がいかなるものであったかについては、私には周知の話なので、引用しませんでしたが、丸山が「8月革命説」を宮澤に吹き込んだということまでは知りませんでした。
 いずれにせよ、名実ともに、宮澤も、丸山、川島、大塚らの近代主義者の範疇に入れてよさそうであるところ、吉田茂が、政府の方針に反対して全面講和を唱えた南原繁を曲学阿世と呼ばわった(コラム#1442)こととは正反対の意味で、つまりは、吉田ドクトリンに加担したところの、自民党/社会党の犬たる、宮澤を含む近代主義者達に対して、曲学阿世呼ばわりをしたいところです。(太田)

 「1946年の段階で日本人は、近代憲法というものをよくわかっていなかった。
 そしていまでもよくわかっていない。
 驚くべきことに東大の憲法学教授たちもふくめてそうなのです。・・・

⇒旧憲法を含め、日本の憲法には規範性がない、という主張を行っているのは世界中で私だけなのですから、規範性があると思い込んでいる点で矢部を責めるのは酷というべきですが、私自身は、美濃部も宮澤も、私に近い憲法観、すなわち、「近代憲法」=「欧米の憲法」を「よくわかってい」つつも、それらとは違って、日本の憲法には条文の文言に捉われない解釈の自由が認められており、認められなければならない、と考えていた、と見ているので、矢部のこのくだりには強い違和感があります。
 抽象的な話にとどめず、この際、美濃部の天皇機関説のキモは何だったのかを振り返っておきましょう。
 「天皇機関説<とは、>・・・統治権は法人としての国家に属し、天皇はその最高機関即ち主権者としてその国家の最高意思決定権を行使する<、というものであって、当初は、伊藤博文ら憲法起案者の意思や憲法条文に忠実な>・・・「天皇主権説が支配的」であったものの、その後、「1900年代から1935年頃までの30年余りにわたって、憲法学の<新たな>通説とされ、政治運営の基礎的理論とされ<るに至っ>た学説で<す>。」
 そして、そのキモは、「天皇大権の行使には国務大臣の輔弼が不可欠であ<って、>・・・慣習上、国務大臣は議会の信任を失えば自らその職を辞しなければならない」、との主張にあり、「民本主義と<相まって、憲政の常道、すなわち>、議院内閣制の慣行・政党政治と大正デモクラシーを支え」たところの、革命的学説であった点にあったのです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E6%A9%9F%E9%96%A2%E8%AA%AC (「」内)
 更に補足しておきます。
 「憲法」という言葉に関する日本語ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%86%B2%E6%B3%95
には、いわゆる聖徳太子の「十七条憲法」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%B8%83%E6%9D%A1%E6%86%B2%E6%B3%95
への言及がありませんが、「1875年(明治8年)4月14日に明治天皇が発した<いわゆる>・・・立憲政体の詔書」に「漸次に国家立憲の政体を立て」という文面が出てきており、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E6%86%B2%E6%94%BF%E4%BD%93%E3%81%AE%E8%A9%94%E6%9B%B8
当時、英語のconstitutionの訳語として「憲法」という用語が既に確立していたことが窺えます。 
 そして、実際に、制定されたところの旧憲法に大日本帝国「憲法」という名称が与えられた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E6%86%B2%E6%B3%95
ことが、「十七条憲法」的なもの、すなわち、尾高の言う「ノモス」的なものこそ、条文化されようがされまいが、日本におけるあらゆる法令の背後にある不文律なのであって、消極的に言えばこの不文律に違背しない限り、積極的に言えばこの不文律を時代・環境にふさわしい形で具体化するにあたっては、憲法の条文に捉われてはならない、という観念が、日本において、19世紀末までに、その指導層の間で、事実上確立させるに至った、というのが私の見解なのです。(太田)

 現在、「日本国憲法はGHQが書いた」という事実を否定しているのは、世界で日本の左派(リベラル派)だけです。
 ここに現在の日本の主権喪失状態が、アメリカのせいではなく、日本人自身の問題だという理由があります。」(173)

⇒前と後のセンテンスが論理的につながっていませんが、前後のセンテンスのいずれも、矢部の指摘の通りではあります。(太田)

(続く)