太田述正コラム#8122(2015.12.29)
<二松啓紀『移民たちの「満州」』を読む(その7)>(2016.4.14公開)

 「昭和恐慌から疲弊する農村を救済しようと、農山漁村経済更生運動<(注27)>が1932年から展開された。

 (注27)「1932年から実施された政府の昭和農業恐慌対策であり,農村救済運動として大々的に取り組まれた。当時は農業恐慌によって農村は娘売り,子売りをして生活費を得,肥料にするほしか(干鰯)やぬかを常食としている状態であった。また全国の欠食児童は20万人を超えていた。このような状況に対して,農本主義者を中心に農村救済請願運動が全国的に展開された。それは,農家負債3ヵ年据置き,肥料資金反当り1円補助,満蒙移住費5000万円補助の請願署名運動で,第62臨時議会(1932年6月)に向けて行われた。 」
https://kotobank.jp/word/%E8%BE%B2%E5%B1%B1%E6%BC%81%E6%9D%91%E7%B5%8C%E6%B8%88%E6%9B%B4%E7%94%9F%E9%81%8B%E5%8B%95-1194041

⇒農本主義がいかに戦間期の日本で大きな役割を果たしていたか、がこういったところからも見てとれますね。
 毛沢東が参考にしないはずがない、ということです。(コラム#8115参照)(太田)

 自力を説く精神運動の色彩が強かったが、全戸加入を原則とする産業組合の組織化を図り、農村経済の立て直しを目指す内容へと変わっていく。
1940年には全国の約8割が経済更生指定村になった。・・・
 経済更生運動も満州移民も、農村問題の解決を図る点で一致していた。
 農林省は当初、拓務省主導の満州移民に無関心だったが、しだいに関心を寄せるようになった。
 双方が結びついた結果が、村を単位とする満州分村移民だった。
 大量かつ効率よく移民を行うには、個人や家族よりも、村を単位とするほうが望ましい。
 1936年3月、宮城県南郷村(現在の遠田郡美里町)が先駆けとなって分村移民計画を立案した。」(57)

 「ブラジル移民の最盛期は1925年から34年までの10年間であり、この期間に、戦前のブラジル移民総数約18万9000人のうち、7割にあたる約13万1400人が移住した・・・。
 満州事変が起こった31年は一時的に落ち込むが、32年から34年までの間、約6万1000人がブラジルに渡った。
 排日意識の高まりもあって<(注28)>、34年7月の移民制限法によって、各国の年間移民総数を過去50年間の移民総数の2%に制限されたのを機に激減した。

 (注28)ブラジルでは、「増え続ける日本人移民に対する人種差別感情や、その成功に対する妬み、さらに1930年代に入り満州事変や日中戦争など日本の対外侵攻が相次いだことを受けて、日本人移民に対する排斥の動きがにわかに高まった。
 さらに、1930年に大統領に就任したジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガスが、移民のブラジルへの同化政策を進め(日本人移民のみならず、すべての移民に対して行われた)、ブラジルの公立学校での外国語の授業を禁止する法令を下し、これを受けて1938年12月には日本人学校の廃止が行われた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%B3%BB%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%B8%E3%83%AB%E4%BA%BA

 その後、しだいにブラジルから満州へと、日本人の海外移住先が置き換わっていく。・・・
 満州移民は移民史から見た場合、極めて異質な存在だ。
 低賃金で働く底辺の労働者ではなく、最初から支配層としての地位が保証されていた。
 また、「民間委託」のブラジル移民<(注29)>とは異なり、満州移民は「官製官営」だった。

 (注29)「ブラジル<では、かつては、>・・・移民の送り出しを数社の小規模な民間企業が行っていたが、<1917年の>日本人移民の再開を受けて同年に日本政府は「海外興業株式会社」を設立し、ブラジルへの移民の送り出し窓口を一本化した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%B3%BB%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%B8%E3%83%AB%E4%BA%BA
 「海外興業株式会社に東洋拓殖株式会社がくつ付いて居るだけでは其働きを充分に為すことは出来ぬ。茲に於て海外興業株式会社は・・・南米に於ては正金銀行、南洋に於ては台湾銀行或は是等の一般の地方に対して興業銀行とか言ふ矢張有力なる銀行即ち金融機関と相提携して働いて行く。斯う云ふ仕組みなつて居る・・・
 <ちなみに、>東洋拓殖株式会社なるものは・・・法律に於て附与されて居る所の移殖民に対する金融の権能を持つて居る、<また、>・・・東洋拓殖株式会社と云ふものは其の権能を提《ひつさ》げて自から進んで海外興業株式会社の株主となつて居る」
http://www.ndl.go.jp/brasil/text/t044.html

⇒ブラジル移民だって、「民間委託」ではあったけれど、そして、移民から手数料こそとった(上掲)けれど、かなり手厚く日本政府が面倒を見ていた、と言うべきでしょう。(太田)

 拓務省が所管し、道府県を窓口に市町村が創出計画を立案した。
 渡航費の補助から、渡航後の生活保障、貸付金や低金利の融資に至るまで、さまざまな優遇措置が整えられ、国や道府県が全面支援した。
 1938年度から本格化する分村移民は、誰もが広大な土地の所有者になれる、一夜にして豊かさを手にする印象さえあった。
 しかも受け入れ先の満州では、圧倒的な少数派だったにもかかわらず、異国の文化や言葉を身につける苦労は皆無だった。
 満州で暮らしても、日本人はあくまでも日本人だった。」(74〜76)

⇒満州移民を下げたり上げたり、二松も忙しいことです。(太田)

(続く)