太田述正コラム#8162(2016.1.18)
<ロマノフ王朝(その3)>(2016.5.4公開)

 (3)露・欧/英米関係史

 「・・・人は、クレムリンのひるませるほど急な威厳の銃眼付胸壁それ自体を全くもってロシア的であると考えがちだが、それらは、1485年から95年の間に、イワン雷帝(Ivan the Great)<(注13)(コラム#3284、3473)>によって輸入されたイタリア・ルネッサンスの職人達の手になるものなのだ。

 (注13)イヴァン4世(1530〜84年。モスクワ大公:1533〜47年。初代モスクワ・ロシア・ツァーリ:1547〜74年、1576年〜84年)。「対外的には、東方への<タタール勢力を服属させる形での>領土拡大<には成功するも、・・・西部<への領土拡大>・・・は、完全な失敗に終わり、国内を激しく疲弊させる結果となった。内政面では、16世紀ヨーロッパにおける絶対君主制の発展の中で、ツァーリズムと呼ばれるロシア型の専制政治を志向し、大貴族の専横を抑えることに精力を傾注した。1547年の「全ルーシのツァーリ」の公称開始、行政・軍事の積極的な改革や、大貴族を排除した官僚による政治が試みられた。その反面、強引な圧政や大規模な粛清、恐怖政治というマイナス面も生じた。全土に渡って経済は低迷し、耕作地の放置が相次いだ。それを避けるために農民が土地から離れることを禁じた禁止年実施令は農民の領主への依存を強め、農奴制の下地となった。結果的に大貴族層は権力を保持し、イヴァン4世の亡き後のツァーリ権力の弱体化に乗じ、ロマノフ朝の成立までモスクワ国家を実質的に支配することになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B34%E4%B8%96

 1613年より後では、ロマノフ朝の皇帝達は、イギリス人ないしスコットランド人の傭兵達、職人達、及び医者達を雇ったけれど、彼らはロシアの人々からは隔離されていた。・・・
 エカテリーナ大女帝が即位すると、フランス語とイギリス・スタイルが宮廷で支配的になった。
 彼女とその愛人(partner)のポテムキン(Potemkin)<(注14)(コラム#765、4309)>は、自分達を「英国かぶれ(Anglomania)」と称した。

 (注14)グリゴリー・アレクサンドロヴィチ・ポチョムキン(1739〜91年)。(私は英語読みの「ポテムキン」を使ってきたところだ。)「ロシア帝国の軍人、政治家。・・・公爵で、・・・帝国秘密参議会参事官、軍法会議副議長、陸軍首席大将にして南部ロシア総督(クリミア総督)。エカ<テ>リーナ2世の愛人。・・・
 クリミア<を含む>・・・黒海北部沿岸の完全ロシア領化に成功した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%82%B4%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%9D%E3%83%81%E3%83%A7%E3%83%A0%E3%82%AD%E3%83%B3

 彼らは、レイノルズ(Reynolds)<(注15)(コラム#4808)>の絵画群を愛で、イギリス人の庭師達・・彼女の庭師は適切にもブッシュ氏と名付けられた・・を雇い、スコットランド人の建築家、チャールズ・キャメロン(Charles Cameron)<(注16)>をして新古典派的宮殿群を設計せしめ、ジェレミー・ベンサム(Jeremy Bentham)<(注17)(コラム#798、1707、3663、3875、6681、6855、7049、7051、7355、7558)>と彼の兄弟<(注18)>をして艦船群を設計せしめ、スコットランド人の提督のサミュエル・グレイグ(Samuel Greig)<(注19)>をしてその艦船群を指揮せしめた。

 (注15)ジョシュア・レノルズ(Sir Joshua Reynolds。1723〜92年)。「保守的でアカデミックな制作態度、および、「ロイヤル・アカデミーの初代会長」という肩書きから、権威におもねった旧弊な画家として、21世紀の今日においては否定的に評価されがちだが、長年独自の美術の伝統を築けずにいたイギリスにおいて、職業人としての画家の地位を確立した功績は大きい。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%83%8E%E3%83%AB%E3%82%BA
 (注16)チャールズ・キャメロン(Charles Cameron。1743〜1812年)。「スコットランド出身のロシアの建築家。クラシシズム様式の代表的な建築家で、個性的な表現力にあふれる作品を残している。また、一方でインテリアの設計にも長けていた他、優秀な画家としても著名であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%A1%E3%83%AD%E3%83%B3
 (注17)1748〜1832年。ウェストミンスター校、オックスフォード大卒・修士、リンカーン法曹院修了。生涯独身。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%AC%E3%83%9F%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%B3%E3%82%B5%E3%83%A0
 夭折した兄弟姉妹達を除けば、年の離れた唯一の弟のサミュエルをジェレミーは可愛がっており、ロシア滞在中の弟と頻繁に手紙を交わし、助言を与えた上、1785年〜87年の1年強、兄はロシアに滞在し、弟に協力した。弟と違って色恋沙汰には全く関心のない兄だったが、弟同様、金儲けには目がなかったことが伺える。
http://www.skeptically.org/utilitarianismtheethicaltheoryforalltimes/id23.html
 この話は、ジェレミーの英語ウィキペディアには全く出てこない。
 (注18)Samuel Bentham(1757〜1831年)。無学歴だが、イギリスの機械工学者にして艦船設計者(naval architect)。
https://en.wikipedia.org/wiki/Samuel_Bentham
 (注19)サムイール・カルローヴィチ・グレーイク(サミュエル・グレイグ。1737〜88年)。英海軍出身で最終的にロシア帝国海軍大将。「1764年に帝国海軍へ大佐として入隊し、・・・1770年<の>・・・チェシュメの戦い(チェスマーの戦い)では、オスマン帝国艦隊の焼き討ちに功を上げた。また、1788年にはバルト艦隊を率いてスウェーデンの艦隊をゴトランドの戦いで破っている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%BA%E3%83%8D%E3%83%BC%E3%83%95%E3%83%81_(%E6%B2%B9%E6%A7%BD%E8%88%B9)

 しかし、現在同様、当時も、英国かぶれは、英国政府とロシア政府の間の敵意と混ざり合っていた。
 <ところが、>エカテリーナの孫のアレクサンドル1世・・『戦争と平和』に出てくる皇帝・・の時になると、廷臣達の若干は、ロシア語よりもフランス語の方が堪能にな<るといった具合に、フランスかぶれにな>った。

⇒ロマノフ家の、観念上の、しかし、賢明な、アングロサクソン文明継受から血統上の、しかし、愚かな、欧州文明継受への悲劇的転換、と言うべきでしょう。(太田)

 アレクサンドルがナポレオンと戦った時、トルストイの英雄であるピエール・ベズーホフ(Pierre Bezukhov)<(注20)>はナポレオンとフランスの近代性を理想視(idolise)する一方でロシアの後進性を軽蔑した。

 (注20)「ピエール・ベズーホフ<は、『戦争と平和』の主人公だが>、著者の分身と見られ、彼の没落していくロシア貴族から、大地の上で強く生き続けるロシアの農民の生き様への傾倒へと続く魂の遍歴は、著者の心の動きの反映とも言われる。・・・名前を「ピエール」とフランス風に呼ぶ(ロシア風ならピョートル)という、当時のロシア貴族に対するフランス文化の影響も<トルストイは>描写している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%81%A8%E5%B9%B3%E5%92%8C

 そのナポレオンが1812年に<ロシアに>侵攻したことが、ピエールと<その恋人>ナターシャが自分達のロシア性を再発見させた。
 この、新しい時代精神は、アレクサンドルの後継者たるニコライ1世(Nicholas I)<(注21)(コラム#4320、6738、7135、7140、7266)>に擬人化した。

 (注21)1796〜1855年。皇帝:1825〜55年。「ニコライ1世の治世は専ら強権的な専制政治に貫かれ、1830年と1848年におこったポーランド立憲王国の自治権拡大運動を鎮圧した。この結果、それまで総督が統治していたポーランドは1830年の武装蜂起鎮圧後はロシアの直轄領となり、自治権も大きく制限された。また1848年には「<欧州>の憲兵」と称してハンガリーの独立運動を鎮圧した。対外的には汎スラヴ主義の土台を築き上げ、南下政策を推進した<が、成し遂げたのは>・・・アルメニアを併合<したくらいだ>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%82%A41%E4%B8%96

 彼は、正教のロシアを聖にして民族的な十字軍と見た。
 彼の<この>諸思い違い(delusions)は、それぞれの文化をロシア人達が崇め(かつ憤った)ところの、英仏によるクリミア戦争での敗北をもたらし、このことが、農奴達の解放、及び、『戦争と平和』及びドストエフスキー(Dostoevsky)の『罪と罰』・・この2作品を一つの新聞に連載させたところの新聞所有者は、文学史の中で恐らくは最大のスクープをやってのけた・・の形態での、ロシア文化のリベラル的開花、を促進した。
 トルストイは、この<ロシア>の遍歴(journey)を自身が行った。
 いばりくさり、フランス化した将校、及び、自分が所有していた農奴たる少女達に対する何かに憑りつかれたような女誑し、として出発しつつ、彼は、ロシアの農民を理想視した、清教徒的なキリスト教社会主義者として死んだ。

⇒これをドイツ化と見るのは必ずしも正しくないのであって、当時のロマノフ家や同家を取り巻くロシア貴族達はドイツ化していたのであって、当時のドイツが、フランス語の使用を含め、欧州内の相対的先進国であったフランスの強い影響下にあったが故に、彼らもまた、「フランス化」していた、ということです。(太田)

 <とまれ、>ロシアと西欧との間の相互魅了(fascination)は、昔からものであって、経験、妬み、恐れ、及び、尊敬に立脚していた。

(続く)