太田述正コラム#8076(2015.12.6)
<西沢淳男『代官の日常生活』を読む(その10)>(2016.3.22公開)

 「代官に発令され<ると、>・・・伝達(新任代官の師匠番)が関東代官○Xとなった旨、万事はXに指図を受けるべき旨が仰せ渡され<る。>
 師匠番はどの代官でも必ず付いたが、一通りの仕事の流ればかりでなく、代官をサポートする下僚の選定にも師匠番が大きく関与するので、その人物いかんによっては代官の将来をも左右しかねない。・・・
 おおむねどの代官も新旧代官の引き継ぎには3ヵ月程度を費やしている。・・・
 この3ヵ月が現代とくらべて長いか短いかは一概に言うことはできないが、新任として単に役所のトップが替わるだけでなく、原則スタッフすべてを選任してゼロから立ち上げ、遠国へ家族ともども引っ越すわけで、師匠番が付き、下僚の多くを経験者にしたとしても、文書主義の江戸社会において引き継ぎや作成文書は膨大であり、さぞ慌ただしかったことであろう。」(125〜126、137、140)

⇒(実例を紹介している原文には師匠番の本名が入っているけれど、一般論の形に書き直したこともあり、「○X」としたところ、)現在の官僚は、前任者から引き継ぎを受け、その後も、必要に応じ、前任者の所に赴いて、情報や助言を求めるのですが、江戸時代は随分至れり尽くせりのことをやったものです。
 現代においては、組織の鍵となる部下達(下僚達)は、基本的にその組織の長たる官僚の交替時に一緒に交替させないので、この官僚は、発令のその当日にすら、一応仕事(決裁)をこなすことができます。(太田)
 
 「江戸の社会において、贈答儀礼こそが幕藩制社会そのものであり、・・・付け届け・心付けは、・・・円滑な社会運営には必要悪(潤滑油)であった。
 驚かれるかもしれないが、贈収賄に関わる法令は、贈賄側の罰則規定があるだけで、収賄側にはな<かった>。
 しかも、罰則も軽く、大々的に摘発されている例はほとんど見られなかった。」(132〜133)

⇒四半世紀位前までの日本では、官僚社会で、お中元・お歳暮を、上司筋に送ったり、出入り業者からもらったり、或いはまた、出入り業者から酒食やゴルフ等の接待を受けたり、は当たり前のように行われていましたが、それもまた、江戸時代から引き継いだ「文化」であった、というわけです。(太田)

 「通常は江戸から出ることのなかった旗本にとって、生活環境の違う異国の地での暮らしは相当厳しいものであったようである。」(156)

⇒私は、官僚時代における地方勤務は、仙台(東北地方)だけでしたが、今では、仙台のみならず、国内ならどこに赴任しても「生活環境」が「違う」などということはまずないでしょう。
 他方、今でも、海外赴任にはある程度あてはまるでしょうが、私の場合は、二度の海外長期滞在がいずれも「留」学という気楽なものであったこと、また、行き先が米国と英国という「先進」諸国であったことから、「生活環境の違<い>」をそれほど意識せずに済みました。(太田)

 「徴税が主務である代官にとって、もっとも重要であった仕事が、税額を査定する検見<(注45)>である。

 (注45)「検見法は、代官が農村に赴き、田の一坪分を収穫高のサンプルとして刈り取り、脱穀してその田の規定収穫量を満たしているかを調べて、不足があった場合はそれを考慮してその年の年貢高を修正して課税した。これを坪刈(つぼがり)という。
 手順としては、まず村役人と農民が村の一筆ごとの出来具合を見分して内見帳と耕地絵図を作成。その後、代官の下僚である手代が、村民が作成した帳簿を元にして村内数か所の坪刈を実施し、村全体の生産量を推定する。この手代による事前の下検分を小検見(こけみ)という。小検見の後、代官による農村の巡回と坪刈を行い、小検見の結果と照らし合わせてその年の年貢高を決める。これを大検見という。
 検見法の問題点の1つは、代官や配下の役人による賄賂や接待の強要、また現地農民との癒着により課税額が増減されること。もう1つは、代官の検見が終了するまで耕地の農作業は一切禁止され、稲の刈取りもできなくなることである。この農作業の中断を鎌止め(かまどめ)という。時代が進むに連れ、農村では米だけを作る農業から、米の収穫後に別の作物を栽培する二毛作も行われるようになった。しかし、鎌止めになれば稲の刈取りもその後の作物の植え付けもできなくなるため、裏作を行う時期を逸してしまう可能性がでてくるのであった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%9C%E8%A6%8B%E6%B3%95

 ・・・在陣する代官と、江戸にいて検見のときだけ任地に赴く代官とではおのずと違いもあった。・・・
 <在陣しない代官の場合、>ほぼ毎年秋に訪れるのであるが、在陣日数はどの代官も20〜30日、検見日数は10日前後であった・・・。
 これでは、・・・正確に見分できるわけもなく、検見は通り一遍で、幕府の威厳を示すためのセレモニーと化していたともいえるであろう。
 こうした背景には、つぎのようなことがあったと考えられる。・・・
 <すなわち、>代官は年貢などの決定を元締<(注46)>に任せ、元締めは郡中惣代<(注47)>(役所の行政の一部を請け負う村々の惣代)に任せてしまってい<る、等。>・・・

 (注46)具体的に何を指すのか不明。
 (注47)「江戸時代の天領における村役人の代表。代官所の行財政の補完的役割を担うものとして江戸時代後半から置かれた。郡中惣代庄屋。郡中惣代名主。」
http://www.weblio.jp/content/%E9%83%A1%E4%B8%AD%E6%83%A3%E4%BB%A3
 「数か村ずつで形成した 組合村を代表する村役人を組惣代(惣代庄屋)といい,村庄屋が輪番で就任した。郡中惣代には組惣代が輪番で就任。年貢米の江戸・大坂輸送など代官行政の末端を担い,地域における共同訴願の代表者になった。」
https://wikimatome.org/wiki/%E9%83%A1%E4%B8%AD%E6%83%A3%E4%BB%A3
 「組合村<とは、>・・・江戸時代に村々が連合して組織した村々組合のこと。広くは前代以来の伝統を継承しながら江戸時代を通じて存在した各種の村連合や,領主支配にかかわって組織された村々組合をさす。用水組合や山野利用組合,貢納・夫役に対応して組織された代官所毎の組合や助郷(すけごう)組合,鷹場費用負担組合(霞組合)などが代表例である。これらを基盤としながらも,18世紀後半を画期として,治安維持や地域産業の発展を課題とした組合村が各地で結成されはじめた。この組合村は惣代を選出し議定を定めるなど,総合的な地域管理秩序の構築をめざす点で,従来とは性格を異にしたものであった。」
https://wikimatome.org/wiki/%E7%B5%84%E5%90%88%E6%9D%91

 <在陣する代官の場合、検見の他にも、(>幕府の民衆教化策として孝子、節婦、忠僕および奇特者を褒賞、80歳以上の高齢者の養老に米銭を給する制度があった<ところ、)>これにもとづき、廻村先に出向いた際に<これらを>おこな<う者もあった。>
」(166〜168)

⇒繰り返しになりますが、江戸時代には、エージェンシー関係の重層構造による、民間人参加型の行政が行われていた、ということです。
 このことから、行政の底辺が自律的でしっかりしており、いわば、神輿に乗っていたところの代官達は、災害時等の非常時を除き、基本的に、被治者達に対する教化や実利付き表彰等をやっておれば何とかなった、と言えそうです。(太田)

(続く)