太田述正コラム#8166(2016.1.20)
<ロマノフ王朝(その5)>(2016.5.6公開)

 (4)総括

 「・・・ロマノフ王朝は、17歳のミハイルが、いまだ、海のものとも山のものとも知れず(ill-defined)、氏族間の競争関係と諸陰謀に苦しんでいた地の王冠をしぶしぶ受け入れた時である、1613年によろめきながら始まった。・・・」(B)

 「・・・ロシアの分裂的性格がこの物語を貫く。
 それは、近代主義者対伝統主義者、スラヴ好き対欧米化論者、アジア志向対欧州思考、啓蒙主義的合理主義対神秘主義、そして、ドイツ的秩序対ロシア的混沌、の狭間でこの国を引き割かんばかりだ。・・・

⇒ロシアの支配層と民衆との間に、もともと人種的文化的な違いがあり、その違いが拡大して行ったことが、ここで列記されているような、「分裂的性格」の背景になかったとは言いませんが、私見では、それよりもなによりも、ロシアの深層心理に蟠り続けているところの、モンゴルの軛の後遺症としての、安全保障上の緩衝地帯拡大への衝動であって、その手段ないし方法論を巡って、種々の対立軸が生じた、ということなのです。
 ロシアの本質とは関わりない次元のものであったからこそ、TPOに応じて、様々な諸対立軸を生まれ、また、その都度、当該対立軸を巡って、優勢な側、劣勢な側が生じた、というわけです。(太田)

 ロマノフ家の絶対主義的統治の基盤は、貴族に彼らの農奴達を完全に統制させることに依拠していた。
 他の何よりも、この協約(pact)があったればこそ、ロシアの政治、社会、農業、及び、農奴から成っていた諸軍、は<欧米に比して>遅れてしまった(held back)のだ。
 19世紀央に改革の諸試みがついになされた時には、それは既に遅過ぎた。・・・」(A)

⇒「ロシア農民は農奴制的なものが大好きである」(コラム#7094)わけですから、こんな主張はナンセンスに近い、と言うべきでしょう。(太田)

 ロシア人のピョートル<大帝>は、非常にプロイセンとフリードリッヒ大王(Frederick the Great)<(コラム#426、457、496、572、1362、3455、4336、4841、7286、7301)>に憑りつかれていたため、家僕達(household)にプロイセン軍の軍服を着せたりした。
 この反対極であるところの、デュートンとスラヴの間での、相互魅了(そして疑惑)は、第一次世界大戦と言う血なまぐさい大団円(end)まで続くこととなった。・・・」(A)

 (5)モンテフィオール批判

 第一に、例えば、サンクトペテルブルグ、デカブリストの乱、そして、農奴解放、といったロシア史の諸記念碑のよってきたる所以についての説明が殆どなされていない(barely evident)。
 もし、これが意図的な歴史の再解釈なのであれば、説明したくれた方がよかった。
 第二に、ロマノフ家の人々だけではなく、ロシア人達が、殆ど全員好色で暴虐的であるように描かれている。
 他の諸宮廷だって・・例えば、イギリスのヘンリー8世を思え・・洗練さの手本とは全くもって言い難いというのに・・。
 <しかし、かかる>ステレオタイプは、今日に至るまで持続している。
 ロマノフ家の人々は、彼らが統治したロシア人達同様、この著者の大著が示唆するところのものよりも、相当程度、より複雑だったし、同じことが彼らの後継者達についても言えるのだ。」(B)

3 終わりに

 私なら、より根源的なモンテフィオール批判をするところです。
 すなわち、ロシアは欧米との関係性だけで描くことはできない、と。
 そのアジア、就中、モンゴル(タタール)との関係性こそ枢要なのに、と。
 その、安全保障上の緩衝地帯拡大への衝動にせよ、ロシア農民は農奴制的なものが大好きであるにせよ、・・。

(完)