太田述正コラム#8124(2015.12.30)
<二松啓紀『移民たちの「満州」』を読む(その8)>(2016.4.15公開)

 「満州移民を語る上で欠かせない存在が、長野県南佐久郡の大日向村<(注30)>だ。・・・

 (注30)「大日向村(おおひなたむら)は長野県南佐久郡にあった村。現在の佐久穂町大字大日向にあたる。・・・
 村民の約半数を・・・満蒙開拓移民<として、>・・・満州(吉林省)に送出し、1938年には現地に分村を成立させたことで、模範的な農村として政府から賞賛された。和田傳の小説やそれをもとにした国策映画『大日向村』(1940年、東京発声映画製作所)のモデルとなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E5%90%91%E6%9D%91

 小説『大日向村』の冒頭はみごとだ。
 貧しい村の農民は満州移民を志す道しかないと、読者の脳裏に強く植えつける。・・・
 <しかし、>現実の大日向村は、小説で描かれた貧しい農村像とは異なっていた。
 少なくとも、運送業・炭焼き業(林業)・鉱業という、農業以外からの多くの現金収入を得ていた土地柄だった。
 歴史的には、むしろ裕福な地域だった・・・。・・・
 <実は、>「大日向疑獄事件」の汚名を払しょくし、村の名誉回復こそが、新しく村政を担<った>・・・村長の思いであり、村人たちの願いになった<と思われるのだ。>・・・
 <ところで、>日中戦争が長引くにつれて、大日向村は大きな転機を迎える。
 ・・・大日向の諸鉱山が最盛期を迎え、鉄や硅石の鉱山が次々と復活し、1938年にはクロム鉱の採掘が始まったという。
 軍需景気にともなう鉱山景気だった。
 「人口過剰」だった大日向村では、移民を送り出すどころか、深刻な人手不足に陥った。
 小説がベストセラーになり、映画が全国で封切りとなった頃、現実の大日向村では、小説や映画の世界とは、真逆の物語が展開されていた。
 ・・・鉱山では、満州移民よりもはるかに多くの人々が働いていた・・・。
 ・・・大日向小学校<では、>満州移民<のおかげで>児童は激減したが、鉱山景気で再び増えた。
 朝鮮人労働者の子どもが転入したという。
 移民を送り出した大日向村が、村外からの移民を受け入れる村になっていた。

⇒ここは実に興味深いくだりです。
 第二次世界大戦に参戦することで米国経済が最終的に大恐慌の負の影響を脱するのと、似通ったことを、日本は日支戦争の勃発によって経験していた、ということが、こういったところからもよく分かろうというものです。
 この関連で改めて強調しておきたいのは、戦前は明るかった、とりわけ、日支戦争から大東亜戦争初期にかけての頃は、高度経済成長が緒に就いていたことから、明るかったはずだ、という点です。(太田)

 分村移民の模範村として注目を集めた時、大日向村では、すでに満州移民の意味が失われていた。
 実像ではなく、虚像の部分が「事実」として一人歩きし、その後の満蒙開拓団に多大な影響力を及ぼした。・・・
 <実像と言えば、実は、満州の>日本人村では、農耕に現地の「満人」の労働力を使わない村は一つとしてなく、多くの場合、農家が雇う満人の労働者は「苦力(クーリー)」<(注31)>と呼ばれていた。

 (注31)「奴隷制度が廃止された後、ヨーロッパ諸国の多くの植民地や<米国>で労働力が不足した。<英国>の植民地であったインド亜大陸の貧民層や、アヘン戦争後には、広東・福建両省を中心に、汕頭市、アモイ、マカオなどから労働力としてのクーリーが世界各地に送られた。当初はインド人労働者を指した呼び名であったが、後に<支那>人労働者に「苦力」という漢字をあてた。
 <米国>には大陸横断鉄道建設の労働者などとして使われ、<支那>からカリフォルニアに10万人以上が送られた。オーストラリアやマレーシア、マダガスカルなどにも、各々10万人程度が移住したとされる。
 正式な海外渡航は北京条約締結以後になるが、それまでにも事実上、<支那>からの苦力輸出は行われていた。その背景には<支那>での人口増加、太平天国以後の動乱があると考えられている。
 苦力は劣悪な環境で扱われたため、航海中や作業中に死亡することが多く、現地でも最下層の生活を送った。
 また日<支>戦争時には満州や日本の占領地でも苦力が使役された」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%A6%E5%8A%9B

 ・・・雇われるものの第一は、今まで開拓地内にあった原住民であって、日本開拓民が入って来たために、早晩この土地を去らねばならぬ運命にあるもの<だった。>・・・
 <すなわち、>満拓が土地買収によって立ち退かせた農民を雇う例も珍しくはなかった。
 開拓地の日本人は、「自作農」として新国家のために農耕に汗を流し、「満人」の信頼を得るべき模範たる大和民族ではなかった。
 地主化し、ただ寄生するだけの姿があった。」(76〜78、80、90〜92)

⇒異なことを承るものです。
 資金力のある植民者が農業経営者として現地の農業労働者を雇用することのどこが問題があるというのでしょうか。(太田)

(続く)