太田述正コラム#8058(2015.11.27)
<西沢淳男『代官の日常生活』を読む(その2)>(2016.3.13公開)

 「代官には、下僚として手代<(注4)>・手付がいた。

 (注4)「転じて、商家の従業者の地位をあらわす言葉ともなる。・・・旦那、番頭、手代、丁稚の順で位が低くなる。手代になると・・・給与が支払われる場合が一般的だった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%8B%E4%BB%A3

 手代は幕府官僚社会の外に置かれた非幕臣で、農民もふくめ広く庶民一般から登用される。
 各代官から勘定所<(注5)>への届け出だけで採用されるが、いつでも解雇される可能性のある、身分保障のまったくない、いうなれば現代の嘱託職員であった。

 (注5)勘定所<は、>・・・勘定奉行を長官として、勘定吟味役・勘定組頭・勘定・支配勘定などで構成されていた。役所は、<江戸>城内の「御殿勘定所」と大手門内の「下勘定所」のふたつがあった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%98%E5%AE%9A%E6%89%80

 しかし、農民が手代に採用されれば、即日苗字帯刀し、いわゆる侍姿になることができたのである。
 このことからもうかがえるように、江戸社会の身分は固定化されたものではなく、特に士の下層部と農工商上層部間の身分移動は常態的に見られた。
 身分的中間領域には手代に限らず、旗本家中、大名家中においても多数存在した。
 彼らは、リストラによる雇用調整弁として正規の家臣団へ組み込まれないパート的存在で、苗字帯刀しない中間(ちゅうげん)、小者や侍・足軽・若党・用人など、さまざまに呼称される苗字帯刀したにわか武士であるが、なかには才覚を認められたり、御家人株<(注6)>を購入することにより、本来の武士身分のなかに組み入れられていく者もあった。・・・

 (注6)「江戸時代には、御家人は知行が1万石未満の徳川将軍家の直参家臣団(直臣)のうち、特に御目見以下(将軍に直接謁見できない)の家格に位置付けられた者を指す用語となった。・・・
 江戸時代後期になると、富裕な町人や農民が困窮した御家人の名目上の養子の身分を金銭で買い取って、御家人身分を獲得することが広く行われるようになった。売買される御家人身分は御家人株と呼ばれ、家格によって定められた継承することができる役ごとに相場が生まれるほどであった。・・・
 御家人の多くは江戸時代中期以降、非常に窮乏した。諸藩の藩士は、家禄が100石(=250俵)あれば一応、安定した恵まれた生活を送れたとされるのに対し、幕府の御家人は100石(=250俵)取りであっても生活はかなり苦しかったと言われる。御家人は大都市の江戸に定住していたため常に都市の物価高に悩まされ、また諸藩では御家人と同じ程度の家禄を受けている微禄な藩士たちは給人地と呼ばれる農地を給付され、それを耕す半農生活で家計を支えることができたが、都市部の御家人にはそのような手段も取ることができなかったことが理由としてあげられる。窮乏した御家人たちは、内職を公然と行って家計を支えることが一般的であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E5%AE%B6%E4%BA%BA

⇒御家人株を買って御家人になれば、更に旗本に成り上がることも不可能ではありませんでした。
 「有能な御家人は旗本の就く上位の役職に登用されることもあり、原則として布衣<(後出)>以上の役職に就任するか、3代続けて旗本の役職に就任すれば旗本の家格になりうる資格を得られた。」(上掲)
 つまり、江戸時代は、身分制社会では必ずしもなかった、ということです。(太田)

 「殊の外に賤しき者」(『政談』<(注7)>)とされる手代は、いわばもとは庶民であったので、往古は野差(のざし)と称する長脇差一本を帯び、両刀は差していなかった。

 (注7)「荻生徂徠の著。4巻。享保年間 (1716〜36) に成稿。江戸幕府要人の諮問に答える形式で述べられた幕政改革についての意見書で,政治論,経済論を展開している。」
https://kotobank.jp/word/%E6%94%BF%E8%AB%87-86205

 また、公務によって諸役所に出頭する際も幕臣であれば大刀を手に提げて玄関を昇り、奉行・諸頭の公席に召される際も脇差が許されるが、手代は許されなかった。
 一方の手付は、寛政改革期(1787〜1793年)に新たに設けられたもので、職務は同じであるが身分は手代と異なり微禄といえども御家人であった。」(40〜41)

 「代官もふくめた旗本がまずめざしたことは布衣場(ほいば)へ出る(布衣という格式相応のポストに就く)ことであった。
 布衣とは無紋の狩衣のことである。
 これを江戸城中儀礼の場で着用することは、朝廷の位階を従五位<(注8)>までしか認めなかった幕府において、従六位相当の者であることを証明するものであった。

 (注8)「近代以前の日本における位階制度では、従五位下以上の位階を持つ者が貴族とされている。・・・江戸時代以降は、家門大名のうち傍流にして知行の少ない家、譜代大名、10万石に満たない外様大名、或いは大身の旗本はみな従五位下に叙せられ、主に大名・有力旗本、ないし御三家・御三卿及び家門筆頭の福井藩の家老及び加賀藩の家老本多氏、長州藩の支族吉川氏が岩国藩として立藩を認められた際に叙せられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%93%E4%BA%94%E4%BD%8D

 旗本の身分は、諸太夫<(注9)>もふくめ布衣以上の役人と、布衣以下の役人とに大きく二分される。

 (注9)「五位の大名・旗本が・・・この職名で呼ばれた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%B8%E5%A4%A7%E5%A4%AB

 布衣以上の役人は江戸城でおこなわれる、さまざまな城中行事にも諸大名と同様に参加する資格を得た。

(続く)