太田述正コラム#8040(2015.11.18)
<鄭大均編『日韓併合期ベストエッセイ集』を読む(その4)>(2016.3.4公開)

 「大正7<(1918)>年12月の末、南大門の洋服店・・・の主人小林源六氏が、店の前の塵芥(ごみ)箱の中に寝ている乞食の子を見て、此んな寒中、あんな所に寝て居ては、屹度死ぬ者もあろうと可哀想に思い、せめて厳寒三箇月程の間だけでも、何処か家の中に過させたなら、命拾いをするであろう、然し自分一個の手で其世話をするという事も出来ぬというので、これを救世軍<(注1)(コラム#1577、3620、5900、6006)>の手で何とかならぬだろうかと相談せられたので、救世軍本営では快く引受け、小林氏の寄附金を基として早速其事業に取かかることとなったのである。

 (注1)「救世軍(・・・The Salvation Army)は、世界126の国と地域で伝道事業(=宗教活動)、社会福祉事業、教育事業、医療事業を推進するキリスト教(プロテスタント)の教派団体。・・・1865年にイギリスのメソジスト教会の牧師、ウィリアム・ブースと妻キャサリンによって、ロンドン東部の貧しい労働者階級に伝道するために設立された。設立当初は「キリスト教伝道会」(東ロンドン伝道会)と称する超教派の伝道団体だったが、軍隊式の組織編制、メンバーの制服・制帽・階級章類の着用、軍隊用語の使用などを採用し、1878年に「救世軍」と改称した。・・・1880年代に爆発的に教勢が伸張し、ブリテン諸島から海外に拡大した。改称に伴い、教理もメソジスト・・・色が濃いものとなっていく。・・・国際連合経済社会理事会 (ECOSOC) において1947年以降、特別協議資格を持つ国連NGOである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%91%E4%B8%96%E8%BB%8D

⇒救世軍は人間主義的なイギリス人が創建したところ、その救世軍にいた人間主義者たる日本人を利用して人間主義者たる在朝鮮の日本人が子供達に対する福祉事業に乗り出した、というわけです。
 少なくとも、当時の京城のような都会には、朝鮮人に差別的でなく親切な日本人が少なからずいたことは間違いありません。
 従って、任文桓の前出の主張が成り立つためには、朝鮮の田舎に限っては、差別的でなく親切な日本人が殆んどいなかった、ということでなければならないところ、そんなことは考えにくいのであって、やはり、任は筆を枉げている、と断じざるべからずでしょう。(太田)
 
 20人程の子供は集まりました。
 連れ戻って見ると、髪は茫々と長く縺れ、身体は触れば剥ける程垢が積っている。
 着物(というより捲つけた布)は虱が行列していて、かなり離れて居ても悪臭に堪えぬ程でした。
 其場で頭を刈り、風呂に入れ、襤褸(ぼろ)は皆焼いてしまい、着物を着せましたら、連れて来た人さえ見違える様になりました。
 皆頭を撫で廻して温いストーブの傍にたかって談笑していました。
 其時分困ったのは野獣的な生活をして来た彼らが便所を用いる事を知らぬ事でした。」(158〜159・石島亀治郎:「1887〜1941年、埼玉県行田に生まれる。中学中退後、救世軍に入り、京城育児ホームや清瀬療養所等で勤務。「ホトトギス」の雑詠で学んだ俳人で、石島雉子郎(いしじま・きじろう)の俳号を持つ。雉子郎句集」「京日俳句抄」などの作品がある。」(433))

⇒そもそも、江戸時代においてすら、日本には(大人であれ子供であれ)乞食など殆んどいませんでした。
http://d.hatena.ne.jp/jjtaro_maru/20120830/1346331966
 しかも、「江戸日本人は子供を神聖なものとしてとらえていて、それゆえ子供を大切にし、子供を中心に据えて生活をしてい・・・た」のであって、「イギリス公使 オールコック<ならずとも、>・・・ここは捨て子の養育院は必要でないように思われる」といった感想を記したくなる社会であった日本
http://d.hatena.ne.jp/jjtaro_maru/20120828/1346154668
と朝鮮とでは、子供達だけをとっても、その境遇が天国と地獄くらい違っていた、ということです。
 これほど異質な文明の社会をわずか35年間の統治で日本文明の水準近くに引き上げることなど不可能だったのは当然でしょう。(太田)

 「浅川巧<(注2)(コラム#403)>・・・さんが大正12<(1923)>年来、柳宗悦<(コラム#403)>君や伯教<(注3)>君と協力して朝鮮民族美術館を建て、多くの価値ある工芸品を蒐集して、世間をして朝鮮工芸の価値を認識せしめた功労は、今更喋々するまでもない。

 (注2)1891〜1931年。「朝鮮民芸・陶芸の研究家・評論家。朝鮮半島で植林事業を行う傍ら、朝鮮半島の陶磁器と木工を研究紹介した。彼の墓はソウル郊外の・・・共同墓地にある。・・・山梨県立農林学校に入学し、・・・同年・・・メソジスト甲府教会で受洗。1909年・・・には秋田県大館営林署に就職。1914年・・・には兄を追って朝鮮半島に渡り、・・・朝鮮総督府農商工部山林課林業試験場に就職し、養苗や造林研究に従事する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E5%B7%9D%E5%B7%A7
 (注3)浅川伯教(のりたか。1884〜1964年)。「朝鮮古陶磁研究者。・・・浅川巧は弟。・・・山梨県師範学校に学び、県内で小学校教諭となったが、甲府キリスト教会での・・・出会い<を通じ>朝鮮王朝の美術に憧れ、1913年・・・韓国併合3年目の朝鮮半島に渡る。当初朝鮮陶磁の「青磁」に惹かれていたが、偶然目にした日常の器「白磁」に魅了され、柳宗悦(思想家・民芸運動創始者)に紹介。これが朝鮮王朝時代の白磁が日本で初めて注目されるきっかけとなる。1924年・・・日本植民地下の京城(現ソウル)に、柳宗悦・弟巧と文化擁護と継承のため「朝鮮民族美術館」を設立。また、朝鮮陶磁の研究のため半島700箇所余の窯跡と日本の窯業を調査し、500年間に及ぶ朝鮮陶磁の歴史をまとめあげた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E5%B7%9D%E4%BC%AF%E6%95%99

 この事業に対しても巧さんの態度は常に無私であった。
 尤(もっとも)品は皆これを美術館に寄せ、自分の持って居るものには、見所はあっても傷の多い欠けたものが多かった。
 こういう態度も今の世には殊に有難い態度であって、学んでも仲々り得ない所であろう。・・・
 芸術の愛好者であり、独立不羈の性格者であり、自分唯一人の境涯を楽しむすべをかほどまでも解して居た我が巧さんは、実に類稀な感情の暖かい同情の豊かな人であった。
 そうしてそれは実に朝鮮人に対して殊に不覚現われたのであった。・・・
 <亡くなった時、>親族知人相集まって相談の結果、巧さんに白い朝鮮服をきせ、重さ40貫もあったという二重の厚い棺におさめ、清涼里に近い里門里の朝鮮人共同墓地に土葬したことは奇をこのむ仕業でも何でもなく、実にこの人の為に最もふさわしい最後の心やりであった。
 里門里の村人の平生巧さんに親しんで居た者が30人も棺をかつぐことを申出でたが、里長はその中から10人を選んだという。
 この人達が朝鮮流に歌をうたいつつ棺を埋めた光景は、誠に強いられざる内鮮融和の美談である。」(164、172、176〜177・安倍能成(コラム#1437) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%80%8D%E8%83%BD%E6%88%90

⇒朝鮮で顧みられていなかった文物が日本人のおかげで再評価されるようになったものは、朝鮮民芸品や美術品に限らなかったであろう、と思わせる、浅川兄弟及び柳宗悦の事跡ですね。
 しかも、加納治五郎を叔父に持つ海軍少将の息子で、学習院、東大卒の柳
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E5%AE%97%E6%82%A6
とは違って、浅川兄弟は、決してエリートではなかったにもかかわらず、朝鮮という新天地で大きな仕事を成し遂げたことにも注目すべきでしょう。
 韓国の人々が、浅川兄弟らに対して、現在、いかほどの敬慕と感謝の念を抱いているのか、想像したくもないですね。(太田) 

(続く)