太田述正コラム#8074(2015.12.5)
<西沢淳男『代官の日常生活』を読む(その9)>(2016.3.21公開)

 「後世名代官と称される人びとに共通しているのは、<その大部分が、>もとは御家人や厄介<(注40)>から累進し抜擢された人物で、儒学をはじめ文人的素養をもった人物である点である。

 (注40)「家長の傍系親族で扶養されている者」
http://gogen-allguide.com/ya/yakkai.html

⇒例によって、「儒学をはじめ」の部分に西沢は実例や典拠をあげていません。
 繰り返しますが、私は疑っています。(太田)

 これは、学問吟味の開始など、定信の文武奨励策からも、基本的に代官に求められていたものと思われる。

⇒学問吟味も前述した部屋住学問試の実例から推して、儒学というより、経世済民について(人間主義的)存念を問うものであったと考えられるのであって、だからこそ、西沢も、「思われる」と逃げているのではないでしょうか。(太田)

 政策的には、心学や教諭所を通じて根本的に民衆を教化し、一方的に年貢増徴などを押しつけるのではなく、農民納得のうえで徴税をする、あるいは間引き・堕胎の禁止、勤勉を説いたり、産業の振興や入百姓<(注41)>政策、各種手当の支給による農村復興、本百姓<(注42)>体制の維持、すなわち定信の重農政策を実践リードしていったことが挙げられる。

 (注41)「江戸時代、荒れ地などの多い村で、他村から移住させて耕作にあたらせた農民。」
https://kotobank.jp/word/%E5%85%A5%E7%99%BE%E5%A7%93-436448
 (注42)「石高・永高に換算できる田畑・屋敷地を持つ者、すなわち高持百姓を本百姓と称<し、>・・・本百姓に満たない者<を>水呑百姓と称<した。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E7%99%BE%E5%A7%93

 また、積極的に殖産興業を考える初期代官に見られたような事業家的なセンスも持ち合わせていたことも見逃せない。・・・
 もう一つの試みとして、陣屋支配の復活があげられる。
 関東幕領は、江戸時代初期には武蔵国八王子など各地の陣屋を拠点として支配がおこなわれていたが、五代将軍綱吉政権のころには廃止され・・・、代官は江戸に引き揚げ、陣屋を持たずに江戸役所から支配していた。
 ところが、北関東の荒廃が著しく、直接農村復興に対処すべく、ふたたび陣屋を設置していくことになったのである。・・・
 <そして、>各々立合(二名で一組)で入陣し、支配にあたった。
 ところが、彼らの身分は正式の代官ではなく、支配勘定もしくは支配勘定格の身分で勘定組頭直轄指揮のもとで幕領支配にあたったのである。
 これは、前に見た享保改革でとられた仕法に模して、既存の代官を牽制しつつ勘定所の意思を直接反映させようとの意図があったと思われ、小給御家人の人材登用策でもあった。
 1798年、各々吉川、岸本、山口の単独支配となり、1804(文化元)年揃って勘定へ昇格するものの、地方支配は継続された。・・・
 吉川貞寛は、20俵2人扶持の小普請組<(注43)>から<出発し、>・・・岸本就美は、美作国押入村(岡山県津山市)の庄屋の5男に生まれ、・・・山口高品は、越後国蒲原郡の出ともいわれ、・・・<要するに、>吉川は下層の御家人、岸本は農民から・・・山口もおそらくは農民ではなかったかと思われ、在方に熟知し、代官手付等の在方支配経験をふまえての登用であった。

 (注43)「旗本<は、>・・・江戸では江戸城の警備や将軍の護衛を行う武官(番方)、文官(役方、行政・司法・財政を担当)である町奉行・勘定奉行・大目付・目付などの役職に就いた。無役の旗本は3,000石以上は寄合、それ以下は小普請組に編入された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%97%E6%9C%AC
 「仕事のない御家人<も>・・・小普請入りをし<ます。>」
http://www.sumida-gg.or.jp/arekore/SUMIDA024/S024-6.html

 なお、1805(文化2)年に創設された関東取締出役<(注44)>(しゅつやく)というアメリカのFBIのようともいえる広域捜査システムがある。

 (注44)「勘定奉行配下。・・・俗に八州廻り、八州取締役とも呼ばれる。・・・
関八州の天領・私領の区別なく巡回し、治安の維持や犯罪の取り締まりに当たったほか、風俗取締なども行っている。但し御三家である水戸家領などは管轄外とされた。
 関東取締出役は代官所の吏員である手代・手付から任命した。彼らを支援するための下級役人として目明し(道案内)が主要な町村毎に任命された。
 元々、村々では無宿・浪人対策として組合村を結成することで治安維持を行っていたが、文政10年(1827年)2月には関東取締出役の甫諸組織として改革組合村の編制が行われ、数十か村の村々が大組合・小組合に編制された。
 関東取締出役は身分上は足軽格という比較的下層な身分であるにも関わらずかなりな権勢を誇っていたようで、本来は上級武士にしか許されない駕籠を乗り廻し大勢の従者を引き連れて廻村するなど弊害も大きかった。俗に「泣く子も黙る」と言われるほど、恐れられた存在であったという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E6%9D%B1%E5%8F%96%E7%B7%A0%E5%87%BA%E5%BD%B9
 「この組合は、四十、五十箇村を一つの単位として大組合としその中の三〜六箇村を小組合として組み合わせ、大組合には大惣代を数人、小組合には小惣代一人を代表者として選び、その運営に当らせました。そして、それぞれの組合に寄場(役所)をつくりました。・・・
 その後の「組合村」は、取り締まりのためだけではなく幕府からの下達機関として、いろいろなお触れの徹底に利用・・・されました。」
http://ghosts.s87.xrea.com/daylight/yore/yore-053.htm

 幕領・旗本領・大名領等が複雑に入り組んでいる関東では、幕領で罪を犯した者が他領へ逃げ込んだ場合、代官下僚は直ちに追尾逮捕できないという制度上の欠点があった。
 そこで、幕領・私領にかかわらず捜査・逮捕できる捜査官を創設したのである。
 これは、前出の・・・早川・・・<、>信濃国御影代官榊原長義<、>と吉川・山口の4人連名で建議されるが、吉川と山口はもとは農民として在方の暮らしぶりや捜査の欠陥を熟知していたからこそ可能であった。」(102〜106)

⇒徳川幕府は、幕府の治安関係を含む役人に民間人も取り立てるとともに、民間人組織を底辺とするエージェンシー関係の重層構造による治安機構を関東に作った、ということです。(太田)

(続く)