太田述正コラム#8178(2016.1.26)
<矢部宏治『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』を読む(その5)>(2016.5.12公開)

 「<前述の「在日米軍裁判権放棄密約」に関連してだが、>21歳の米兵が、46歳の日本人主婦を基地のなかで遊び半分に射殺した「ジラード事件」(1957年/群馬県)<(注5)>では、その日米合同委員会での秘密合意事項として、「[日本の検察が]ジラードを殺人罪ではなく、傷害致死罪で起訴すること」「日本側が、日本の訴訟代理人[検察庁]を通じて、日本の裁判所に対し判決を可能なかぎり軽くするように勧告すること」が合意されたことがわかっています。(『秘密のファイル』春名幹男/共同通信社)・・・

 (注5)「二等兵<が、>・・・M1ライフル装着グレネードランチャーで空薬莢[=空擲弾]を発射し、主婦が即死<した>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%89%E4%BA%8B%E4%BB%B6 (A)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%AC%E3%83%8D%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC ([]内)
事件。

⇒IQ90と軽い知的障害と言えないわけでもないジラードがもう一人の同僚と、遊び半分だったのか薬莢集め行為に対して警告する気だったのかは不明だがわざと薬莢をばらまいて被害者をおびき寄せた後、ジラードが、警告射撃のつもりで射撃した・・空擲弾に殺傷能力があるという認識が彼にはなかった可能性が高い(太田)・・こと、かつ、(休憩時間中とはいえども、米軍施設内でのことであり、また、ジラードがM1ライフル等を携行していたことから?(太田))米側は、彼らが任務中であったとの認識であったこと、
http://latimesblogs.latimes.com/thedailymirror/2007/06/soldier_kills_w.html (B)
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1325390123 (IQ90の評価)
からすると、もともと過失致死として、但し米軍法会議において、裁かれるべき事案であったと考えられますが、米側は、日本の世論の激高に配慮して、米国在郷軍人会(The American Legion)の強硬な反対が予想された(B)にもかかわらず、任務中ではなかったとの日本側の主張をあえて受け入れ、日本の検察と起訴内容についての暗黙のすり合わせを行った上で、日本側に措置を委ねた、ということではないでしょうか。(太田)

 それを受けて前橋地方裁判所<で>、「懲役3年、執行猶予4年」が確定。
 判決の2週間後には、ジラードはアメリカへの帰国が認められました。」(82)

⇒矢部は、これがとんでもなく軽い量刑だったと言いたいようであり、実際、米軍法会議で裁かれておれば、もう少し重い量刑になっていたと予想されているところです(B)が、裁判官の裁量の範囲内ではあるでしょう。(太田)

 「こうした形で司法への違法な介入がくり返された結果、国家の中枢にいる外務官僚や法務官僚たちが、<安保条約/地位協定や憲法/法令という>オモテ側の法体系を尊重しなくなってなってしまったのです。・・・

⇒戦後日本にウラ側の法体系も違法な介入もない、と申し上げてきたところですが、あえて言うならば、戦後の吉田ドクトリンが外務官僚達を中心に日本の官僚達を蝕んでいった、ということはあるでしょうね。(太田)

 ウラ側の法体系を無視した鳩山政権が9ヵ月で崩壊し、官僚の言いなりにふるまった野田政権が1年4ヵ月つづ<きましたが、>・・・鳩山さんには国民の圧倒的な支持があり、一方、野田さんが首相になるなどと思っていた人は、だれひとりいなかった。
 それでも野田政権は鳩山政権の倍近くつづいた。
 米軍関係者からの評価が非常に高かったからです。」(84)

⇒野田が、2002年に早くも民主党代表選に立候補していることや菅直人内閣で蔵相であったこと
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E7%94%B0%E4%BD%B3%E5%BD%A6
から、「野田さんが首相になるなどと思っていた人は」云々は成り立ちませんし、吉田ドクトリン一色の自民党内閣の首相なら、吉田ドクトリンに違背する政策を打ち出したら、官僚から総スカンをくらうのはもちろん、党内で孤立してしまい、辞任に追い込まれるのはもちろん、そもそも、そんな人物が首相になどなれないけれど、民主党は党内が吉田ドクトリン一色ではなかったからこそ、鳩山が、首相になれ、しかも、就任早々、吉田ドクトリンに違背する政策を打ち出した(注6)にもかかわらず、首相の座に9ヵ月もとどまることができたのです。

 (注6)「鳩山は総理就任早々に<米国>から日本に通達される拒否できない内政干渉リストとも言われる年次改革要望書を廃止した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A9%E5%B1%B1%E7%94%B1%E7%B4%80%E5%A4%AB

 鳩山が政権を投げ出ざるをえなかったのは、説得と人事権の行使によって、官僚の抵抗を排除しつつ、吉田ドクトリンに違背する政策を実行していくだけの、能力、器、そして、彼と一心同体となって彼を補佐する、議員を含む人材群、が彼にはなかったからに過ぎません。(太田)

(続く)