太田述正コラム#8034(2015.11.15)
<鄭大均編『日韓併合期ベストエッセイ集』を読む(その1)>(2016.3.1公開)

1 始めに

 タイトル通りのシリーズです。
 これも、結構深刻なテーマのシリーズではあるけれど、私としては、このところ、深刻過ぎるテーマのコラムやシリーズが続いたので、一息入れたいという気持ちです。
 K.Kさんご指導の下で所有パソコン群のWindows10への切り替え作業が進行中で、そちらにも時間を割かなければならないこともありますし、そろそろ年末のオフ会の準備も始めなければなりませんのでね。
 なお、編者の鄭大均(1948年〜)は、「首都大学東京都市教養学部特任教授。専攻は東アジアのナショナル・アイデンティティ、日韓関係論、在日外国人。・・・2004年・・・に日本に帰化。妻は韓国の大学教員。・・・カリフォルニア大学ロサンゼルス校修士課程修了・・・在日韓国・朝鮮人論も、その被害者性を強調する従来の在日論とは異質の議論を展開している。在日コリアンに日本への帰化を勧めるとともに、韓国系日本人(元在日外国人)の立場から、永住外国人への地方参政権付与に反対し<ている>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%84%AD%E5%A4%A7%E5%9D%87
という人物です。

2 エッセイから

 「内地にいれば、<例えば、>まだ地方の小学校の一教師にすぎないだろう日本人も、当時、植民地へ行けば、若くても出世して校長になれる、ということがありました。
 そのため、日本では報われない人たちが、新天地をもとめて植民地へきていたのです。」(23・五木寛之 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E6%9C%A8%E5%AF%9B%E4%B9%8B

⇒米国人の原型の一つであった一発屋的な日本人が植民地時代の朝鮮半島には少なからずいた、ということです。(太田)

 「軍人は景気不景気には左右されない職業で、給料も外地手当がついていたし、住居は官舎で家賃もいらないから、経済的には内地勤務よりよほど楽だったはずである。」(29〜30・安岡章太郎 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%B2%A1%E7%AB%A0%E5%A4%AA%E9%83%8E

⇒命ぜられるまま赴任した、「恵まれていた」日本人はこんな感じであったわけです。(太田)

 「私の中学時代、国史の授業のときのことでした。・・・
 先生いわく、「・・・日本の文化は、みんな朝鮮から伝えられたのだ・・・しかし、朝鮮人はその後、勉強しなかったから、こんなありさまになってしまった。
 お前たちもしっかり勉強しないと、朝鮮人と同じようになってしまうんだぞ」」(47・田中明 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E6%98%8E_(%E9%9F%93%E5%9B%BD%E5%AD%A6%E5%AD%A6%E8%80%85)

⇒田中は批判的なのですが、この先生の言っている通りではないでしょうか。(太田)

 「太平洋戦争が始まり、いわゆる"内鮮一体"というスローガンが叫ばれ始める。
 そうしますと、・・・この当時にできた中学校は、みんな日本人と朝鮮人の生徒が半々で構成されるようになります。」(55・同上)

⇒植民地時代の大部分、小・中とも、日本人と朝鮮人が分離されていたのですね。(太田)

 「あの当時の朝鮮や満州には、本土からアブレた人間たちが、しょっちゅう動き回っていたような感じがしますね。」(62・同上)

⇒一発屋にも、上出のカタギの一発屋もいれば、このようなヤクザの一発屋もいた、ということです。(太田)

 「小学生時代、私が一緒に遊んだ仲間<ですが、>・・・年は向こうが一つか二つか上で、ちょっとガキ大将といったところがありました。・・・
 日中戦争がはじまります<と、>・・・<その彼が、>ほこらし気に戦況報告をまくしたてる。・・・
 私には奇妙な気がしました。
 彼はいつも、日本人はけしからんといった態度をとっていた。
 そのけしからん同じ日本の軍隊が、いくら勝ちまくっているからといって、お前がそういばらくてもいいじゃないか…。」(62〜64・同上)

⇒「内鮮一体化」が意識の上でも相当進んでいた、という印象を、改めて持ちますね。(太田)

(続く)