太田述正コラム#8086(2015.12.11)
<楊海英『日本陸軍とモンゴル』を読む(その2)>(2016.3.27公開) 

 「満州人による王朝清の臣民だった中国人は、19世紀末から万里の長城を越えて、モンゴル草原に侵入してきた。
 モンゴル人の同盟者だった満州人はそれまで中国人の草原への入植を禁止していた。
 しかし、西欧列強の圧力に屈した清朝政府は莫大な賠償金を支払うことになり、収入を草原開墾による農耕地開拓に期待するように変わったからだ。
 人口増加を緩和する必要<に>も迫られていた。

⇒楊は典拠を示していません。
 同様、直接の典拠が付されていませんが、「モンゴル国」に関する日本語ウィキペディアには、「20世紀に入ると清朝は北方の自国領の人口密度を高くすることでロシア帝国側の侵略を防ぐ政策を実施し、それまでの辺境への漢人入植制限を廃止した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%83%AB%E5%9B%BD
とあるところ、少なくとも楊は、かかる主張を論駁しつつ持論を展開すべきでした。
 なお、モンゴルに隣接する満州に関しても、別の日本語ウィキペディアで、「清朝は乾隆5(1740) 年に満洲民族の故地である関外に封禁政策を実施し、それ以来外部の者とりわけ漢民族が入れないようにした。以来、モンゴル族、満州族などの少数民族の人口比率の多い人口希薄のところであった。<しかし、>19世紀後半になり、ロシアがシベリアからオホーツク海まで進出したのを見て、1860年に関外(現:黒竜江省)に派遣されていた特普欽将軍などが朝廷に献策して、開放策に転じ、関内からの移民を奨励して、直隷(現:河北)、山東からの、主に土地が少ないまたは、定住地のない漢民族の人々が移動し、荒地を開墾して住み着くようになった。1931年の満洲事変までに、数百万規模の人々が関内から移動したといわれている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%97%96%E9%96%A2%E6%9D%B1
と、上掲ウィキペディアと同趣旨の記述がなされているところです。(太田)

 300年近く続いた清朝治下の平和(パックス・マンチュリカ)を享受した結果、中国人は世界最大の民族に成長していた。

⇒ここも、歴史学者とは思えない記述ぶりです。
 「歴史的に見ると、中国の人口は、・・・人口増加と人口崩壊が周期的におとずれ<はしたものの、>・・・常に世界最大級の規模を維持し・・・<続け>た」
http://www.geocities.jp/cato1963/jinkou996.html
のですからね。(太田)

 モンゴル草原に侵入した中国人は農耕を強引に推し進めた。
 現地の生態学的環境を一切無視して犂を大地に入れて切り拓く。
 モンゴル高原は年間の降雨量が200ミリにも満たないところが多く、植生も貧弱なために、一度開墾されるとたちまち砂漠と化してしまう。

⇒ここは、楊の言う通りです。
http://dspace.lib.niigata-u.ac.jp/dspace/bitstream/10191/1068/1/18_0070.pdf (太田)

 草原の劣化は住民の貧困をもたらす。
 生活の基盤そのものが破壊されたモンゴル人と中国人との対立は烈火のごとく燃え盛り、各地で抵抗運動が勃発した。
 モンゴル人の草原を完全に占領して植民地にしよう、と中国人たちは1891年に大規模な殺戮行動に出た。・・・
 モンゴル人は数万人もの犠牲者を出した。・・・
 モンゴルは民族の存亡にかかわる危機を経験した。

⇒この事件を記述するインターネット上の典拠を私はまだ見つけることができていません。
 参考:南モンゴルの歴史:http://uygur.fc2web.com/south_mongolia3.html (太田)

 故郷の草原と伝統的な遊牧生活を守るためには、中国人の侵略者を駆逐して、民族独自の国家を創り、近代化を実現しなければならないと覚醒したのである・・・。
 以後、多くのモンゴル人は今日まで。この目標のために闘い続けてきた。」(9〜10)

(続く)