太田述正コラム#8130(2016.1.2)
<二松啓紀『移民たちの「満州」』を読む(その11)>(2016.4.18公開)

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[参考:楊海英と二松啓紀の誤り]

 楊は、漢人の内モンゴル進出が草原の農地化による砂漠化をもたらすとし、それをいわば大義に掲げて内モンゴル(のモンゴル人)の支那からの独立を主張していた(コラム#8086)わけだが、その論理を根底から崩してしまっているのが、下掲の遠山正瑛の事績↓だ。

 「・・・<中共>で生前に銅像が建てられたのは毛沢東と・・・遠山正瑛・・・さんの2人だけ<だ>・・・
 1906年、山梨県で生まれた遠山は、京都帝大で「砂丘地の特殊環境と適応作物の研究」と題した論文を書いて博士号を取得、砂漠でどう作物を育てるかの研究を続けた。・・・
 遠山にとって、<支那>での砂漠の作物栽培研究はまさにライフワークとなっ・・・た。戦前から国費留学生として取り組み、途中日<支>戦争などによる中断を挟んで、腰を据えて研究再開できるようになった1979年には、すでに70歳を過ぎていた。
 <支那>では毎年東京都の面積ほどの土地が砂漠化している事実から、「このままいくと食糧問題に悩まされる」と考え、砂漠での農業を指導。寧夏回族自治区内の砂漠でブドウの生産を成功させた。その後、内モンゴル自治区の恩格貝(おんかくばい)地区をポプラで緑化する計画に取り組んだ。・・・
 遠山は、砂漠化は人間が招いたことであり、人間が解決せねばならないとの信念を強く持っていた。また、<支那>で緑化活動を行なうことは、遣隋使、遣唐使の時代に我が国に文化を伝えてくれた<支那>への恩返しにもなると考えたようだ。・・・
 <彼は、>植林をし、さらに換金作物の栽培を指導して、貧しい地域の人たちの生活を改善した。・・・」
http://news.livedoor.com/article/detail/11019968/
(1月2日アクセス)

 すなわち、内モンゴルで、モンゴル人が牧畜生活を送ることこそできなくなるかもしれないけれど、砂漠化を回避する形でモンゴル人が漢人と共存していくことは、結果論ではあれ、可能であった、ということだ。
 もとより、漢人の流入がとめどなく続けば、砂漠化よりももっとひどい環境破壊が起こりうるけれど、中共当局による一人っ子政策の「成功」もあり、漢人の人口圧力そのものが軽減ないし解消されるに至っているから、その心配ももはやない。
 また、遠山が、支那の日本に対する過去の文化的貢献への恩返しを口にしつつも、日支戦争時における(、あるいは満州事変以降の、)日本の支那への加害への償いに言及していなさそうであるにもかかわらず、中共当局が、遠山に関し、高く評価し、深く感謝していることは、(彼らが、日支戦争を日本と「共に」戦った以上当然と言えば当然だが、)興味深いものがある。
 これは、二松の(現在の内モンゴルの一部を含んでいたところの)満州における日本加害者論の誤りもまた、間接的に浮き彫りにしている、と言えよう。
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 「満ソ国境線をめぐり、軍事衝突に発展した1939年のノモンハン事件では、日本側の死傷者が5月から9月までの間に1万8000人から2万3000人、ソ連側の死傷者が2万5655人・モンゴル軍556人を数えた(死傷者数はスチュアート・D・ゴールドマン・・・による)という。
 日本にとって最悪の軍事的敗北だった。」(160)

⇒ゴールドマンの数字の妥当性はさておき、死傷者数において、ソ連側の方が(モンゴル軍をカウントしなくても)上回っていたというのに、それだけで、どうして、「日本にとって最悪の軍事的敗北だった」という文章に繋がるのでしょうか。
 二松はまことに不思議な人です。(太田)

 「昭和20年12月に<もなると、>・・・満妻となり、あるいは満人に1人200円で子供を売る者が続出した。・・・当時の満州では、200円の価値は米15キロ程度ともいわれる。
 日本人女性に残された道は、中国人の妻<や妾>になって生き延びるか、収容所で餓死を待つかの二つだった。」(182〜183)

⇒敗戦から4ヵ月も経って日本円の価値がまだあったのが不思議ですが、二束三文であれ、日本人の子供が「売れた」ことにむしろ注目すべきでしょう。
 満州の人々の日本人に対する評価がいかに高かったか、ということです。(太田)

 「日本の敗戦とソ連の占領を経て東西勢力が入り乱れた満州では、中国国民党と中国共産党との対立から、都市や地域によって支配者が異なる状況が生じた。
 随所に検問所が設けられ、人や物資の流れが厳しく制限された。・・・
 敗戦直後、満州・・・では、中国人は日本人が武装解除したと知ると、次々と襲撃を仕掛けてき<て、>・・・徹底して略奪した。・・・
 <なお、>ソ連軍の略奪は軍事物資にとどまらない。
 製鉄、製鋼、製紙の各工場や、炭鉱や発電所など、大型の機械設備に及んだ。
 施設を解体し、スクラップ同然のまま輸送し、「工場のトタン屋根一枚、柱一本、ネジ一本にまで至った」とも表現された。
 つまり、満州のすべてを奪い去った。
 背景には、ソ連と同盟関係にあった中国共産党軍ではなく、敵対していた国府軍が軍事的に優勢だったからだという。
 <この>尋常ではない略奪行為が、在満日本人の生活に多大な悪影響を及ぼした。
 満州全体が深刻な食糧不足に陥り、飢餓と感染症を招く要因になった。・・・
 満州における日本人の死亡者は、日ソ戦闘間に約6万人、終戦以後に約18万5000人、合計約24万5000人に達すると推定される。・・・
 <なお、満州開拓民中関東軍に徴兵された人々を含む在満日本軍将兵はシベリアに抑留されたが、>強制収容所に入<れられ>た日本人は長期にわたって、森林伐採や鉄道建設、道路敷設などの重労働に従事させられた。・・・
 厚生労働省によれば、ソ連地域に抑留されたものは約57万5000人、死亡と認められるものは約5万5000人(このうちモンゴル約2000人)とされる。」(194、196、214、234)

⇒30万人超の日本人の死亡を含むところの、これらは全て、ソ連の責任であり、その国際法違反行為がもたらしたものです。
 なお、「ソ連と同盟関係にあった中国共産党軍ではなく、敵対していた国府軍が軍事的に優勢だったからだという」というくだりは伝聞調である上典拠も付されていませんが、私見では、そもそも、「中国共産党軍」と「国府軍」とは入れ替えなければならないのであって、典拠など探してもないはずです。
 何よりもかによりも、そんなことは理由に全くなっていません。
 満州の組織的略奪は、ソ連の醜悪さと貧しさがしからしめた蛮行であった、と言い切ってよろしいでしょう。(太田)
 
 「敗戦後の混乱さえなければ満州の生活が良かったとする声<が>・・・圧倒的に多い。・・・
 満州から帰り、浅間山の麓で再び開拓に励む・・・大日向の人たちの故郷への思いは複雑だったが、天皇に対する思慕は戦前と変わっていない。」217〜218、220)

⇒ここも、二松のスタンスに微妙にそぐわないのですが、彼はそれに気付いていないようですね。
 要するに、満州開拓民の人々は、自分達が満州において人間主義的に活動したと思っており、そのことに誇りを持ち続けたということだ、と私は思うのです。(太田)

(完)